2011年5月9日月曜日

敷島の道

 日本にはさまざまな「道」が付くものがある。華道、歌道、書道、香道、剣道、柔道など数え上げたらきりがないほどである。それらのすべてが(今、私が真剣に向き合っているのは、歌道と書道だけであるので、他の「道」については分からないが、推測でたぶんそうだと思う)、本当に真剣になって取り組めば、命をかけるに値する何かがあるのではないか、と感じている。どうして日本人はこのような「道」が付くことに惹かれるのだろうか?以前にも書いたことがあるが、日本人には宗教心が少ない、と時折言われることがあったり、読んだことがあったりした。それは、この「道」と呼ばれるものに、己を賭けているからではないかと、仮説を立ててみる。宗教は、本当は自分自身を真剣に磨いていく手段なのだと思う。日本人は宗教を通さず「この「道」の付く道を歩いて、その手段を得ているのではないか。だから、宗教はあまり必要ではなくなっているのではないか、と思ってみる。このブログは短歌を中心にしているので、短歌を通して、私の最近の思いを書いてみたい。

歌にしろ、書にしろ私は、ある時期までは、本当には真剣に学んでいなかった。マンネリ化したり、真剣に取り組むことをないがしろにしていた感がある。しかし、ある時を境に「真剣」にならない限り、その「道」の妙味はわからないし、決して進歩もない、ということが分かった。真剣になることは、自分と向き合うことである。「道」が付く道でのすべての表現は、自分の投影である。いい歌、よくない歌の違いは、歌の中にどれくらい自分が投影できたか、にかかっている。もう少し具体的に言えば、自分が受容した外界の出来事や、情景を小道具として、自分の心を言葉で表現するのが短歌である。ところが、出来事や情景を表現することが中心になって、物語を作ったり、珍しい言葉や物や場所や出来事が前面にでてきて、己が消えてしまっている歌が多いように思う。「歌道」と言うからには、その道を選んだからには、どうせならそこに自分を賭けてみるくらいに真剣になってみれば、きっといつか自分に大きな喜びと充足感をもたらすことは必定である。自分で表現方法も模索し、どんどんいろいろな表現法を試してみるべきである。しかし、その歌を公にする時には、どうしてそのように表現したかを、はっきり自分で言い訳ができなくてはならないと思う。私達は円居短歌会に属し、短歌を詠みたい、という仲間同士である。互いの切磋琢磨は重要な進歩の鍵になる。私自身、これからどれくらい歌を詠み続けていけるか分からない。すでに人生の2/3は過ぎ去ってしまった感がある。残りの1/3を歌と書を通して大切に真剣に生きていきたい。それはとりもなおさず、自分を磨き続けていくことである、と私は肝に銘じている。

2 件のコメント:

  1. その昔日本に入ってきた仏教とか儒教の教義である「道」が僧侶とか、公家、武士階級に広まって、武道、華道、書道、茶道、等の道が発展してきたのではと私は想像します。それでそれぞれの道は武士が武道に磨きをかけるように自分に磨きをかける術となったのではないでしょうか。私は本当に打ち込める道というものを見つけられた人は幸運だと思います。茶道の「にったぎる湯」のようにその道で切磋琢磨できることは素晴らしいことだと思います。現代社会で生活の糧を得る為の仕事がその人の道になりえることもあるでしょうし、仕事と両立できる別の道をもつことも可能なことだと思います。私も中途半端で終わらせないで本当に打ち込める道をみつけたいです。今からでも遅くはないと自分にはっぱをかけながら。

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  2. 興味深いポスト、ありがとうございます。
    「道」と宗教を比較した仮説、なるほど〜!と思いました。「道」に真剣取組む人々は、技や芸術を上っ面だけで習得するのではなく、そこに精神修行を見出していると思います。その点、まさしく最も純粋な宗教と言えるかも知れませんね。

    また、「歌道」に対しての姿勢、自分の「心」を真剣に表現すること、こちらもついつい忘れがちになってしまうことで、痛い所を指摘して頂いた思いです。

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