常々思っていたが、明快に、どのような言葉を使って表現したらいいのか、分からないままでいたが、昨日届いたばかりの6月号の文芸春秋に、私が言いたかったことをずばり言い切っている菊池寛の文に接したので、ここに要旨を書いてみる。
大災害や大事件が起きると、間髪を待たずに、歌や文章に書く人がいる。それはほとんどが渦中に居ない人たちで、プールサイドで泳ぎを見ている人たちの言が多い。また都知事に再選された石原慎太郎の「天罰」発言は、その代表的なものだと思う。自分は家も壊されず、片足たりとも水に浸からずに、まして妻や子や親族をひとりも亡くしていない。まったく第三者的な、始末の悪いインテリの発言である。その人を再選させた都民も都民である。まあ、横道にそれるので、そのことはさておき、特別企画 「文芸春秋88年が伝えた震災・津波・被爆の証言」として、関東大震災に関して証言している菊池寛の言葉に、私は惹かれた。「災後雑感」として、・・・・・地震から来るいろいろな実感に打たれたものには、芸術的感興は容易に湧かないだろう。生々しい実感は、容易に芸術化をゆるさない。若し、当座に地震小説をかくものがあつたら、ほんとうに地震を体験してゐないものだ。
まさしく私が言いたかったことである。もし、あの東日本大震災を歌にするなら、長い間心の中に温めて、じっくりと自分の血となり肉となるまで消化して数年後、数十年後に歌にしてはじめて人の心を動かす歌ができるのだと思う。そうでない限り、すぐに作られた歌は、どう読んでも第三者的に眺めている歌であり、心にじっくりと染透ってこない。ただ、今あの阿鼻叫喚の情景を詠うとしたら、その情景を眺めて詠うのではなく、その情景によって起こった自分の中の心の動きを詠ってはじめて読者の共感を呼ぶ歌が詠えるだろう。
菊池寛氏の関東大震災についての証言、「地震から来るいろいろな実感に打たれたものには、芸術的感興は容易に湧かないだろう。生々しい実感は、容易に芸術化をゆるさない。若し、当座に地震小説を書くものがあつたら、ほんとうに地震を体験してゐないものだ。」
返信削除確かにそのような事件や災害に実際に巻き込まれていない第三者が直ちに歌や小説を書くことは何か白々しさを感じさせるものがあるかと想像できます。しかし、実際には、今回の東日本大震災では多くの人が震災直後に歌を書き残しているのです。その多くは実際に災害を体験した人々ですがそうでない人もいます。今回の震災関連の短歌が沢山朝日歌壇に掲載されたと聞きました。でも選ばれた歌には原発とか津波とか直接的な言葉は使われていなく、ややはす向かいに詠っているのだそうです。菊池寛の言う芸術的感興とはどういうものか私にはよく解らないのですが、震災直後に心から湧き出る歌を詠う人はその時点で、多分芸術的感興云々などは多分考えていないのではと思ってもみます。大事件や大震災関連の第三者による歌とは少し異なりますが、身の上に起こった事件や災害の最中や直後に歌が湧き出たというよい例では、鶴見和子さんの歌集「回生」があると道浦母都子の「聲のさざなみ」で知りました。
何年か前に亡くなった社会学者の鶴見和子は脳溢血で倒れて意識が朦朧としている中で歌が湧き出てきたと言っています。そして詠うことにより命が救われたと言っています。私は大分前から、「回生」が収録されている鶴見和子の「曼荼羅 VIII 歌の巻」(藤原書店)を購入したいと思っています。