2017年11月27日月曜日

11月の短歌と合評

担当 宇津木千代

今月の短歌は、白樺ようこさんの歌を取り上げました。

 白樺さんの歌を読み、台所に立つ亡き母の後ろ姿を彷彿させられました。昔の古びた薄暗い台所に、母はいつも立って煮物をしていました。久しぶりに実家に戻ってきた娘に寒鰤を食べさせたくて、痛む足を引きずってきっと台所に立っていたのでしょうね。お母さまとふつふつ煮える寒鰤と、かって女の居場所であった台所。それらの語彙が日本を殊更懐かしく思わしめます。ただ気になったのは「足萎え」という言葉。かっては当たり前に使っていた言葉でしょうが、今は差別用語として禁止されているはずです。たとえ身内に対してでも禁止用語は使わない方がいいと思います。
原歌:寒鰤のふつふつ煮える音のして足萎えの母厨に立てる

(千代) “足萎え”はめくらやびっこと同じように差別用語に属しています。多分、放送禁止や新聞など禁止用語になっていると思いますお母さまに対してのことですが、公になる歌でもおそらく禁止されているのではないでしょうか4句目と結句を・・・・・足不自由なる母厨に立つとしてみましたが
(北里)ブリのあら煮でしょうか。美味しそうですねお母様が厨に立ったがゆえに煮える音がするのだと思うので、「してを工夫すると良いと思います(深沢)ふつふつという表現はすごくいいですね。鍋の中で煮えている様子が頭一杯に広がります。
(深沢)ふつふつという表現はすごくいいですね。鍋の中で煮えている様子が頭一杯に広がります。

最終歌:寒鰤のふつふつ煮える音のする厨に立てる歩行器の母

2017年10月31日火曜日

10月の短歌と合評

担当:白樺ようこ

今月は深沢しのさんの歌をとりあげました。米国南部の亜熱帯の豪雨を経験したことのある私には情景がよく浮かぶお歌です。すさまじいハリケーンとは対照的に下の句では優しく小さな夕顔に焦点が移っていきそこだけ晩夏のほっとした空間をかもし出しています。講評を参考に推敲した最終歌では気にかかっていた「如き」「咲けり」の語を削ったので大分歌らしくなりました。自然現象を切り取ったお歌ですが、ハリケーンのすさまじさゆえに夕顔の楚々としたイメージが強く残ると同時に、嵐でも戦争であっても外界の移り変わりに関係なく、生命というものは時が来れば自然界の掟に従って生まれ、死んでそして再生していくという普遍性も暗示できるようです。

(原歌)ハリケーンの薄暮の如き晩夏四時夕顔ひとつほっかり咲けり

(千代)まだハリケーンは来ていないのですよね?もしすでにハリケーンが来ていたなら、ほっかりと夕顔は咲いて居られないでしょうし。「ハリケーン迫る薄暮の晩夏四時夕顔ひとつほっかりと咲く」としてみました。結句は過去形よりも現在形にしたほうが、臨場感があるように思います。                                                                       
(北里)夕顔の花の白は品がありますし、夕暮れの薄闇の中で咲いていたら、それはほんとに「ほっかり」で素敵だなと思いました。ただ「ハリケーンの薄暮の如き晩夏四時」という比喩がよくわかりません。「薄暮」は日没後の手元が何とか見える薄暗さですから、四時だとまだ日が暮れ切っていません。また「ハリケーンの薄暮」は誰もがイメージできる情景ではないように思います。
(白樺)下の句の表現がとてもよいと思います。ハリケーンにめげずに咲いている楚々として一見か弱そうな夕顔の力強さが感じられます。

