2017年5月9日火曜日

四月の歌と合評

                                                                                                        
担当:北里

 4月の題詠は「生」でした。今回は講評の段階からハッとさせられ心惹かれる歌がありました。それが宇津木さんの歌でした。私の場合、保険の外交員の人が知人ということもあり、実際に食事をしたり、お茶を飲み、おしゃべりを楽しみながら、何度となく保険の契約を行ってきました。実感のもてない自分の死を前提に、保険の仕組みに疑問も抱かず当たり前のこととしてお金を払っていることが、滑稽にも思えてきました。そんな自分の経験もあり、鋭く心に刺さってきたのです。どんなに良い歌と言われても、自分の知らない世界や共感できない内容では、そこに歌への感動は生まれません。本当にそうだな、とか、なるほど、と思わせることができたなら、しめたものです。今回は、日常のちょっとしたことの中にも、まだまだ感動を生む歌の材料はあるのだと、改めて気づかされました。

宇津木千代

 原歌:吾の生死茶飲み話のごとく終へ保険会社のドアを押し出づ

(北里)言われてみれば生命保険の契約は人の生き死にを扱っているのに、そんな実感がまるでありませんね。「茶飲み話」と表現したのはするどく上手い切り口です。“確かに“と思わされました。保険会社はどこでも自動ドアなので「押し出づ」とはならないように思いましたが、遠回しに命という契約の内容の重みにふれ、「茶飲み話」の「軽さ」と対比しようとしたのだと思います。実際にドアだったのかもしれませんし。(千代:もちろん、おっしゃるようにビルディングの中に入るのは自動ですが、担当者個人の部屋へ入るのはドアです。まあ、それほど問題ではありませんが・・・短歌は、すべて事実である必要はないと思います。その歌の中で自分が一番詠いたいことを生かすために、フイクションも小道具として必要だと思います。昨年「短歌」で角川短歌賞を貰った学生(多分)が、父の死を連作で詠いましたが、実際に受賞を受けた時に本人の口から、父親は生きている、実は祖父の死を父と置き換え詠った、ということを告白して、それ以来、短歌においてフイクションがどこまで許されるか、大きな問題になりました。私はここまでのフイクションには賛成しかねますが、自分の短歌で、詠いたいことを最大限印象付けるための小道具はフイクションでも一向に構わない、と思います。)

(中井)いい歌だと思います。「吾の生死」を「吾(わ)の生死を」とすると流れが良くなると思います。(千代:吾の生死 は、われのせいし でもなく、わのせいし でもなく、あのせいし と読ませます。)

(白樺作者個人の日常が現代社会を反映しているようでもありよいと思います。

(しの)同じような事をいつも考えています。なかなか踏み切れないものですが、大事なことですね。

最終歌:吾の生死茶飲み話のごとく終へ保険会社のドアを押し出づ

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