円居短歌会は、インターネット短歌会です。題詠が出され、一ヶ月に一回、題詠歌と自由題歌の二首を期日までに、会の主宰者に送ります。全員の歌を纏めた主宰者から、全会員のE-メールのアドレス宛に、歌が送られます。送られた歌に、全員が講評を書いて、期日までに主宰者に送り返します。主宰者が全員の講評をまとめたものを送り返しますので、講評を読み、講評を参考に、もう一度推敲しなおして、最終歌を主宰者に期日までに送り返します。
以上のような手続きを経て、最終歌が北米報知(シアトルで発行されている邦字新聞)に毎月一回掲載されます。
このブログを読んで、このインターネット短歌会に入会したい、という方は、どこに在住していても構いませんので、下記に連絡をして下さい。
メールアドレス638chiyoko@gmail.com
にご連絡下さい。
このブログは円居短歌会の学習とコミュニケーションの広場です。会員の皆様はご自由にトピックスやコメント等を書き入れてください。円居短歌会では現在会員を募集中です。あなたが今お住まいの地域にとらわれずにインターネットと電子メールが使えればどこからでも参加できます。あなたもぜひ短歌を作ってみませんか。会についての詳細は638chiyoko@gmail.com までご連絡ください。
2013年12月14日土曜日
2013年11月26日火曜日
2013年11月合評
担当:宇津木千代
今月取り上げたい、これという特徴ある歌がなかったのですが、白樺さんの題詠歌を選びました。題詠の題材が面白かったのです。私の恩師は88歳で亡くなりましたが、病に倒れる2年前までは、あちこちと会合や講演に出歩いたり、本を書いたり休む閑なく何かをしていました。「もう少しゆっくりなさったら」という周囲の言葉に、いつも応えていた言葉は「いずれ永遠にゆっくりできるよ」ということでした。白樺さんの歌は、久しぶりに恩師を思い出させてくれました。講評を経て、推敲し、白樺さんが最終歌を提出されましたが、すでに”憩い”という言葉が墓石に彫り込んであるものを詠んだのなら、なぜ結句が疑問符で終わっているのでしょうか。この墓碑を造った人は、当然”終の棲家”としたのでしょう。そこで、私は、自分の墓碑を考えていて、「そうしようかな?」ということだったと、解釈したわけです。「・・・なさんとするらし」なら、他人の墓碑をみて詠んだ、ということがよく分かるのですが・・・。
今月取り上げたい、これという特徴ある歌がなかったのですが、白樺さんの題詠歌を選びました。題詠の題材が面白かったのです。私の恩師は88歳で亡くなりましたが、病に倒れる2年前までは、あちこちと会合や講演に出歩いたり、本を書いたり休む閑なく何かをしていました。「もう少しゆっくりなさったら」という周囲の言葉に、いつも応えていた言葉は「いずれ永遠にゆっくりできるよ」ということでした。白樺さんの歌は、久しぶりに恩師を思い出させてくれました。講評を経て、推敲し、白樺さんが最終歌を提出されましたが、すでに”憩い”という言葉が墓石に彫り込んであるものを詠んだのなら、なぜ結句が疑問符で終わっているのでしょうか。この墓碑を造った人は、当然”終の棲家”としたのでしょう。そこで、私は、自分の墓碑を考えていて、「そうしようかな?」ということだったと、解釈したわけです。「・・・なさんとするらし」なら、他人の墓碑をみて詠んだ、ということがよく分かるのですが・・・。
*憩いとふことば墓石に刻みゐて終の棲家となさむとするや (萩)もう既に〝憩う“と刻んであるのですね。〝憩うということば”は少し説明的な感じがするので「墓石に憩うと刻み~~」というような始まりではどうかと思いました。
(千代)まだ墓石に刻んでいないわけですよね?これから刻むわけですね。「刻みゐて」は、おかしいです。例えば、「墓石には憩ひとふ言葉刻み置かむ終の棲家の表札として」
(中井)これはアメリカの異邦人(日本人)のお墓なのでしょうか。墓石に彫った言葉に自分の心を投影している様子がとてもよく出ていると思います。
(北里)日本では「終活」というのがちょっとしたブームです。生きている内から死んだ後のこと考えることは大切なことだと思います。自分は死んでアメリカの地に葬られることが考えられませんでしたので、この歌には覚悟のようなものを感じます。墓石の言葉としての「憩い」はもちろん英語でなのでしょう。(もも)「憩い」という言葉が墓石に刻んであり、その家が今生最後の住処だという意味だと思うのですが、これは主語が無いところを見ると主語は「吾」だと理解しました。
(千代)まだ墓石に刻んでいないわけですよね?これから刻むわけですね。「刻みゐて」は、おかしいです。例えば、「墓石には憩ひとふ言葉刻み置かむ終の棲家の表札として」
(中井)これはアメリカの異邦人(日本人)のお墓なのでしょうか。墓石に彫った言葉に自分の心を投影している様子がとてもよく出ていると思います。
(北里)日本では「終活」というのがちょっとしたブームです。生きている内から死んだ後のこと考えることは大切なことだと思います。自分は死んでアメリカの地に葬られることが考えられませんでしたので、この歌には覚悟のようなものを感じます。墓石の言葉としての「憩い」はもちろん英語でなのでしょう。(もも)「憩い」という言葉が墓石に刻んであり、その家が今生最後の住処だという意味だと思うのですが、これは主語が無いところを見ると主語は「吾」だと理解しました。
(白樺) “憩”という言葉はもう墓石に刻んであります。しかしそれは、私自身の墓石ではなく、まだ健在の日本の親類の人のものです。早々と十年以上も前に墓石にこの言葉を刻んでいたようです。あの世で憩うことを夢見ながらも現世でも趣味の写真撮りに歩きまわっているようです。
*憩ひとふ言葉墓石に刻みゐて終の棲家となさむとするやも
2013年10月30日水曜日
十月の短歌と合評
担当:北里
今月は宇津木さんの歌を取り上げます。10月の題詠は「葡萄」でした。
原歌;花も実も付けず葡萄の木十余年今年もしみらにしらっと葉揺らす
宇津木さんの原歌にある「しみらに」という言葉は、今ではあまり使われいない言葉です。私も最初「しみらに」の意味がわかりませんでしたので、辞書を見ました。言葉一つが分からずに歌が理解できないというのはさみしいことだと思いますが、その言葉の意味が分かると目の前がパッと開けた感じがしましたし、「しみらに」という言葉には何とも言えない味があり、その言葉が醸し出すものが歌にインパクトを与えているように感じました。最終歌は分かりやすくなりましたが、「しみらに」という言葉がなくなってしまい、ちょっと残念な気もします。歌作りにおいて、古い言葉の個性を生かすか、読み手の理解を優先するか、難しい選択だと思いました。
(萩)声に出して読むと前半が少しリズムが詰まった感じがしました。少し言葉の順序を替えて〝十余年花も実もつけぬ葡萄の木 今年も終日しらっと葉揺らす″と考えました。(千代:そうですね、何となくリズムがよくない、と思っていました。しみらに は、ここでは、葉がびっしりと、という意味につかっています。葉ばかり茂らせて、育てている私の気持ちも知らず、実を付けない葡萄を非難しています。もともと“しみらに” の “しみ”には、葉がびっしりと繁る、という意味があります)
(中井)実を付けない葡萄、どうしたことでしょうね。7年目の我家のデラウェアはたっぷりと実を付けてくれました。「葡萄の木」と言わずとも「葡萄」で十分に伝わると思います。 (千代:ここは、木が問題なので、木は、入れたいところですね。ところで、葡萄には特別な肥料が必要なのですか?)
