2020年12月13日日曜日

2020年 十一月の短歌と合評

 

担当:深沢しの

 歌: オスばかりししゃも十匹三百円かわいた眼(まなこ)は空(くう)を見つめる

最終歌:  オスばかりししゃも十匹三百円かわいた眼は空を見つめる

 

   今回は北里さんの歌をとりあげました。

   いろいろな魚を触ってきた魚屋さんに聞いた話を思い出しました。オスよりメスの方が「身の味がうまい」魚ってほぼいないと思うと聞いたことがあります。特に白子や卵持ち出すとその差は顕著に現れ、触っただけで質の優劣がわかるくらいだと言われました。

 それを踏まえて本シシャモはじゃあどうなんだろうと聞いた時、200%オスの方が美味しいと言われました。食べ比べればわかることなんだそうです。好みなどの個人差はあれどこれは結構間違いないそうです。しかもこの本シシャモは見ただけでオスかメスかわかるそうです。とにかく魚屋さんには「自分で触ってみろ」と言われました。

 子持ちししゃもではなく、オスばかりししゃも10匹と安価でおいしいししゃもにとても興味をそそられました。

  

(千代)作者が魚売り場で、買おうか買うまいかちょっと迷っている姿が浮かび上がりました。詠っている風景が脳裏に浮かび上がってくる歌は、良い歌だと思います。

(深沢)カラフトししゃもなのでしょうか。身に栄養を取られるメスとは違いオスは身が美味しいといわれますよね。空を見つめて言るししゃも、パーッケージの中での行儀良さが想像できます。

(白樺)オスのししゃもなので子は入っていないが値段ばかり高く眼がかわいているのでさほど新鮮でもなさそうだとがっかりしていることを言いたかったのですね。(北里)そのように解釈して頂いてもよいのですが、小さめでもメスは10匹で千数百円しますので、オスは安いです。油ののった子持ちシシャモと味は比べ物にならないだろうと思いつつ、買って食べてみました。眼が乾いているのはシシャモは生干し状態で売られているからです。オスに生まれて安値で売られて、私の胃袋に納まった、ということでした。

2020年11月7日土曜日

2020年 十月の短歌と合評

 担当:北里かおる

元  歌: 18年続いた友との縁を切るラインで送る語彙の数々

最終歌:   十八年続いた友との縁を切るラインで送るこれっきりの言葉

今回は、深沢さんの歌を選びました。もう十年以上前になりますが、私にも同様の苦い経験があります。私の場合は電話で喧嘩別れとなってしまいましたが、今は“ライン”か…と時代を感じました。18年という長き年月とラインが送信される一瞬の「時間」の対比が、人間関係のあっけなさを強調していて、歌を味わい深くしていると思います。また、最終歌では「これっきり」という歯切れのよい言葉を使ったことで、字余りにはなりますが、言いたいことが読み手にストンと届く歌になったと思います。余談ですが、「これっきり」という言葉で、私は山口百恵の「横須賀ストーリー」の歌詞を思い出しました。

 (北里)いろいろあったのでしょうね。心が痛みます。漢数字にしないのは意図的でしょうか。結句はもう少し具体的に表現してもよいのでは。今までの感謝はなかったのか、苦言それとも怒りや哀しみの言葉なのか・・・と思いをめぐらしました。

(白樺) 長く続いた友人との縁と一瞬にして伝わる今風のラインでのコミュニケーションの短さが対照的。

(千代)結句ですが、“語彙の数々”ということですが、恐らく上の句から察しますと、怒りの言葉なのだろうと思いますが、“・・・・ラインで送るこれっきりの言葉”としてみました。

 

 


2020年10月5日月曜日

令和二年 九月の短歌と合評


担当:宇津木千代

元歌: 生徒らと離れて立ちて虹を見る校舎の屋上マスク外して

最終歌:生徒らと離れて立ちて虹を見る校舎の屋上マスク外して

今月の題詠は「社会詠」でしたので、コロナ禍を詠じた歌が多かったです。その中で、ほっとするような歌が北里さんの歌でしたので、今月の歌として北里かおるさんの歌を選びました。コロナ禍、コロナ禍とうんざりするような社会現象が生まれていますが、そんな中で人々は鬱積する気持ちを吐き出す手段も見い出せず、鬱々と過ごす日々が多いと思います。教師として働いている北里さんは、きっと生徒が「先生虹だ、虹だよ」と窓に集まり騒いでいる生徒を制し、「それじゃ屋上に上がって観ようか」と、生徒を誘い出して、共に屋上に上がっていったのでしょうか。解放感を味わうためにマスクをとっても、密は避けて、夢の広がる虹を眺めて晴れ晴れとしている生徒と先生の姿がよく伝わってきます。

