2022年12月8日木曜日

2022年11月の短歌と合評

 担当:深沢

 

元歌  *赤茄子を詠ひて茂吉 新たなる短歌の域を押し広めたり

最終歌 *赤茄子に出会ふたびごと暗黙の中に茂吉の歌の顕ちくる

  

 宇津木さんの歌の中に出てきた茂吉の歌「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり」は茂吉の処女作歌集『赤光』に収められているものです。なぜこの歌に興味を引いたかというと、夏にトマト作りに挑戦したからです。

 現代風にこの歌を訳すと「トマトが捨てられ腐っているところがあり、そこから幾程もない歩みをして、それが妙に心にかかっている」となります。

 トマト(赤茄子)が腐って捨てられたところを見てから、どれほど私は歩いてきただろう。どれほども歩いていないことよ……。この歌をあえて散文に訳すとこのような意味にもなるでしょう。

 トマトを漢字で書くと蕃茄(ばんか)小金瓜(こがねうり)唐柿(からがき、とうし) 珊瑚樹茄子(さんごじゅなす) 赤茄子(あかなす)の5つの表記があります。赤茄子は、その形と色に着目してそのように呼ばれています。 

 一体、斎藤茂吉はいつトマトを初めて食べたのでしょうか気にかかりました。茂吉が赤茄子と詠んだ大正二年頃は、きっと横目でみていただけでしょう。

 「さ庭べにトマトを植ゑて幽かなる花咲きたるをよろこぶ吾は」『つゆじも』と詠んだ時は大正6年から11年であったので、この時点でもきっとトマトは食べていなかったはず。

 大正10年から13年までウイーンとミュンヘンに留学していた時は、さすがにトマトを食べていたことでしょう。留学中の歌がまとめられている『遠遊』の中に「寺々もいそぎまはりて郊外はトマト畑にほそ雨ぞ降る」とあります。

 

 <合評>

 (北里)トマトをあえて「赤茄子」と使うからにはそこに理由や意図がないと意味がないと思いますが、私には難しいことで単にトマトの言い換えで使いました。その点、この歌は見事に成功していて素晴らしいと思います。茂吉の赤茄子の歌は新しい手法の歌としてその影響など含めすでに色々な人が解説しているので、後半は自分にひきつけて詠むと良いのではと思いました。(千代:赤茄子に出会うたびごと暗黙の中に茂吉の歌の顕ちくる と詠んでみました)

白樺: 茂吉の赤茄子の歌はまだ読んでいないですが探してみます。

(深沢)茂吉の赤茄子を参考にして今月の題詠にしてみました。茂吉のことを引き合いに出して頂け嬉しくなった一首です。

 

 

2022年11月1日火曜日

2022年10月の短歌と合評

 

担当:北里

元 歌:ドタンドタン乾燥機泣けり音のして投げ込みしシューズ急ぎ撤収

最終歌:ドタンドタン荒立つ音出す乾燥機慌てテニスシューズ掴み出したり

オノマトペの入った歌を題詠としました。日本語にはオノマトペの表現が約5千種類もあるそうですが、意識してオノマトペを入れて作歌するというのは、なかなか難しいものだと感じました。今回は切り取りの面白さで深沢さんの歌を選びました。乾燥機の立てるいつもと異なる音「ドタンドタン」に注視した点は、日常の生活の一場面でありながら目の付け所が新鮮で良いと思います。オノマトペは感覚的な言葉なのでイメージが一致する場合ばかりではないと思いますが、短歌ではある程度イメージを共有できることが大切かと思います。4句目は元歌のように単に「シューズ」とし「あわててシューズ」とすると漢字続きも解消され、リズムも整うのではと思いました。

合 評

(千代)ドタンドタンが泣けりとはちょっとそぐわないように思う。泣けりを“荒立つ”としてみました。“ドタンドタン荒立つ音出す乾燥機 慌てテニスシューズ掴み出したり”としてみました。参考までに。

(白樺)乾燥機の擬人化は面白いですがドタンドタンは泣き声というより怒鳴り声に近いのでは?