(白樺:「しみらにしらっと」がよく分かりませんでした。 (千代: 萩さんへの返答を参考にして下さい。 でも、言葉が古いですかね?考えてみます。)
(北里)実も花もならないブドウとは、きっとそういう種類なのではないかと思います。「しみらにしらっと」がよくわかりませんでした。
(もも)「しみらに」は、調べてみると「連続して」という意味なのですね。花も実もなき葡萄の木・・・とつなげてもいいかなと考えてみました。
最終歌;十余年花も実もつけぬ葡萄の木 今年もしらっと繁き葉揺らす
2013年10月6日日曜日
九月の短歌と合評
担当:白樺
今月の一首は泰いずみさんの以下の歌を選びました。
刺し子さす時の間こそは吾の癒し閉ざされし壁に風穴の開く
この歌を選んだ理由は、自分の心象風景を短歌にするのはなかなか難しく、心の中をはきだして歌にするということは勇気がいることと思ったからです。
いずみさんのこの歌は「閉ざされし壁に風穴の開く」という表現で素直に自分の気持ちをはきだしています。初句の「刺し子さす」で、作者はきっと手芸やものづくりが好きな人ではないかと想像もできます。同時にこの作者の日常生活において何らかの圧力や困難があり、
それでも自分自身の為に楽しめる時間がもてているということにいくばくかの安らぎを読者は共有できます。
生活詠はとかく表面的になりがちですが、心の底を素直に歌にするということにチャレンジされたところがよかったと思います。
(萩)気分転換できる何かは絶対に必要ですね。〝刺し子さすひと時だけは癒やされて~“と考えました。
(千代)少なくとも“刺し子”という、心を鎮めることのできることがある、ということは救いですね。
(白樺:最初の句と同様に作者の存在感があってよいと思います。下の句と上の句がはっきりしていて詠みやすいです。)
(北里)目の付け所がいいですね。無心になって何かに打ち込むとストレスも吹き飛ぶような気持ちになれますね。「時たつを忘れて刺し子さす吾の心に癒しの風の吹きいる」としてみました。
(中井)とても気持ちが伝わって来る歌です。「時の間こそは吾の癒し」良いのですが、ゆったりした時の感じを出したいので「時の間(はざま)に癒されむ・・・」としたら軽すぎますか?
(もも)上の歌のあとにこの歌なので、状況がよりわかりました。「刺し子するときはわが身を癒すとき閉じた心に開いた風穴」などと考えてみました。
今月の一首は泰いずみさんの以下の歌を選びました。
刺し子さす時の間こそは吾の癒し閉ざされし壁に風穴の開く
この歌を選んだ理由は、自分の心象風景を短歌にするのはなかなか難しく、心の中をはきだして歌にするということは勇気がいることと思ったからです。
いずみさんのこの歌は「閉ざされし壁に風穴の開く」という表現で素直に自分の気持ちをはきだしています。初句の「刺し子さす」で、作者はきっと手芸やものづくりが好きな人ではないかと想像もできます。同時にこの作者の日常生活において何らかの圧力や困難があり、
それでも自分自身の為に楽しめる時間がもてているということにいくばくかの安らぎを読者は共有できます。
生活詠はとかく表面的になりがちですが、心の底を素直に歌にするということにチャレンジされたところがよかったと思います。
(萩)気分転換できる何かは絶対に必要ですね。〝刺し子さすひと時だけは癒やされて~“と考えました。
(千代)少なくとも“刺し子”という、心を鎮めることのできることがある、ということは救いですね。
(白樺:最初の句と同様に作者の存在感があってよいと思います。下の句と上の句がはっきりしていて詠みやすいです。)
(北里)目の付け所がいいですね。無心になって何かに打ち込むとストレスも吹き飛ぶような気持ちになれますね。「時たつを忘れて刺し子さす吾の心に癒しの風の吹きいる」としてみました。
(中井)とても気持ちが伝わって来る歌です。「時の間こそは吾の癒し」良いのですが、ゆったりした時の感じを出したいので「時の間(はざま)に癒されむ・・・」としたら軽すぎますか?