(深沢)PPEが必要でも屋上の上でソーシャルデイスタンスを保ち虹を見る等素敵ですね。

 今年は4月から年内一杯リモート授業なのでとても寂しい気持ちでいっぱいです。

(千代)なるほど、虹、マスクを外して、屋上などということで歌として仕上がっているように感じます。いろいろと想像の余地がありますね。

(白樺)  虹とマスクの対照がおもしろいですが今のコロナ禍を知らなければなぜ離れてマスクを外すのか分からないと思います。



2020年9月1日火曜日

八月の短歌と合評

 

担当: 宇津木千代

元歌: 抽斗の中で笑みゐる亡き友を如何せんかは 整理の手止む

最終歌:抽斗の中で笑みゐる亡き友を如何せんかは 整理の手止む

今月の歌として、今回は自分の歌を選びました。と言いますのは、合評の中で、私の歌への興味ある講評がありましたので、そのことについて書きたくなりました。右掲の歌に対して「抽斗の中の友とは写真のことでしょうか写真と入れるとはっきりしますねということですが、歌はある面、読者とともに膨らますことができる、読者が深める、考える余地を残しておくことが、歌に奥行きをもたせます。余りに白日の下にすべてのことをさらけ出して詠った歌には、面白みや深みはありません。また、「枝が落ちる」という当たり前の表現を、「枝が離れていく」と異化表現することによって、歌をより昇華させることが出来る。ただそのままを詠えば、散文と変わりがないのです。

(深沢)抽斗の中にあるご友人の写真でしょうか。手放せないしどうしたらよいのかと自分なら途方にくれてしまいます。思い出の品の保存方法をご存知の方どうかご教示ください。よく理解できる一首です。

(北里)抽斗の中の友とは写真のことでしょうか。写真と入れるとはっきりしますねす。「如何せんか」は「如何にせんか」と「に」が必要では。結句の内容、共感できます。私も実家の整理をしなければならず、頭が痛いです。(千代: 歌は読者とともに作っていく、あまりすべてを白日の物に晒してしまったら、何の面白みもないありきたりの歌になってしまいます。葛原妙子の有名な歌「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて」「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」二作とも名歌と言われている歌ですが、“酢は立てり”を“酢の瓶は立り”としたら、だれでもすぐ理解出来ましょうが、何の深みもない歌になってしまいます。また、二作目の“ゆふぐれの水”を、ゆふぐれの水たまり“とかしたら、台無しにしてしまいます。読者が参加できる、ああだこうだと言える歌が、奥行きを持たせます。私の歌は拙歌ですが、出来る限り歌は異化の表現をすると、深みが出てきて、歌に重さが加わります。ただ日常を詠えば、すぐ理解できますが、歌は理解できるからいい歌とはなりえないと思います。)

(白樺)断捨離という言葉がはやっていますが、特に思い出のつまっているものを捨てるのはかなりの決心が要るようですね。

相当長い間(5‾10年)眠ったままで、時々出し入れをして、見たり、使ったりしない物は処分するということを何かで聞きました。「如何にせんや(いかにせんや)」と「如何せんかは」(いかがせんかは)のニュアンスの違いはありますか? (千代:“や”は、単なる疑問ですが、“かは”となると、反語的意味が加わります。“どうしようか、どうしようもできない”というような)

 


2020年7月26日日曜日

令和2年7月短歌と合評


担当  深沢

今月は宇津木千代さんの歌を選らばせてもらいました。
コロナ禍のため自粛が長引き、自宅で心の休まりどころと言えばレスキューした小型プードルです。自分にとっては2匹目の雄犬となりますが、優しい犬ですが一歩外に出ると献身的に自分を必死に守ってくれます。男性に虐待されて家族から捨てられた過去があるのに、今では警戒心もとれ私を信頼してくれています。
動物と人間の関係は言葉に表せない部分も多くあり、野生の鹿の親子であればなおさら、子供を危険な場所にさらしてはいけないという母性本能が強くなり警戒心が一層高くなります。
同じ場所で人間に見られていることは感じているはずなのに授乳を中断しない母鹿、見ている人間は鹿の親子に危害を加えることはないということを悟ったのでしょう。作者と目が合っても授乳を継続する母鹿の強さと人間をへの信頼に心が和まされました。