(最終歌)ハリケーン迫る薄暮の晩夏四時夕顔ひとつほっかりと咲く

2017年10月10日火曜日

2017年9月の短歌と合評

担当:北里                                                                                                              


9月の題詠は「水」でしたが、ここに取り上げたい歌がありませんでしたので、今回は題詠にこだわらず、気になった歌を取り上げます。宇津木千代さんの歌です。


 原歌:親しみし飼育員達を噛み殺し、踏み潰す獣。その憤怒思ふ


私は最初、人間側の視点による表面的な鑑賞しかできませんでした。家族が飼い犬や猫に手や足を噛まれ、時には何針か縫うといったことがありましたので、いくらかわいがっていても牙をむくのが動物だという思いがあり、その延長線で読んでしまいました。しかし、今回ネットで見てみると、飼育員が動物に殺されるといった不幸な事件は世界中で実にたくさん起こっており、驚きました。宇津木さんのコメントにあるように、人間の都合や欲によって本来の生活を奪われた動物たちの怒りに、改めて気づかされました。まさに事件は動物の「憤怒」の結果なのでしょう。

また、人間が「獣」に「噛み殺される」、といった衝撃的な内容を詠う上で、あえて句読点を用いた表現方法は、特異な現実を心に刻みながら読み進むことができ、とても効果的だと思いました。歌の印象を際立たせ、注目に値すると思います。他にもどのようなケースで有効なのか、興味あるところです。
以下はネットからの引用です。

「衣食足りて礼節を知ると言いますが、生物の安穏はうっかりすると精神が緩んで目的を失い異常を来たすという事実です。動物の本能や習性はさまざまですが共通しているのは「子孫繁栄」であり、そのために食欲、性欲、母性等の本能が備わり、その本能を活性化させるためには日々の「興味」「刺激」「反応」「学習」「競争」「工夫」なども生体にとっては大切なことになってきます。従って檻で飼われる動物のように衣食住足りることは生物にとって反自然的で子孫繁栄に不適当、不健康でストレスをかかえる不幸な状態といえます。」

かつて動物園の猛獣館で虎やライオンが野生の本能を忘れたような姿で横たわっていたのを思い出しました。


<合評>

(白樺) 動物の立場にたって感情移入したところがとてもよいと思います。句読点は新しい試みですがどういう効果をねらったものでしょうか。

(北里)そのような事件があったのですね。「達」とあるので複数殺されたのでしょう。その獣に、いったい何が起こったのか、所詮畜生ということなのでしょうか。意図的に入れた句読点が奇異な出来事を詠った内容に合っていると思います。獣が何の動物だったのか言ってもいいのでは。(千代:調教師や飼育員を猛獣が噛み殺したり、踏んづけたり、世界中のあちこちで起こっている事件を考えました。日本でも世界でも起こっています。こういう事件が新聞に載るたびに、本来なら自然の中で悠々と生きていられたであろう彼らを捕獲し、狭い檻の中に入れ、それも人間の思うままに動かされていることへの憤怒が、どこか切れて一気に噴出した故であろうと思います。その動物の思いを感じた歌です。所詮畜生だから、というような意味では決してありません。)

(深沢)人間でもきれることがあるので、野生の象ならなおさら、感情が抑えきれないこともあるのではないでしょうか。短歌で句点をこのような形でつけても構わないのでしょうか。(千代:時々、現代ではとくに岡野弘彦氏の歌に句読点を見ます。また、別の歌人達にも散見することがあります。構わないとか構うというよりも、やはり効果を狙ったもので、作歌者の思いが籠められたものである限り、どの時代でも受け入れられています。ここに啄木の三行書きや句読点について触れた部分をコピぺします。「・・・・・句読点などの約物の多用と字下げによる表現が挙げられます。この特徴は主に第二歌集『悲しき玩具』に見られ、句読点の他に感嘆符、疑問符、ダッシュ、括弧類が散りばめられて、短歌であるにもかかわらず、まるで散文のような読み応えを感じます。字下げは『悲しき玩具』の後半百首程度から特に顕著になり、三行書きと相まって読む者に極めて特殊な印象を与えます。」