(もも)上の歌のあとにこの歌なので、状況がよりわかりました。「刺し子するときはわが身を癒すとき閉じた心に開いた風穴」などと考えてみました。
2013年9月6日金曜日
八月の短歌と合評
担当:宮下 もも
8月は、「生きる」という題詠で作歌した。自分でこの題詠を出しておきながら、
いざ歌を作ってみたら大失敗してしまった。それは、「生きる」を具体的に使えず、観念的な短歌になってしまったからだ。 しかし、円居短歌会の会員方は、上手にこの題詠を活かし、佳い歌がたくさんあったと思う。その中で、とりわけ私の心に迫ってきた歌がある。
携えて生き行く人も無き吾に炎帝の朱のひかり刺しくる
深沢 しの
世の中には結婚している人、していない人、したい人、したくない人、別れた人など、
様々だ。 しかも、その結婚にまつわる形態は、恐らく人の数ほどあるのだと思う。
「炎帝」は夏の神様。作者は暑い夏の真っただ中にこの歌を思いついたのだろう。
カフェかどこかに一人座っていたのかもしれない。目には道行く人が映っていたかはわからない。 ただ心の中に、はっきりとした思いがあったのだ。
「携えていくひとのなき自分・・・」
何といってもこの歌の魅力は、自分自身をしっかりと見つめ、それをさらけ出して歌ったところであり、さらには 多くの人がこの歌の心理に共感するところにある。 自分をさらけ出すとは、言うは易し行うは難しで、まさに勇気のいる行為。短歌として世に出せば、誰彼の目に触れるのだから。結婚していても一人ぼっちの人、結婚していなくても寂しくない人、結婚の形式にこだわらない人、同性を愛する人など、一昔前とは時代が変わった。 でも、時代を超えてもなお変わらない人間のこころが、この歌の魅力であろう。
8月は、「生きる」という題詠で作歌した。自分でこの題詠を出しておきながら、
いざ歌を作ってみたら大失敗してしまった。それは、「生きる」を具体的に使えず、観念的な短歌になってしまったからだ。 しかし、円居短歌会の会員方は、上手にこの題詠を活かし、佳い歌がたくさんあったと思う。その中で、とりわけ私の心に迫ってきた歌がある。
携えて生き行く人も無き吾に炎帝の朱のひかり刺しくる
深沢 しの
世の中には結婚している人、していない人、したい人、したくない人、別れた人など、
様々だ。 しかも、その結婚にまつわる形態は、恐らく人の数ほどあるのだと思う。
「炎帝」は夏の神様。作者は暑い夏の真っただ中にこの歌を思いついたのだろう。
カフェかどこかに一人座っていたのかもしれない。目には道行く人が映っていたかはわからない。 ただ心の中に、はっきりとした思いがあったのだ。
「携えていくひとのなき自分・・・」
何といってもこの歌の魅力は、自分自身をしっかりと見つめ、それをさらけ出して歌ったところであり、さらには 多くの人がこの歌の心理に共感するところにある。 自分をさらけ出すとは、言うは易し行うは難しで、まさに勇気のいる行為。短歌として世に出せば、誰彼の目に触れるのだから。結婚していても一人ぼっちの人、結婚していなくても寂しくない人、結婚の形式にこだわらない人、同性を愛する人など、一昔前とは時代が変わった。 でも、時代を超えてもなお変わらない人間のこころが、この歌の魅力であろう。
2013年8月1日木曜日
2013年7月短歌と合評
担当:萩
7月の短歌と合評は北里かおるさんの一首を選びました。「色を感じさせる言葉」に注目しました。尾崎左永子さんは〝桜色“とか〝バラ色”など多く使われている言葉には注意が必要だけど色彩語にはイメージを限定して印象を強め、読み手に伝えやすくする性質があると書いています。また、色彩語を使う時には他の部分の色をなるべく抑える工夫をし、色だけが目立たないようにすることが大事だとも書いています。北里さんの短歌は前半はオレンジ色のという初句でインパクトを与え、後半は押さえ気味の表現で整っていると感じました。最終歌で結句を「ひとり吾のみ」としたことで後味のよさみたいなものが感じられます実際の色ではなくても色彩を感じさせる言葉を上手く取り入れることで格調高くなるような一首が作れたらいいですね。
原歌:オレンジのレインコートが駆けてくる待ち人来ぬは吾一人なり
(萩)先月の一首の連作ですね。オレンジのレインコートの鮮やかさと待ち人が来なくて少し沈んでいる作者が対照的に描き出されていていいと思います。
(千代)上の句は何かドラマの最初のシーンのようで、なかなか興味深いですね。結句を言い切ってしまうところが固すぎるよに思います。・・・待ち人来ぬはひとり吾のみや としてみました。
(中井)展開が利いていて良い歌ですね。オレンジが華やかさを演出し、その後の落差を強調するのに一役買っています。
(もも)ひとりふたりと、待ち人が来て、嬉しそうに笑顔で「待ち合わせ場所」を去って行く人々の中に、今か今かと待ちわびる作者。そして、ついに待ち合わせ場所には見知らぬ誰かさんと二人きりになり、そのひとの待ち人が奇麗なオレンジ色のレインコートで颯爽と現れたのですね。取り残されたような作者の気持ちが読者にすぐに伝わってくる一首です。
(白樺:人が駆けてくるのではなく、レインコートが駆けてくるとしたところが視覚に訴えて、雨の中を人待ち顔で待っている情景がよく浮かびます。)
最終歌:オレンジのレインコートが駆けてくる待ち人来ぬはひとり吾のみ
7月の短歌と合評は北里かおるさんの一首を選びました。「色を感じさせる言葉」に注目しました。尾崎左永子さんは〝桜色“とか〝バラ色”など多く使われている言葉には注意が必要だけど色彩語にはイメージを限定して印象を強め、読み手に伝えやすくする性質があると書いています。また、色彩語を使う時には他の部分の色をなるべく抑える工夫をし、色だけが目立たないようにすることが大事だとも書いています。北里さんの短歌は前半はオレンジ色のという初句でインパクトを与え、後半は押さえ気味の表現で整っていると感じました。最終歌で結句を「ひとり吾のみ」としたことで後味のよさみたいなものが感じられます実際の色ではなくても色彩を感じさせる言葉を上手く取り入れることで格調高くなるような一首が作れたらいいですね。