(北里)面白い切り取りで楽しいですね。「ドタン」を「泣く音」というのは無理があるように思います。文句を言っているようなイメージでは。また「泣けり」で切きれるのでしょうか、「音」に掛かるなら「~の泣く音」となるのでは。



2022年9月29日木曜日

2022年9月の合評と短歌

担当:白樺ようこ


今月の題詠は社会詠ということで北里さんの歌を選ばせていただきました。社会詠は内容の幅が広くどの主題を選ぶか、どの角度で捉えるか、どのようなアプローチで歌を詠むかも難しくよい挑戦になったと思います。2022年の現代社会も諸々の社会問題を抱えています。原爆、ミサイルの脅威、戦争も実際に起こっています。今月とりあげた歌は悪用したら戦争にも繋がりかねない原発に焦点をあてています。作者は海に囲まれた日本に住んでいます。すぐお隣は北朝鮮、ロシア等、政治的イデオロギーの異なる国からの脅威も、特に最近の北朝鮮のミサイル打ち上げ等により身近に感じられることと思います。これはまさに見えざる国の見えざる脅威であると思いますが、歌としては概念語のまま無難にまとめられている感じでもあります。太田青丘氏の「短歌開眼」の社会詠についての一節を参考までに。「・・・総じて時局、社会詠は総論的に大くびりに歌う歌と、えてして概念的になり上滑りしやすいので、努めて身近な事象を通して背後の大きなものを暗示するか、数歩退いて斜交いに歌う方が、より効果をあげやすいように思われる。・・・この場合は公理公論でなく、作者自身にとりこんで、事物の本質に肉するものでありたい。」


原歌:       原発の岬の海の向こうには見えざる国の見えざる脅威
最終歌:   原発の岬の海の向こうには見えざる国の見えざる脅威


(千代)結句の見えざる脅威はよくわかりますが、4句目ですが、見えざる国なのでしょうか?よく見えているのでは?(北里)北海道に住んでいると北朝鮮、ロシアはすぐ隣の国ですが実際に陸地は見えませんし、北方領土の一部見えますが日本固有の領土というとらえ方があります。また何を考えていてどこに向かって進もうとしているのか理解できませんので、二つの意味を託して使いました。
(白樺)海の向こうの見えないとはロシアのことでしょうか?原発のたくさんある日本も危惧すべきです。(北里)先月積丹へいきました。今は稼働していませんが泊原発があります。ウクライナみたいに原発をやるぞとミサイルで脅されたら大変なことだと改めて思いました。脅威はロシアだけでなく北朝鮮なども考えられますが、日本政府の安易に原発に頼ろうとする姿勢自体が危険だとも感じています。。
深沢)原発が抱える問題は人間を恐怖に落とし入れます。平和的利用が出来るよう各国考えるべきです。


2022年8月29日月曜日

2022年8月の合評と短歌

 担当:宇津木千代

元歌:      原爆の無き世を願ふ千羽鶴大空に飛べよサダコの手より            

最終歌:  原爆の無き世を願ふ鶴一羽拾ひて戻さむサダコの掌へと

作者はシアトルのPeace Parkにある”サダコの像”を訪れました。その時の印象を次のように書いています。「その時のPeace Park は手入れが行き届いていないで、雑草が周りに生えていて鶴一羽が草むらに落ちていました。今の不安定な世の中をを象徴しているようでした。」と。この状態こそ歌に詠うべきだと思ったのですが、最終歌はそのようになっていました。元歌は抽象的で、観念の歌になっていますが、作者が実際に見た、感じたその小さな一点を詠うことこそ個性ある歌になるわけです。「原爆の無き世を願う」は、平凡すぎる、個性なき表現なので、初句を工夫し・・・・草叢に落つる鶴一羽拾いて戻さむサダコの掌へと 表現すると、もっとインパクトがあるように思います。

2022年8月6日土曜日

2022年7月の合評と短歌

 担当:深沢 しの

 

元 歌:*新しい傘をさそうかさすまいか迷う幼子「かさがぬれちやう」

最終歌:*新しい傘をさそうかさすまいか迷う幼子「かさがぬれちやう」

 

今月はとても素朴な北里さんの1首を選んでみました。子供の素直な心理が歌われていて、大人からは想像もつかない切り取りが新鮮に感じられました。素朴さの中に常に詩人の心で、この日本の素晴らしい言語文化を楽しんでいるのが短歌なのだとこの歌から思えました。

お題の提案者が今月は自分の順番だったので、その中から選ぼうと初めは考えましたが、題が決まっていることで、その範囲の中で考えることをしなければなりません。何でもそうですが、自由過ぎると逆に不自由というか、やりにくくなることがあります。そんな中、その素朴さに新鮮味を感じました。

2年間に渡り友人の双子(現在4歳児)の心理について週2回研究をしてきていることもあり、自分では結句が魅力的な語彙でした。時には子供心に戻り、この住みにくい世の中を過ごせていければなという思いからこの1首に引き寄せられました。

 

合 評

 

(千代) 可愛い女の子ね!こんな子居そうですね。いいと思います。

(白樺)女の子の話ぶりがそのまま伝わるかわいらしい情景です。

(深沢)ほっこりさせられる1首ですね。真新しい傘なら勿論ぬらしたくはないですね。微妙な子供心理がとても新鮮に感じられます。

 

 

 

 