(原歌)立ちしまま授乳をしゐる母鹿の目と裏庭の吾の目が合ひぬ
(北里)警戒心の強い野生の動物が人間の目の前で授乳をするというのは、めったに見られない光景かと思います。鹿は人間に見つかっても直ぐには授乳を止めなかったのでしょうか。それともすぐその場を去ったのでしょうか。目が合ったという一瞬を切り取っていて臨場感がありますね。その後の情報が入るとその場の緊張感がさらに伝わるように思います(千代:歌は一旦作者を離れたら、後は読者のものになる、ということが言われています。その歌はもちろんある程度熟練した歌でしょうが、歌には想像の余地が必要かと思います。31文字ではもちろんすべて言い尽くせませんので、読者も想像を駆使して読まなければならないと思います。想像の余地のない歌は面白みがないのではないでしょうか?・・・と言いつつ、この鹿は毎日家の周りに子供二匹を連れてやってきます。私の書斎の窓の前にある小さな空き地は昼寝の場所になっているらしく、そこにどっかりと親子だ座り込みます。鹿の去った後には、ウサギやらリスやらが来て遊びます。長い間私は見惚れています。この日は、パティオの椅子に座っていた私にしばらく気付かなかったのでしょうね、突然気付いたようですが、動かないまま授乳続けていました)
(白樺)一瞬のほほえましい状況の切り取りでよいと思います。鹿と人間、母親同士で心が通い合ったのかもしれませんね。裏庭に作者が居て鹿も裏庭に居たのでしょうか。
(深沢)吾が は省いても良いと思います。目と目が合った時間とか場所を入れても良いのではないでしょうか。自然に囲まれていて羨ましい限りです。(千代:ここは工夫したところで、“裏庭の吾の目”というところ、吾は省けません。こう表現することで、鹿が人家の近く、あるいは裏庭で授乳している、ということを読者が理解できると思います。)

(最終歌)立ちしまま授乳をしゐる母鹿の目と裏庭の吾の目が合ひぬ


2020年7月12日日曜日

六月の短歌と合評

                                                                                                            
担当:北里かおる

 歌: 不可思議に書かれた斜めの文字の列 祖父の遺品の大学ノート
最終歌: 不可思議な斜めに書かれた文字の列 祖父の遺品の大学ノート

今回は、白樺さんの歌を選びました。掛け軸や古文書、かな文字、崩し文字が読めない時の気持ちと重なりました。不可思議な文字は知らない国の言語かもしれないし、だったらどこの国だろう、などと想像を掻き立てる一首です。種明かしでは日本語とのことですが、深沢さんのコメントにあるように暗号だったりするかもしれないですね。
そう考えると、おじいさまのノートにはいったい何が書かれているのか、読解不明な文字の先にあるその内容にも興味がわきます。何かの重要機密だったりして・・・。
私には祖父の記憶がなく、遺品なども見たことがないです。この歌を読んで、今まで考えたこともなかったのですが、どんな人だったのかと思いました。

(千代)ただ斜めに書かれているだけで、読めるけれど、何で斜めに字を書いたのか分からない、ということですか?あるいは斜めに書かれていて判読できないような字である、といことですか?後者でしたら、「不可解な斜めに書かれた文字の列 祖父の遺品の大学ノート」としてみました。
(北里)おじいさまの遺品としてノートが残っているなんてすてきです。右斜めなのか、左斜めなのか、英語ですか、日本語ですか?何が書かれてあるのか、興味がそそられます。もう少し具体があると不可思議さが伝わるのでは。(白樺)確かに日本語であるとは思うのですがエジプトの象形文字のような不思議な字です。
(深沢)暗号を解読されていたのでしょうか。理由が知りたい1首です。


2020年6月10日水曜日

5月の短歌と合評

担当:白樺

今月は北里さんのお歌を選びました。今月の詠草は今年の初め頃から地球規模で蔓延している新型肝炎コロナウィルスを題材にしたお歌が多かったです。Mask, Face covering, Social distance, 標語「Stay Home Stay Safe」、三密(蜜閉、密集、密接)等、普段あまり聞きなれない言葉が日常的に聞こえるようになりました。このお歌ではいつも散歩している普段と変わらない公園がウィルス禍の為に違って感じられるということをSocial distance を気にして歩いているという表現で自身の日常的行動に結びつけています。原歌と最終歌は同じですが体言止めでうまくおさまっています。