(萩)先月の一首の連作ですね。オレンジのレインコートの鮮やかさと待ち人が来なくて少し沈んでいる作者が対照的に描き出されていていいと思います。
(千代)上の句は何かドラマの最初のシーンのようで、なかなか興味深いですね。結句を言い切ってしまうところが固すぎるよに思います。・・・待ち人来ぬはひとり吾のみや としてみました。
(中井)展開が利いていて良い歌ですね。オレンジが華やかさを演出し、その後の落差を強調するのに一役買っています。
(もも)ひとりふたりと、待ち人が来て、嬉しそうに笑顔で「待ち合わせ場所」を去って行く人々の中に、今か今かと待ちわびる作者。そして、ついに待ち合わせ場所には見知らぬ誰かさんと二人きりになり、そのひとの待ち人が奇麗なオレンジ色のレインコートで颯爽と現れたのですね。取り残されたような作者の気持ちが読者にすぐに伝わってくる一首です。
(白樺:人が駆けてくるのではなく、レインコートが駆けてくるとしたところが視覚に訴えて、雨の中を人待ち顔で待っている情景がよく浮かびます。)
最終歌:オレンジのレインコートが駆けてくる待ち人来ぬはひとり吾のみ
2013年7月1日月曜日
2013年6月の短歌と合評
担当 中井
今月は、宇津木千代さんの歌を取り上げてみたいと思います。
題詠のお題は「初夏、はつ夏」
原歌:「七歳の記憶の中をもとほろふ 初夏の葬列、カナカナの声」
様々な工夫のみられる歌で、「もとほろふ」という言葉の使い方、四句の前の一字空け、その後の読点の挿入、結句の片仮名表記」、とても表現力の豊かなものとなっています。
「もとほろふ」という聞きなれない言葉でしたが、知ってみれば「さまよへる」という言葉にはない、何か謎めいた拠り所のなさを醸し出していることばのような気がします。
また、その後の一字空けは、その拠り所のなさに余韻を与えていて、三句切れも効いていると思います。
下の句の読点の挿入も、スッと流れてしまうのを防ぐ効果があり、作者にありありとその記憶の情景が浮かんでいる様子が伝わってきます。
結句も、蜩(ひぐらし)と言わずに片仮名の「カナカナ」という言葉を使ったことで、その淋しげな感じが一層際立っています。字面といい、カナカナの音といい、日本語はその言葉の意味だけではないものをも表せるという特徴を最大限に活かしていると思います。
また、「に」と「を」の使い方について、漠然と感じていた事が実際に理論で説明して頂いて良く分かりました。自動詞と他動詞の区別がつかないようなこともあるでしょうが、そんな時はちゃんと辞書を引くべきだという事でしょうね。
今月は、宇津木千代さんの歌を取り上げてみたいと思います。
題詠のお題は「初夏、はつ夏」
原歌:「七歳の記憶の中をもとほろふ 初夏の葬列、カナカナの声」
様々な工夫のみられる歌で、「もとほろふ」という言葉の使い方、四句の前の一字空け、その後の読点の挿入、結句の片仮名表記」、とても表現力の豊かなものとなっています。
「もとほろふ」という聞きなれない言葉でしたが、知ってみれば「さまよへる」という言葉にはない、何か謎めいた拠り所のなさを醸し出していることばのような気がします。
また、その後の一字空けは、その拠り所のなさに余韻を与えていて、三句切れも効いていると思います。
下の句の読点の挿入も、スッと流れてしまうのを防ぐ効果があり、作者にありありとその記憶の情景が浮かんでいる様子が伝わってきます。
結句も、蜩(ひぐらし)と言わずに片仮名の「カナカナ」という言葉を使ったことで、その淋しげな感じが一層際立っています。字面といい、カナカナの音といい、日本語はその言葉の意味だけではないものをも表せるという特徴を最大限に活かしていると思います。
また、「に」と「を」の使い方について、漠然と感じていた事が実際に理論で説明して頂いて良く分かりました。自動詞と他動詞の区別がつかないようなこともあるでしょうが、そんな時はちゃんと辞書を引くべきだという事でしょうね。
(萩)「もとほろふ」の言葉選びもいいと思います。初めてのお葬式の場面がカナカナの声と共に鮮明に残っている七歳の記憶、、お葬式という七歳の子には少し怖いような場面が想像できます。「カナカナの声」は旧字体「カナカナの聲」にしてもいいと思いました。
(もも)7歳の頃の、どなたかの葬列の記憶なのですね。夏の日のカナカナと啼く虫の声が今も作者の胸に聞こえてくるのですね。
(中井)「もとほろふ」という言葉を知りませんでした。調べたら、「徘徊ろふ・廻ろふ」。動詞「もとほる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」からなる「もとほらふ」の変化した語とありました。「記憶の中を」より「記憶の中に」の方がしっくりくるような気がしますが、如何でしょうか。
(千代:“に”と“を”の使い分けで、意味がどう変化しすると思いますか? 難しいところで、私にもどちらが適当かはっきりしませんが、感じでは“を”は、動作の対象ですから、“もとほろふ”の対象が“七歳の記憶の中を”となりました。また、“を”には強調の意味もありますね。“に”は、いろいろな選択肢の中から、“七歳の記憶の中に”というふうに考えられますが・・・意味としてはどう違うと思いますか? “に”の方が柔らかで短歌的かしら?みつけました。以下のことを読んで下さい。・・・「自動詞」か「他動詞」かという観点でみると、自動詞は直接目的語を取りえませんのでそれの起こる対象舞台を「に」で指定し、他動詞は直接目的語を「を」で指定します。例えば、「当たる」は自動詞なので「に」を使い「窓に当たる」となり「たたく」は他動詞なので「窓をたたく」となります。 ・・・ということになりますと、“もとほろふ”は、自動詞ですから、“に”が正しいですね。