最終歌:親しみし調教師らを噛み殺し、踏み潰す獣。その憤怒思ふ


2017年9月8日金曜日

8月の短歌と合評


担当:深沢しの

今月は宇津木千代さんの歌を取り上げました。

原歌:怪我を負ひ痛きを訴ふる人在るを涙しつつも幸と言はんか 


最終歌:*怪我を負ひ痛きを訴ふる人在るを涙しつつも幸と言はんか



作歌した時、色々な人から講評されると自分の勉強になることは理解できるのですが、やはり逆立ちをしたり、どう考えても自分の歌を貫きたいという気持ちにかられることがあります。いつも指導して下さる作者があれこれ悩んでもやはり、自分の言いたいことは
他の言葉では表現できないと思ったこと、自分の言いたいことをそのまま素直に詠っていると感じることは間違いではないと感じさせられました。作歌に臆病になりがちですが、少しだけでも、これでもいいのだという気持ちになれたのでこの歌を選ぶこととし、勇気づけられました。


 (北里)詠み手はTVのニュースを見て泣いているのでしょうか。「在るを」が負傷者との距離感を感じさせます。結句の「幸」とは命が助かっただけでも良かったね、とういう思いでしょうか。少しわかりずらいので、「幸と言はんか」という終わり方は少し突き放した印象です。怪我を負った理由や状況が不明なので、読み手に伝わりずらいように思います。
(深沢)事故か何かでお気の毒に怪我をなされたのですね。でも命だけは助かったということのようですね。怪我と直接的に言わないで怪我をしたと言えると良いと思います。
(白樺怪我を負っても命は助かったのでよかったということなのですね。
(中井)命あっての物種、あるいは経験したこと自体が貴重な経験でもあり、怪我の功名ということもある。
(千代) わかりずらい歌だったようですね。私が言いたかったのは、泣いたり、愚痴を言ったり、甘えたりなど自分の一番弱い部分をさらけ出せる人間として、夫を持っていることを「幸せ」と呼んでいいのかな、と言うことだったのです。怪我を負って「痛い、痛い」のだけれど、真剣に心配し、血をぬぐって、止めて、消毒をして、包帯を巻いてくれる人が身近に居るのを、痛いので涙を流しながらも、これを「幸せ」と言うのだろうか、ということだったのです。さて、どのように詠ったらいいのかな、と考えています。・・・・・あれこれ変えてみましたが、このままが一番私の言いたいことを詠っているようで、このままにします。


2017年7月30日日曜日

7月の歌と合評

「ティリリリー終了告げる洗濯機 吾の出番のそり立ち上がる」

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 担当 中井久游

 今月は「北里かおる」さんの歌を取り上げてみました。

 今年は俵万智の「サラダ記念日」から30年目を迎え、改めて彼女の歌を再考察する動きが見られます。5冊の歌集を出していますが、ほぼ口語だけを使い、「句またがり」を特徴とする破調を用いて独特のリズムを持った歌を沢山残してきました。当時はこのライトバースの歌に対して賛否が相半ばしていましたが、今では短歌に革命を起こしたことを否定する人はいないでしょう。師である佐々木幸綱の「なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は」とか「サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず」などの歌に影響を受けているのも確かなことです。

 先人が踏みとどまって来た一線を超えた俵万智の歌は、その愛唱性と暗誦性にあります。破調でありながら自然に覚えてしまうのは、イメージと響きと音数のバランスを(無意識か意識的かは別として)かなり計算されて作られているからです。
 今回の北里さんの歌も下の句が、リズムは五・八の「句またがり」になっている。「一字空け」と「句またがり」に俵万智に通ずるものを感じた訳です。片仮名のオノマトペを頭に持って来て、まず音を想起させ、下の句でゆったりとした動きを見せる。素晴らしい一首だと思います。