2022年7月4日月曜日

2022年6月の短歌と合評


担当:北里 かおる

元 歌:共々に老いゆく姿笑ひ合ひ今朝も気軽く一日を始む
最終歌:共々に老いゆく姿笑ひ合ひ今朝も気軽く一日を始む

戦争、感染病、自然災害、テロや発泡事件、等々、嫌でも飛び込んでくるのは暗いニュースばかりです。4月の「ユーモアのある歌」では、出そろった短歌がどれも楽しいものばかりで嬉しくなりました。詠むのも読むのも気分が上がりました。そこで、二番煎じではありますが6月題詠を「笑う」としました。取り上げたのは宇津木さんの短歌です。永六輔さんの『無名人 名語録』に「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」という言葉がありますが、続ぎがあるそうで、「来た道 行く道 二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」と続くそうです。元は仏教からきている言葉のようですが、示唆に富んでいます。宇津木さんの歌は、自分の老いも連れ合いの老いも前向きに受け止めて、夫婦仲良く笑って生きていこうという思が伝わってきます。羨ましく思える朝の時間です。

合 評

(白樺)人生の旅路を長らく共に歩んできたご夫婦の日常がさりげなく詠われていてよいと思います。
(北里)一緒に笑える人がそばにいるというのは良いですね。悪意なくお互いの老いを笑い飛ばすような感じなのでしょう。「気軽く」に老夫婦の明るい姿が思い浮かぶ歌です。 (深沢)笑いは膠原病のみならず、癌、リュウマチ、糖尿病、アレルギーなど多くの病気の治療や予防に有効で、強力な鎮痛効果があり、ストレスを和らげ、脳血流を活性化するという知見が蓄積されていてまさに「笑いは百薬の長」であることが科学で実証されていますね。共に笑えることが羨ましい限りです。 

2022年5月29日日曜日

5月の短歌と合評

担当:白樺ようこ

今月は宇津木さんの歌を選びました。

原歌:土なかで育まれたる茗荷の芽紅色の先ちよこんと見せる

最終歌:土なかで育まれたる茗荷はちよこんと見せる紅色の芽を

原歌と最終歌を比べてみますと、最終歌では上の句の三句目と結句に「は」と「を」の助詞が付けられています。助詞を付けることにより、意味的にはよりはっきりしましたが、散文的になってしまった感じもあります。歌としては上の句を体言止めにして一旦下の句と切り離すと落ち着きが出るようです。例えば「土なかで育まれたる茗荷の芽 ちょこんと見せる紅色の先」 原歌では「ちょこんと見せる」の結句が茗荷の芽が土から顔をのぞかせている可愛らしい状況が飛びこんきますが、最終歌では紅色の芽が強調されています。


(北里)芽の先は緑がかっているのではと思いましたが、紅いものもあるのですね。1,2句は茗荷にかかって説明となり、茗荷の育ち方を知らない人は理解が深まると思いますが、水栽培とかもあるのであえて表現しているのかと思えてきたりしました。(千代:茗荷の栽培はいつも失敗していました。ところが一昨年頂いた茗荷を湿っぽい家の陰に植えましたら、根付いて、茗荷が3個とれました。そこで今年は、ずっと雨ばかりで、寒さが続いていたのですが、ここ二、三日ようやっと少し暖かくなりました。そんな気候の中、茗荷の芽はまだかまだかと毎日毎日庭に下りて観ていましたら、ある日、小豆色の芽(やがて緑に変化します)が黒い土を破って、ちょこんと頭を持ち上げたのを見つけました。何という嬉しさ!生きとし生きるものの、特に生まれたての命を見るのがこんなにも感動的だとは、若い時には気付きもせず、過ごしていました)

(深沢)好物の茗荷がここではなかなか手に入りません。「ちょこんと見せる」が可愛い様子を物語っています。茗荷の色合いを表すのに的確な芽紅色という色があるのですね。(千代:茗荷の芽で、切ります。)

(白樺)「育まれし」と「育まれたる」の違いは?下の句を「ちょこんと見せる紅色の先」とすると茗荷の芽の先の紅がより鮮明に飛びこんでくるようです。(千代:たりは、長い間その状態が継続していた、という意味があります。は、過去の一時を表します。)


2022年4月28日木曜日

2022年 4月短歌と合評

 担当:宇津木千代

元歌 *お医者様パソコン見ずに私診てカルテと私どっちが大事             最終歌*お医者様パソコン見ずに私診てカルテと私どっちが大事  

 今月は題詠が ”ユーモアのある歌”ということで、どの歌も「なるほど、あるある」というような納得の歌、思わず笑ってしまうような歌などあり、どの歌を選ぶか迷いました。最終的に深沢しのさんの歌を選びました。この歌の面白みは、患者などほとんど振り向かないで、何か患者が質問しても、訴えても”うん、うん”などと空返事をしながら、データだか、報告書だかの画面を見つめ続けている姿と、患者である私がイライラしている姿が脳裏に浮かんできます。”よくある、ある”の場面を上手く捉えています。

合評:

 白樺:画面よりもまず人を見るお医者さまは信頼できるのでは?