(北里)ドラマか映画で見たワンシーンを思わせる歌です。実際に経験したことはありませんが、イメージがわきます。葬儀は初夏とはいえ「カナカナの声」からは暑さを感じます。一字分開けたり読点を付けたことの意図を知りたいと思います。
(千代:これは思い出と繋がるもので、私のは “暑さ”の象徴は油蝉です。「・・・“カナカナ”は、蜩(ひぐらし)のことです。梅雨明けのころから鳴き出し、真夏も朝夕などの涼しいときに鳴きついできた蝉ですが、季語としては〈秋〉のものです。明るい日差しの下で鳴くほかの蝉には無い、森の奥から響いてくる声の ...」とGoogleにありました。確かに季語は秋ですが、カナカナは初夏にも鳴くと思います。私の実家の裏は小高い山が秋川町の多摩川まで続いていました。今はすべて開発されてしまいましたが・・・。その山から梅雨上がりの夕方、涼しい風とともにカナカナの声が聞えてくると、何がなし哀しさが胸の底から湧き上がってきた記憶があります。ただ、ここでは象徴的に、幼い頃の哀しみの源泉とも言えるものを詠いたかったのです。ですから、初夏の美しい白色を含む緑と、清澄な影は、私には喜びや希望ではなく、カナカナとともに淡い哀しみの記憶の一つです。葬儀は5歳で亡くなった幼い弟の葬儀です。)
(いずみ:カナカナの声を聴くとき 七歳のころに遭った葬列が思い出される。人間の記憶って不思議ですね。私は日だまりを見ると祖母が静かに縫物や編み物を楽しげにしていた姿が甦ってきて幼いころに(私もしてみたいなぁ)と思っていたことが鮮明に思い出されます。どんな時も面倒くさいと言ったことばを一度も聴いたことがなく 大好きな祖母でした。)
(白樺:「もとほろふ」は「回る,徘徊する、うろつく」を意味する古語(自動四)ですね。下の句の体言止めの具体がとてもよいと思います。読点「、」も効果的です。) (きぬ)幼い時の思い出は、断片的で何かの意味を象徴しているかのように鮮やかですね。どうしてその時の記憶が蘇ってきたのかは分かりませんが、情景が脳裏を廻る状態がよく分かります。
最終歌:「七歳の記憶の中をもとほろふ 初夏の葬列、カナカナの声」
2013年6月5日水曜日
2013年5月の短歌と合評
担当 宇津木
今月は、中井久游氏の歌を気にかかる歌として選びました。作者が自分の考えで事実かどうか分からない事柄を、事実として詠ってしまうことの危うさを指摘したいと思います。下記の歌で中井氏は、「就活に疲れ果てたる・・・・・」と詠っていますが、どうして”就活で疲れている”とわかるのでしょうか?もしかしたら事実かもしれませんが、若者の服装とか、憂鬱そうな表情とかで推測の域をでないのに、衆知の事実として歌ってしまっています。こういう歌は避けるべきです。もし詠いたいのなら「らし」「ごと」とか、推測の言葉を使ったらいいと思います。
今月は、中井久游氏の歌を気にかかる歌として選びました。作者が自分の考えで事実かどうか分からない事柄を、事実として詠ってしまうことの危うさを指摘したいと思います。下記の歌で中井氏は、「就活に疲れ果てたる・・・・・」と詠っていますが、どうして”就活で疲れている”とわかるのでしょうか?もしかしたら事実かもしれませんが、若者の服装とか、憂鬱そうな表情とかで推測の域をでないのに、衆知の事実として歌ってしまっています。こういう歌は避けるべきです。もし詠いたいのなら「らし」「ごと」とか、推測の言葉を使ったらいいと思います。
*就活に疲れ果てたる若者がスクランブルの人混みに消ゆ
(千代)スクランブルとは、ここではどういう意味で使っているのですか?ここでの作者の立ち位置は、どこですか?第三者の若者が、どうして就活で疲れているのか分かるのですか?若者は作者の知っている人ですか?もしそうなら具体的にその関係を書いたほうが、よりリアルティーが増します。
(北里)若者の就職難は社会問題ですので、うなずける情景です。若者が何故に疲れているかは見ただけではわからないので、リクルートスーツを着たいたのかもしれませんし、「就活」として詠うには、就活と直結するような材料が欲しいような気もします。
(もも)就職をしない若者が増えるご時世、一生懸命に職を求めて進んでいる若者がまぶしく感じられました。
(いずみ)疲れ果てたる若者という表現がとても重いように感じました。若者たちの就活が大変だなぁというところでの歌なのでしょうね。
(白樺)現代社会を反映しているお歌でよいと思います。
(きぬ)都会の人混みにはありとあらゆる事柄に疲れた人々がいますから、そこにこの若者が紛れ込んで行く様子は、社会人になることの象徴のようで面白いお歌だと思います。
(中井)スクランブル交差点の角にあるビルの2階から眺めています。リクルート・スーツとその時期で判断したわけですが、想像の域を出ていません。それを説得力のある歌にするには具体性が必要ということですね。先月と今月のNHK短歌で、斎藤斎藤(千代:“さいとうさいとう”さんの“さいとう”は、苗字と名前で字が違うのです。斉藤斎藤ですので、よろしく)が見えていないものを歌に詠み込んではいけないというようなことを書いていました。想像で詠ってはいけないと・・。その意味から言うと、この歌は嘘だらけでいけないという事になるんですね。世相を詠う事の難しさを感じますが、千代さんの言わんとする事も分かるので何とかしたいところです。
最終歌 *就活に疲れ果てたる若者のニュースで語る交差点角
2013年5月11日土曜日
2013年4月の短歌と合評
担当:深沢