 (千代)日常をよく捉えていますね。“のそり立ち上がる”で、作者の心情がよく表現されていて、読者がいろいろなイマジネーションを持てますね。
 (白樺)このお歌も現代的で面白い切り取りと思います。上の句と下の句の間を空けたところがよいですね。
 (中井)機械に急かされている現代人の一こまを歌っているように読めます。機械は張り切っているのに、自分は気が乗らないけったるい感じ。下の句の前を一字空けにし、その後を「字足らず+字余り」にしてそのかったるい雰囲気を表現している。破調の、かなり計算された歌だと感心しました。
 (深沢)便利な世の中になりましたね。殆ど家電まかせですね。


 穂村弘は「多くの歌人がいまだに文語を引きずってつくるのは、その情報量の多さや感情の微妙さが作り出す世界像に惹かれているから。」「透明な言葉を無限に重ねれば、全宇宙をあらわす一首ができるはずというような妄想がある」と言っています。


2017年6月29日木曜日

六月の短歌と合評



担当:宇津木千代 

 
今月は白樺ようこさんの歌を取り上げました。 


原歌:頂上の岩場に立ちて眺むれば薫るみどりは額にすがしき


最終歌:頂上の岩場に立ちて眺むれば波打つみどりに疲れ吹き飛ぶ

最終歌としてはまだ物足りないものがあります。結句で結論を出してしまっているからです。この結句は言葉では表さず、読者をして”疲れも吹き飛んだだろうなあ”という感じをもたせればいいのであって、結論を出してしまうと、読者の想像の余地がありません。また、”疲れ吹き飛ぶ”という成句も常套句ですね。しかし、この歌を取り上げたのは、常套句ではなく、岩場に立って溢れるほどの緑を眼下に眺めた時に、原歌では”薫るみどり”という、使い古された常套句を指摘されると、”波打つみどり”と表現を変えた点に、注目をしました。読者にも”薫るみどり”よりも”波打つみどり”と、活き活きした表現の方がより情景がアピールしてくるのではないでしょうか。自分の表現、個性とは、こういうことを言うのです。そのことを伝えたいと思い、今月は白樺さんの歌をとりあげました。

 (千代) 「薫るみどり」という既成の言葉が先にきてしまって、その言葉をそのまま使ってしまう、ということはよく起こりがちですが、創作者としての歌人は、既成の熟語や常套句を排除して、まず全身心での感じを、言葉化することが、歌人としての矜持ではないか、と思います。難しい言語や装飾された言葉を使う必要はないと思います。生きている言葉、読者が「ああそうか」と感じられる表現を工夫し,創っているいくことが大切だと思います。
(中井)何だか良くまとまっている歌なのに、スーと流れて行ってしまいました。
(北里)頂上は「岩場」でも、眼下には薫るほどの「みどり」が広がっているのでしょう。「額にすがしき」はなぜ「額」なのかなと思いました。
(深沢どこか山登りに行かれたのでしょうか。そこから見える景色の様子が手に取るようにわかります。


2017年6月12日月曜日

五月の歌と合評

担当:白樺ようこ

今月は北里さんの以下の歌をとりあげました。

原歌:           妹が母に電話をしないのを何故とは問えずに距離感つのる
最終歌:        妹の母への電話途絶えるを気にかけつつも時の過ぎ行ゆく

歌は心理的な状況を描写しています。原歌は散文調でそのまま日記に書き留めているようでもあります。講評を参考にした最終歌は少しの言い回しや文法的な改善を取り入れることで歌のリズムが出て滑らかな響きになりました。「距離感」「触感」「食感」「違和感」等「・・・感」というような言葉が口語に多く見られますが短歌ではそのような感じ方を少し離れて客観描写することでより歌の深みが増すようです。



(千代)上の句が散文になってしまっていますので、もう少し工夫が必要と思います。例えば「妹の母への電話途絶えるを・・・・・」とか。
(中井)兄弟姉妹の関係には必ずと言っていい程についてまわる、親に対する対応の温度差ですね。結句をもう少し含みを持たせる表現にすると、もっと読み手の心に響いて来るように思います。
(深沢) 親子でも話しにくいこともあるものですね。時間が経てばきっと話せる妹さんでしょう。
(白樺)人間関係を歌にするのは難しいですが、自己に基づいた身近な着眼点がよいところですが、語彙、韻律、想像力で詩的な表現になると余韻が生まれて訴える力が増すと思います。