(北里)私にも同様の経験があり、若い男性医師はちらっとも私を見ず、すごく腹が立ちました。この歌は話し口調にしたのが良いと思います。パソコンに向かっていても診察はしているので、「診る」は、こっちを「見て」の方が分かります。

(千代)切り取りがいいですね。本当にそうですね。よく理解出来る歌です。


2022年4月10日日曜日

2022年 3月 短歌と合評

担当:深沢しの

 今月の短歌は北里さんの歌を選びました。

重低音で鳴り響くボイラーの音は、その場で聞く音よりも離れた所で聞く音の方が反響して大きくなる事がありま機械が動いている時はさまざまな音が出ていますが、正常な動作音と事故につながる可能性のある危険な音も存在します「唸る」という題詠にのっとり1首を詠うがために、夜中で不気味であるその場の状況を表現するのに相応しい語彙の選択に興味がそそられました。

元歌: ボイラーの低く唸るを聞きながら処置室前に父待ちし真夜
最終歌:ボイラーの低く唸るを聞きながら処置室前に父待ちし真夜

 

(深沢)真夜中に耳に入ってくる音には、何とも言えない恐怖感も募ります。どのような気持ちで時間た経つのを待っておられたのか、とても寂しい歌の様子が感じられます。

(白樺)しんとした夜中のボイラーの唸る音に作者の揺れ動く心情が伝わるようです

(千代)“ボイラーの低く唸る音” それも真夜中であれば余計不気味に、不吉な状況が描き出されていますね。この時の状況が、ボイラーという小道具を使って上手く描き出されていると思います。

 

2022年2月7日月曜日

2022年1月の歌

 担当:白樺ようこ

今月は北里さんの歌をとりあげました。


原歌:白昼の住宅街に北キツネ堂々とゆく姿たくまし

最終歌:白昼の住宅街に北キツネ何か銜えて悠然とゆく


北キツネを街に目撃した作者はその様子を主観的に 堂々とゆく姿たくまし” と直接的に表現しています。作者の気持ちは理解はできますが、説明的になってしまい歌としてのイメージが弱くなってしまいました。一般的に説明的表現は、読み手への印象が間接的になります。主観の具体化、形象化ということを工夫すると歌により深みが出て読者の感動が増します。

最終歌では下の句がクローズアップ的手法で少し焦点が絞られましたが、まだ曖昧さが残っているようです。印象の鮮明化をより工夫されるとよいお歌になると思います。


千代)結句で結論を出してしまっているので、読者にはああそうかの歌になってしまうのではないでしょうか?結論は読者が出すもので、結論がでていると歌にふくらみがなくなってしまいます。それに堂々とで、すでに逞しい姿はでていますね。例えば、堂々ととゆくわき目もふらず、とか、尾をあげて、とか、車がよけて、とか。

(白樺)かっては北キツネの生息地であったところが住宅街になって住処を人間に奪われてしまったキツネはせめても堂々と闊歩するのは当然かもしれませんね。人間の残虐さに気をつけて。結句を客観描写すると歌がより生きてくるようです。(北里)私には堂々と見えましたけれど、キツネは恐々で悲しい気持ちかもと思ったりします。

2022年1月8日土曜日

2021年 12月 短歌と合評

担当:宇津木千代

 今月の短歌は深沢さんの歌を選びました。

歌としてはもう少しこなれた方がいいと思いますが、人間にとって”還暦”という歳は、肉体の面でも精神面でも一度立ち止まって自分の過ぎてきた日々を振返ったり、これから人生の晩秋へと入っていく時期。様々な思いが交錯する年代だと思います。講評の中にもあるように、何か具体を入れて、その具体を象徴にして今の思いを詠ってみると、読者にもより作歌者の気持ちが理解出来るかと思います。

元歌: 今更に思い煩うこと捨てて踏み出してみたい今の自分から
最終歌:還暦を過ぎ煩いを捨て去りて前へ一歩出たし今の自分から

(千代)「還暦を過ぎ煩いを捨て去りて前へ一歩出たし今の自分から」としたらどうかしら?あまりいい添削ではないのですが、参考にして下さい。
 
(北里)「今更に」とは今までに何度もそう思っていたことを伝えたくて入れた言葉なのでしょうか。心の内を素直に歌に込めるというのは素敵だと思います。何か具体的な情景などと重ねると詩情がうまれるのではないでしょうか。
(白樺)煩わしさや負の気持ちを切り捨てて一歩づつ進んでくださいね。初句の「今更」は削れると思います。