今月は萩洋子さんの一首をとりあげてみました。心が丁度曇ってしまっていた時に考えた題詠だったので、曇りを磨いてピカピカの硝子にしようと思っていました。何度磨いても曇りが取れない、“すり硝子”という表現に心を惹かれましたがそれは今の自分の心のようでした。心の曇りを取ろうと必死に磨けば磨くほど曇った部分が更に広がり、晴れることはないのかとも思いました。“すり硝子のように凍るため池の中に落ちないように赤旗がゆれる”という結句の言葉に目覚めさせられました。どれだけ磨いても曇りは取れなくても、本当は氷だったのです。危険だからそこからはそこには入らない。赤旗の危険だから入らないという教えで、少し心の曇りが取れたような気がしました。
(原歌)すり硝子みたいに凍るため池に立ち入り禁止の赤旗ゆれる
(千代) “すり硝子のように”のほうがいいと思いますが・・・。“凍るため” 池に立ち入り・・・と読みそうなので、“溜池”と漢字に直しては如何でしょうか。
(中井)雰囲気が出ている歌ですね。すり硝子というより昔の模様ガラスにそんなのがありましたね。
(北里) ため池の表面が凍っているのを「すりガラス」に例えたのは、言い得ていて良いと思います。「赤旗」はプールや海が遊泳使用禁止の時などに使用されていますが、アメリカでは凍っているときにも赤旗をそのように利用するのですね。
(いずみ)よく見る・認識することの大切さを再認識しました。
(白樺)薄氷をすり硝子とみたところが面白いと思います。
(もも) 寒い地方にはこのような光景があるのですね。薄い氷が張っている池の表面が見えてくるようです。寒い風が吹いて、赤旗が揺れている光景をみていないのに、とても鮮明に浮かんでくる気がしました。
(きぬ)凍った池や川、危なくて恐いですね。すり硝子に例えられたのはピッタリだと思いました。
(最終歌)すり硝子のように凍る溜池に立ち入り禁止の赤旗ゆれる
今月は萩洋子さんの一首をとりあげてみました。心が丁度曇ってしまっていた時に考えた題詠だったので、曇りを磨いてピカピカの硝子にしようと思っていました。何度磨いても曇りが取れない、“すり硝子”という表現に心を惹かれましたがそれは今の自分の心のようでした。心の曇りを取ろうと必死に磨けば磨くほど曇った部分が更に広がり、晴れることはないのかとも思いました。“すり硝子のように凍るため池の中に落ちないように赤旗がゆれる”という結句の言葉に目覚めさせられました。どれだけ磨いても曇りは取れなくても、本当は氷だったのです。危険だからそこからはそこには入らない。赤旗の危険だから入らないという教えで、少し心の曇りが取れたような気がしました。
(原歌)すり硝子みたいに凍るため池に立ち入り禁止の赤旗ゆれる
(千代) “すり硝子のように”のほうがいいと思いますが・・・。“凍るため” 池に立ち入り・・・と読みそうなので、“溜池”と漢字に直しては如何でしょうか。
(中井)雰囲気が出ている歌ですね。すり硝子というより昔の模様ガラスにそんなのがありましたね。
(北里) ため池の表面が凍っているのを「すりガラス」に例えたのは、言い得ていて良いと思います。「赤旗」はプールや海が遊泳使用禁止の時などに使用されていますが、アメリカでは凍っているときにも赤旗をそのように利用するのですね。
(いずみ)よく見る・認識することの大切さを再認識しました。
(白樺)薄氷をすり硝子とみたところが面白いと思います。
(もも) 寒い地方にはこのような光景があるのですね。薄い氷が張っている池の表面が見えてくるようです。寒い風が吹いて、赤旗が揺れている光景をみていないのに、とても鮮明に浮かんでくる気がしました。
(きぬ)凍った池や川、危なくて恐いですね。すり硝子に例えられたのはピッタリだと思いました。
(最終歌)すり硝子のように凍る溜池に立ち入り禁止の赤旗ゆれる
2013年4月3日水曜日
2013年3月の短歌と合評
担当:萩
3月の短歌と合評は宮下ももさんの一首を選びました。オノマトペの魅力は印象を鮮明にする、リアルに表現できる、リズム感が心地よく感じられるなどがあげられると思います。その反面、類型化するという弱点があります。この歌の中の〝ひゅーゆー”は作者自身が風の音に耳をすませ聞こえるままの音を言葉にしたと書いています。実際に風の音を聞く(厳しい感じ)のと〝ひゅーゆー″と書かれた文字を見る(少しのんびりした感じ)のとでは感じ方に若干のギャップを感じるのではないかと思いました。
宮下 もも
(原歌)ひゅーゆーと春一番が吹き荒れて若木ゆらゆら青空に向く
(もも)「ひゅーゆーと春一番の吹き荒れて若木ゆらゆら青空に向く」と推敲しました。
(萩)〝ひゅーゆー“〝ゆらゆら“と2つオノマトペが入っていますが、春一番は強い風なのでマッチしないのではないかと思いました。
(千代)“ひゅーゆと”という擬音表現は、のんびりしている感じがしてどうも春一番の疾風の感じがしません。“ゆらゆら”も疾風に吹かれた若木の感じがしませんが、如何でしょうか。若木が青空に向く、という表現もよくキャッチできません。どういう状態なのですか?
(北里) 擬音語で始まるのは新鮮です。春一番は強風なので「吹き荒れる」とつながるのは理にかなっていて良いと思いますが、「ひゅーゆー」とか「ゆらゆら」だとやさしいイメージで、春一番の激しさには物足りないような気がします。
(中井) 吹き荒れているのですから「ゆらゆら」はちょっとそぐわない気がします。「若木ぐいいっと青空を向く」って感じでは?
(いずみ:ゆらゆら青空に向くいい表現ですね。ももさんの前向きな生き方。歌を詠みながら感じています。)
(きぬ) 春はもうそこまで来ているよ、と元気付けられるような一首ですね。一句目の音もとても良いと思います。
(白樺) オノマトペが面白い効果をだしていますね。初句は「ひゅーひゅー」では?