2017年5月9日火曜日

四月の歌と合評

                                                                                                        
担当:北里

 4月の題詠は「生」でした。今回は講評の段階からハッとさせられ心惹かれる歌がありました。それが宇津木さんの歌でした。私の場合、保険の外交員の人が知人ということもあり、実際に食事をしたり、お茶を飲み、おしゃべりを楽しみながら、何度となく保険の契約を行ってきました。実感のもてない自分の死を前提に、保険の仕組みに疑問も抱かず当たり前のこととしてお金を払っていることが、滑稽にも思えてきました。そんな自分の経験もあり、鋭く心に刺さってきたのです。どんなに良い歌と言われても、自分の知らない世界や共感できない内容では、そこに歌への感動は生まれません。本当にそうだな、とか、なるほど、と思わせることができたなら、しめたものです。今回は、日常のちょっとしたことの中にも、まだまだ感動を生む歌の材料はあるのだと、改めて気づかされました。

宇津木千代

 原歌:吾の生死茶飲み話のごとく終へ保険会社のドアを押し出づ

(北里)言われてみれば生命保険の契約は人の生き死にを扱っているのに、そんな実感がまるでありませんね。「茶飲み話」と表現したのはするどく上手い切り口です。“確かに“と思わされました。保険会社はどこでも自動ドアなので「押し出づ」とはならないように思いましたが、遠回しに命という契約の内容の重みにふれ、「茶飲み話」の「軽さ」と対比しようとしたのだと思います。実際にドアだったのかもしれませんし。(千代:もちろん、おっしゃるようにビルディングの中に入るのは自動ですが、担当者個人の部屋へ入るのはドアです。まあ、それほど問題ではありませんが・・・短歌は、すべて事実である必要はないと思います。その歌の中で自分が一番詠いたいことを生かすために、フイクションも小道具として必要だと思います。昨年「短歌」で角川短歌賞を貰った学生(多分)が、父の死を連作で詠いましたが、実際に受賞を受けた時に本人の口から、父親は生きている、実は祖父の死を父と置き換え詠った、ということを告白して、それ以来、短歌においてフイクションがどこまで許されるか、大きな問題になりました。私はここまでのフイクションには賛成しかねますが、自分の短歌で、詠いたいことを最大限印象付けるための小道具はフイクションでも一向に構わない、と思います。)

(中井)いい歌だと思います。「吾の生死」を「吾(わ)の生死を」とすると流れが良くなると思います。(千代:吾の生死 は、われのせいし でもなく、わのせいし でもなく、あのせいし と読ませます。)

(白樺作者個人の日常が現代社会を反映しているようでもありよいと思います。

(しの)同じような事をいつも考えています。なかなか踏み切れないものですが、大事なことですね。

最終歌:吾の生死茶飲み話のごとく終へ保険会社のドアを押し出づ

2017年4月9日日曜日

3月の短歌と合評

3月の短歌と合評

担当:深沢しの

 今月の題詠は「叫び、叫ぶ」先月に続いてしまいましたが、北里かおるさんの歌を選びました。

 「叫びの壺」という言葉が身近なものに思えたからです。平日の仕事は、3月は決算時期にあるため、毎年普通の時よりも仕事が倍以上になり、土曜の学校の仕事も定期考査、通知表等があるため仕事量が膨れあがり、心から叫びたいと思うことが多くなります。このような物があるのかと感心はしました。アイデイアを出しそれが商品化されることはいいのですが、なにもかも商品になるということに反面、恐ろしさも感じざるを得ません。ストレスだらけの毎日で少しでも胸の中に留めず発散することが可能であれば、それにこしたことはありません。ストレスボール等も昔からあり、発散する物はありましたが、流石日本だなと思う商品のようです。
ユニークな商品で決して安価な商品ではないのですが、それを購入する人に焦点をあてたところが新鮮に感じました。