(原歌)老犬の散歩もソーシャルディスタンス気にして歩くいつもの公園

 (深沢)こちらも犬の散歩で同じような経験をしているのでよくわかります。
  (千代)結句のいつもの公園としたところがいいですね。 (白樺)犬とソーシャルディスタンスを結びつけたところが面白いです。ソーシャルディスタンスは日本語でどう表現するのでしょうか。(北里)そのまま「社会的距離」となります。コロナ以前の生活には戻れないと言う人もいます。この先はコミュニケーションのあり方も変わってしまうのか?私たちのネット短歌は時代の先を行っていたのかもしれませんね。

(最終歌)老犬の散歩もソーシャルディスタンス気にして歩くいつもの公園

2020年4月29日水曜日

2020年4月の短歌と合評



担当: 北里かおる
                                                                                                             
 歌: 病室窓越しにう”大丈夫れぬ薄曇りの午後
最終歌: 病室の窓越しに問う「大丈夫」晴れぬ心に薄曇りの午後

4月の歌は、深沢しのさんの歌を選びました。
新型コロナウイルス感染の影響で混乱が続いています。4月はコロナウイルス関連の歌が多く提出されました。皆の心に重くのしかかっているのだと改めて感じました。この歌はコロナウイルスと限定して詠まれてはいませんが、心情が重なります。白樺さんの講評にあるように、不安な気持ちと薄曇りの取り合わせがとてもマッチしていて心に届きました。その問いには「大丈夫」と答えたい。政治も絡み不安定な状況が続いていますが、一日も早く事態収束し平穏な日常が戻ってくることを願ってやみません。
                                                                                                              
<合評>
(北里)病気のことを思って不安な気持ちを詠んだものかと思います。窓とは外が見える窓ですよね。その窓越しに誰に問うたのか、自問自答ということでしょうか。(深沢)病院の面会は今家族でも禁じられています。外に面した窓越しの面会です。入院しているのは自分なのか、他の誰かなのか、どちらかなと思いました。(深沢)友人です。
(白樺)薄曇りの空と相まって不安にゆれる心象風景を描写しています。「大丈夫」を初句にしてから「病室の窓越しに問う」とすると焦点がより強調できるのでは。


2020年3月31日火曜日

令和2年3月の短歌と合評

担当  深沢



今月は宇津木千代さんの歌を選らばせてもらいました。
昨年から立て続けに訃報ばかりで、相当気が滅入り落ち込んでしまい、人生について遅いかもしれませんが考え始めたところでした。いつ自分の順番が来てもおかしくないこの頃だと思い始めました。

芸人の島田洋七さんの祖母で島田さんの自伝小説に登場し大きな話題となった人物の言葉を引用した歌です。徳永サノさんは超のつく貧乏な家だったので苦労人でしたが、明るく奇想天外なアイデアを持ち、破天荒な発言をする人でした。その方の名言の1つから詠まれたこの短歌は、本当に自分の今の人生を考えさせられる素材となりました。また、この結句がとても愉快でユーモア感にかられました。結句から本当に徳永さのさんの言葉に同意できることができました。新型コロナ肺炎のため在宅勤務となり、人生の暇つぶしの素材を毎日とっかえひっかえ考えることができ、物事を肯定的に考えることが出来始めたところです。


(原歌)折り紙を折りつつ思ふ「人生は死ぬまでの暇つぶし」真っ事に

(深沢)また身近な方が亡くなり、人生が後残り何日あるのか真剣に考え始めた中、もう少しで現状況在宅勤務になるので、本当に人生は暇つぶしだと感じて同意できます。暇つぶしになされていた事が折り紙を折ることだったのですね。結句が新鮮です
(北里)デイサービスの高齢者は皆さん同様の思いを抱いているのではないかと思うこと多々あります。塗り絵とか漢字とか、ボケ防止にと両親も施設のデイでやらわれています。後半の語調が整わないのは心の葛藤としてとらえました。デイサービスを発案した人自身が認知症になったTVのドキュメントで、自分が通所することになった時、「つまらん」と言っていたのが印象的でした。
(白樺)結句の「真っ事に」という言い回しがユニークです。折角授かった短い命を最後まで暇つぶしとは思いたくないですがこういう心理もあるのですね。
「佐賀のがばいばあちゃん」というドラマがありましたが、その中でがばいばあちゃんが、言った言葉で人生は死ぬまでの暇つぶしやから。暇つぶしには仕事が一番ええ。
という言葉がある。その引用です。この引用をしたときに、どこかに斎藤史の名句と言われている疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ 八十年生きれば そりやぁあなたの結句が頭にあったのかもしれない、という思いが歌が出来た後、気が付きました。