(もも) この木は、幹が細くて春一番が吹き荒れている時、幹がユーらユーらと左右に揺れていました。その隣の古くて太い木が去年の6月に屋根に倒れたので、この細い木が倒れなければいいけれど、、、心配しながら見ていました。風の音は、耳をすまして、よく聞いてから考えだしたものです。ヒューヒューだと、冬というイメージがあります。そこで、春の力強くて暖かさも入った、どひゅーという感じで詩的な音をと思い、聞こえるままの音を表現しました。
最終歌: ひゅーゆーと春一番の吹き荒れて若木左右に揺れ揺れ動く
3月の短歌と合評は宮下ももさんの一首を選びました。オノマトペの魅力は印象を鮮明にする、リアルに表現できる、リズム感が心地よく感じられるなどがあげられると思います。その反面、類型化するという弱点があります。この歌の中の〝ひゅーゆー”は作者自身が風の音に耳をすませ聞こえるままの音を言葉にしたと書いています。実際に風の音を聞く(厳しい感じ)のと〝ひゅーゆー″と書かれた文字を見る(少しのんびりした感じ)のとでは感じ方に若干のギャップを感じるのではないかと思いました。
宮下 もも
(原歌)ひゅーゆーと春一番が吹き荒れて若木ゆらゆら青空に向く
(もも)「ひゅーゆーと春一番の吹き荒れて若木ゆらゆら青空に向く」と推敲しました。
(萩)〝ひゅーゆー“〝ゆらゆら“と2つオノマトペが入っていますが、春一番は強い風なのでマッチしないのではないかと思いました。
(千代)“ひゅーゆと”という擬音表現は、のんびりしている感じがしてどうも春一番の疾風の感じがしません。“ゆらゆら”も疾風に吹かれた若木の感じがしませんが、如何でしょうか。若木が青空に向く、という表現もよくキャッチできません。どういう状態なのですか?
(北里) 擬音語で始まるのは新鮮です。春一番は強風なので「吹き荒れる」とつながるのは理にかなっていて良いと思いますが、「ひゅーゆー」とか「ゆらゆら」だとやさしいイメージで、春一番の激しさには物足りないような気がします。
(中井) 吹き荒れているのですから「ゆらゆら」はちょっとそぐわない気がします。「若木ぐいいっと青空を向く」って感じでは?
(いずみ:ゆらゆら青空に向くいい表現ですね。ももさんの前向きな生き方。歌を詠みながら感じています。)
(きぬ) 春はもうそこまで来ているよ、と元気付けられるような一首ですね。一句目の音もとても良いと思います。
(白樺) オノマトペが面白い効果をだしていますね。初句は「ひゅーひゅー」では?
(もも) この木は、幹が細くて春一番が吹き荒れている時、幹がユーらユーらと左右に揺れていました。その隣の古くて太い木が去年の6月に屋根に倒れたので、この細い木が倒れなければいいけれど、、、心配しながら見ていました。風の音は、耳をすまして、よく聞いてから考えだしたものです。ヒューヒューだと、冬というイメージがあります。そこで、春の力強くて暖かさも入った、どひゅーという感じで詩的な音をと思い、聞こえるままの音を表現しました。
最終歌: ひゅーゆーと春一番の吹き荒れて若木左右に揺れ揺れ動く
2013年3月10日日曜日
2013年2月短歌と合評
担当 井後きぬ
(いずみ:骨組みの柱が寸法どうりに用意されトラックで運び込まれる。プラモデルを組み立てるように半日であっという間にその日に上棟式を終えました。ひと昔前と違い短期間で出来上がる様子に驚くばかりでした。時の流れの中で進歩し続けていることを感じます。気持ちのいい大工さん達に恵まれ感謝しています。)
二月の短歌と合評は奏いずみさんの以下の歌をとりあげました。
建築現場の喧騒や活力が伝わってきて、家が組み立てられて行く様子をプラモデルのようだと感じた作者の感想も新鮮な一首ですが、原歌では上の句と下の句の繋がりが弱く、また表現も散文的な感がありました。最終歌では講評に基づいて表現に変更がなされ、全体的に引き締まり上下句の繋がりもはっきりし、ますます活き活きした歌になりました。
奏
(原歌)プラモデル組み立てるごと建ってゆく釘打つ音と大工さんの声
(千代)三句目は、簡単に現代建築は建ち上がってゆくのを、驚きを持って見詰めている作者が、感じられますので、“建ちゆくも”と“も”という詠嘆の助詞を入れたらいいと思います。また、大工さん は、散文的ですから、例えば“大工の訛声”
(中井)3句切れですが、「プラモデル組み立てるごと」というのと「釘打つ音と大工さんの声」は、内容的には繋がりません。すうっと流れてしまって下の句が弱いと思います。敢えてプラモデルを出したのなら、その理由を詠み込むと良いと思いました。
(白樺)歌の主眼をもう少しはっきりさせて結句を工夫するとよい歌になるとおもいます。
(萩)字余りになっても〝プラモデルを″とした方がいいと思います。後半ですが〝釘打つ音″か〝大工さんの声″のどちらかにしてはどうでしょうか。″プラモデルを組み立てるごと建ってゆく釘打つ音に今日が始まる”と考えました
(北里)最近の家は形になったものを運んできて組み立てる方式が多いので、プラモデルと結びついたのですね。後半の音や声が場面を生き生きさせていて良いと思います。
(もも)家が建ってゆく様子は、見ていておもしろくらいどんどんできてゆく様を「プラモデルくみたてるごと」といったのがうまいと思います。「建ってゆく」は、「建ちてゆく」でどうでしょうか。
(きぬ)プラモデルに例えるところがいずみさんらしくてとても良いとおもいます。全体的に童謡のような雰囲気でまとまっていて、それがまた良いと感じました。結区も良いと思います。
(最終歌)プラモデル組み立てるごと建ちゆくも釘打つ音と大工の諧声
(最終歌)プラモデル組み立てるごと建ちゆくも釘打つ音と大工の諧声
2013年1月29日火曜日
2013年1月短歌と合評
担当 白樺
一月の短歌と合評は北里さんの以下の歌をとりあげました。
例年になく大雪の積もった暮れに除雪に追われながらおせち料理の準備をしているという記録性の強いものですが、日常性や記録性にひかれてやや散文的になったようです。感動の焦点をどこにするかということが重要であることを考えると私たち短歌を創作する者にとって陥りやすいところではないでしょうか。私が座右の書にしている太田青丘の「短歌開眼」の1節にある「歌人は何よりも脈搏部を把握するする鋭い眼を養ふとともに、冗漫を惜し気なく切り捨てる表現のきびしさを身につけたいものです。短歌が日常的記録性に安住するか、芸術として大成するかの分岐点は、案外卑近な所に横たはりつつ、しかも千里の差を来たすものではありますまいか。」ということを改めて考えてみました。
北里
(原歌) 例年の四倍の雪降り積もる除雪の合間におせちの準備す (萩)この冬の北海道は雪が多いようですね。除雪の大変さはよく分かります。前半が少し説明的だと思います。実際にそうだったとしても今見ていることだけが事実ではなく以前に見たことや感じたこともまた事実なので時間を越えて歌の中に盛り込んでもいいと思います。“一晩に一メートルも降り積る。。。。”と考えました。
(千代)“例年の四倍の雪降り”は、散文的でもあり、説明的でもあると思います。ここで言いたいことと、それほど関係ないと思いますので、“大雪の大晦日には積もりゆく雪を掃きつつおせち調う”では、いかがでしょうか?