北里かおる

*通販に「叫びの壺」を見つけたりストレス社会に買う人ありや

(千代) 「叫びの壺」とは上手い題詠の使い方ですね。結句に“買う人があるのだろうか”という疑問符と反語をもってきていますが、「あるだろうか、いやない」ということになってしまいます。そういうですか?ストレス社会だからこそ、「叫びの壺」などが売り出されるのだと思いますが?ストレスのない社会だったら、そのような壺を買う人たちはいないのではないでしょうか?(北里)変な形をしています。ネットで見た時ビックリしました。このような物を売る人がおり買う人がいるのかと。驚きの内容にしたいと思いましたが、「在庫あり」の表記が印象に残りました。全くいないとは言えませんがこのような物を本当に買う人がいるのかな、と疑問を感じたので、「ありや」となりました。
(深沢)何でも商品になり、商売なり得る世の中が怖い気がします。でも、胸の中に秘めて悩むより吐き出せる場所があるのはいいのかなという気にもなります。 (北里)確かに。ちょっと怖い気しますね。アイディアには関心するものの・・・。
 (白樺) 現代社会の現象を「叫びの壺」で捉えたところがよいですね。

最終歌:*通販に「叫びの壺」を見つけたりストレス社会とて買う人ありや

2017年2月27日月曜日

2月の歌の合評


担当 中井久游




北里かおるさんの歌を取り上げてみます。お題は「日記」

 元歌は
  *大雪の始末に追われ三日分まとめて記す日記家計簿

 推敲後の歌は


  *戦いの相手はドカ雪 三日分まとめて記す日記に家計簿

 題詠の場合は、当然そのお題の言葉を設定してそこから歌のイメージを広げていく訳ですが、雪国に住んでいる作者は日々の暮らしの中で雪と格闘している。そしてそれが日記にストレートに反映するわけでしょう。事実をそのまま詠んでは読者に訴える歌にはなりません。俵万智さんが行っているように、ある程度の脚色が必要になって来るんですね。
 推敲の結果、元歌にはなかった具体的な言葉として、「ドカ雪」と「戦い」が出て来ました。そのことで歌が大きく動き出し、状況がクッキリと浮かび上がって来きます。三句以降が元歌に比べて実感の籠ったニュアンスとなり、とてもいい歌になったと思います。

 

(千代)大雪で大忙しとなり、毎日付けている日記家計簿も付けられなくなった、それほど忙しかった、という主旨でしょうか?日記という題詠ですから、止むおえない、と思いますが、歌としての盛り上がりが欠けるようにも思います。
(白樺)三日分の日記や家計簿を一度にするとはすごいですね。降雪量の多い土地に住む苦労。「雪の始末に追われ」ているという単刀直入な切り取りではなく、例えばシャベルで雪かきをしながらだんだん山なっていく雪の描写を日記や家計簿と重ねることも一案かと思います。
(中井)雪国では多い日は、日に何度も雪かきをしなければならないと聞きますが、その大変さが良く出ています。「日記家計簿」は、語数を合わせるためにこうなったのでしょうか?「日記と家計簿」とするか、家計簿を兼ねた日記なら「家計簿日記」とすると収まりが良い様に思います。(北里)短い日記を書く欄のある家計簿なのですが、分けて表現することにします。
(深沢)雪の始末を考えても想像がつきません。さぞかし大変なのでしょうね。日記家計簿とは良いアイディアですね。(北里)こちらではママサンダンプというもので雪を運びます。屋根に登って雪下ろしをしたりもしますし、融雪溝にまとめて落として溶かしたりもしますが、時間がかかるので裏庭や公園に運んだりもします。この冬は雪下ろし中に命を落とす人が多くてニュースになっていました。