(最終歌)折り紙を折りつつ思ふ「人生は死ぬまでの暇つぶし」真っ事に

2020年3月14日土曜日

2020年2月の短歌と合評



担当:宇津木千代

今月の歌は白樺さんの歌を選びました。

元歌: 祖母(おおはは)の使ひし朱塗りのお重箱黒豆赤飯に息吹き返す
最終歌:祖母(おおはは)の使ひし朱塗りのお重箱黒豆赤飯に息吹き返す

 きっと作者の家は、古い伝統を守ってきた家で、代々大切に冠婚葬祭や、祝日に使ってきた食器類が未だに残っているのでしょう。この歌は、その食器類を出して使ったお正月の歌です。結句「息吹き返す」という言葉によって今は亡きおばあ様や家族の人々との思い出が活き活きと蘇ってきたことが想像できます。そして、木製の朱塗りのどっしりとした重箱に黒豆や赤飯が色鮮やかに映えている情景がありありと目に浮かびます。

2020年2月9日日曜日

2020年1月合評

担当 白樺

今月は宇津木千代さんのお歌を選びました。
歌の焦点は”エコー・ドット”という名前の製品で現代のハイテック風潮が切り取られています。どんどん進んでいく新しい技術に遅れ気味でそれがどういう物であるか知りませんでしたので検索してみましたらVoice Speakerであることが分りました。スマートフォン等でも音声をデジタル化して色々なディバイスとコミュニケーションを図ったり質問を音声で入力するとそれに答えてくれる技術もあって驚くばかりです。無機質な機械を結句で”監視”という言葉で人間であるかのように捉えたところが人工知能が人間社会に浸透していく現代にあって共感が湧きます。

(原歌)エコー・ドット キッチンカウンターに鎮座して不気味に吾を監視しゐるごと
(北里)話しかけるだけでいろいろやってくれるなんて、便利になり過ぎた感がありますね。便利さを「監視」という視点で捉えたのがおもしろく良いですね。「不気味に」はどこにかかりますか。エコー・ドットの存在自体が不気味なのか、監視されているようでを詠み手がその存在を不気味に感じているのか、(千代:ちょっと講評の意味が分かりませんが、歌の中で、特別に表現していない限り、常に“吾”は詠み手です。不気味には、監視に係ります。)そこをはっきりさせるとすっきりするように思います。
(白樺:エコー・ドットとはどういうものなのか知りませんが、ハイテックの新しい製品と思われます。もしかしたら現在話題の人工知能を使っているものなのかなと想像が膨らみます。音読すると初句でカタカナが長く少しぎこちない感がしました。)
(深沢)同じく、部屋の中にある機械にいつも見張ってもらっている気がします。迂闊に言葉を発せない気遣いはありますが役立ちます。身近なものを取りあげることの大切さを感じます。

(最終歌)エコー・ドット 台所に鎮座して不気味に吾を監視しゐるごと

2020年1月3日金曜日

12月の短歌と合評

担当 宇津木千代


元歌:  戻り来て道辺に拾う落葉は吾が胸に住む哀しみの色
最終歌: 戻り来て道辺に拾う落葉は吾が胸に棲む哀しみの色


今月の歌は深沢しのさんの次の歌を選びました。
しみじみとした情緒が漂っている歌です。ただ、”戻りきて”が、会員にはしのさんは外国に棲んでいて、日本に帰郷してのことなのか、という想像は湧きますが、第三者の読者には、恐らく想像できないことではないかと思われます。いろいろな想像でもいいのですが、やはりここでは”帰郷して”とか、はっきりと故郷に自分が戻って来て、ということを言うか、暗示する言葉が欲しいですね。

合評

(千代)とてもいいと思います。“戻りきて”は、帰郷して、という意味ですか?(はい)気になっても通り過ごしてしまったので、道を戻って、という意味にもとれますので。“住む”を“棲む”という漢字を使った方が雰囲気が出るように思いますが。
(北里)日本からアメリカに戻ってきて、ということなのでしょうか。(アメリカから日本に戻りました。3回忌と17回忌で帰国していました。京都、奈良、鎌倉では紅葉がみられましたが、東京は外苑の銀杏も色が落ち葉はありますが色が全部変わっていませんでした。)どこから戻ってきたか分かると「哀しみ」が何なのか、その哀しみがどこからきているのか、読み手にも少しは理解できるような気がします。ここでいう「色」は紅葉、黄葉ではなく茶色の枯れた褪せた色なのでしょう
(白樺日本の昔の歌手が歌ったシャンソン”枯れ葉” を思い起こしました。)