(いずみ)四倍の雪の除雪は想像がつかないくらい大変なことでしょうね。寒さ厳しい真冬の情景の中に新しい年を迎える準備をしている姿が浮かんでいます。)
(中井)随分な大雪が降ったのですね。二つの事が歌われていますが、関連性があまり感じられません。どちらかに焦点を当てたいですが「大雪の降りて除雪に追われしの合間におせち料理を仕込む」と関連付けてみました。
(白樺:「例年の四倍」が新聞報告のようですので推敲の余地ありと思います。「おせちの準備す」を、例えば「黒豆を煮る」「おなますを刻む」などのおせち料理の代表的なものを煮たり、刻んだりする動作にすると情景がより鮮やかにうかんでくるようです。)
(もも)ものすごい積雪だったのですね。東京でも先週15センチの雪が降ったと聞き、驚きましたが、北海道の雪は比じゃないのでしょうね。忙しい年末の感じがよくでてきて、いいなと思いました。
(きぬ)私は雪国で暮らすのはまだ4年目ですが、毎年寒さも降雪量もかなり違うものですね。こちらは去年は暖冬だったのが、今年は例年のウィスコンシンの冬に戻ってしまって、今日は真昼でもマイナス20℃、温暖な地域で育った私にはとても耐え難い寒さです。でも反面、今年は降雪量がグンと少なくて、その面では随分楽です。除雪作業は本当に大変ですね。ただでさえ慌しい歳末が、雪のためにますます忙しくなっている様子がよく伝わっています。
(最終歌)大みそか除雪に追われる合間縫い膾を刻み黒豆を煮る
(北里)いろいろと参考になる講評をありがとうございました。みなさまの講評、なるほどと思い、あれこれドッキングさせて最終歌としました。後半は白樺さんの案を両方頂きました。
2013年1月9日水曜日
2012年12月短歌と合評
担当:北里
12月の詠題は「積もる」でした。原発の問題は深刻で歌にするのはつらく難しいと感じていますが、社会詠としてこういった歌も積極的に詠っていかなくてはいけないという思いがあり、中井さんの一首を選びました。現在もなお多くの方々が震災や原発の問題で苦しんでおられる現状の中、つい先日も原発周辺の除染作業で生じた土壌や落ち葉を川に流すなど、一部業者の手抜きが問題になり、憤りを感じました。
中井さんの最終歌は、読み仮名を省いたことでとてもすっきりしました。「瘡蓋」は傷が治るに従ってできるものではありますが、この歌の場合、瘡蓋のもつイメージを「時の間の瘡蓋」として表現したことで、上手く言い得ていると思います。
中井久游
(原歌)野積みさる除染の土のあてどなく時間(とき)の間(はざま)に瘡蓋(かさぶた)となる
(萩)こちらも読み仮名は必要ないと思います。“瘡蓋”は治るに従ってその上に生じる皮で、目に見えての改善が期待されるような言葉だと思いますが、除染の土は現状では二進も三進もいかない状態なので“どうにもならない、未来が見えない”というニュアンスの言葉の方がいいかと思いました。誰もが持っている早く解決してほしいという願望を前面に出すために“瘡蓋”としたのかもしれませんが。
(千代)“野積みさる”の“さる”は、“される”の古語として使ったのですか?この受身などの場合は、古語も口語も同じなのでは?“時間”と書いて“とき”と読ませるより“時”でいいのでは。特に“時”の“間”は、時間なのですから。“間”も苗字なら“間(はざま)組”などありますが、“間”は、“あはい”か“ま”と読みますから、“時の間に”で十分だと思います。もし“はざま”を使いたいのなら“狭間”でいいのでは?(中井)「さる」は、常用漢字表にない音訓として「為る」として「動ラ下二」で「される」と同じ「する」の受身形として辞書にありました。時間(とき)の間(はざま)は、おっしゃる通り“時の間に”で十分ですね。
(北里)本当にこの問題はどう処理されるのでしょうか。米軍基地のことも同様に、みんな自分の所だけは安全であって欲しい、人間心理として分かりますが、今の日本、痛み分けがなさすぎるように思います。「時の間の瘡蓋」となって欲しくないです。良い切り口だと思います。
(もも) これは、放射能で汚染された土のことを詠んでいるのですね?
(白樺:現在の大問題をうまく社会詠にしたお歌でよいと思います。除染されたといっても放射能は気が遠くなるほどの時間が経たないとなくならないと聞きます。汚染土はただ一箇所から別の一箇所へと移動されただけなのです。その点を「時の間に瘡蓋となる」という表現でうまく捉えられていると思います。)
(いずみ:心痛みます。まだまだこれから…長い時間をかけて少しずつ…再生…瘡蓋はいつになったら元のようになるのでしょうね。人間の皮膚のように…。)
(きぬ)瘡蓋とは上手い表現ですね。「時間の間」の部分がピンと来ませんでした。どういう意味を詠われているのでしょうか。
(最終歌)野積みさる除染の土のあてどなく時の間に瘡蓋となる
(最終歌)野積みさる除染の土のあてどなく時の間に瘡蓋となる
追伸:先日、「生き抜く 南三陸町人々の一年」というドキュメンタリー映画」を見ました。東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町を、大阪毎日放送が、地震発生の28時間後から1年にわたって撮影し続けたもので、深く胸に迫るものがありました。機会があればぜひ一度見てください。
登録:
投稿 (Atom)