2014年12月30日火曜日

12月の短歌と合評

担当:宇津木千代

 
 
 先月も中井さんの歌を取り上げていましたので、ちょっと迷いましたが今月の短歌で一番心惹かれた歌でしたので、やり過ごすことができず、今月も中井さんの歌を取り上げます。
 
まず、視点がいいことです。何の出来事があるわけでもないのですが、座席のわずかな空間を詠み、そこに読者のさまざまな想像の余地を残した歌であること。社会詠というテーマ詠でしたが、満員電車のわずかな座席の空間に焦点を絞り、人間を映し出しているこの歌に、とても惹かれました。

*混みゆける電車のシート空間の残りしままに満員となり              
(萩)人と人が座ってる間に空間がり、もう少し詰めて座れば後何人か座れる状況だということでしょうか。立っている人は身動きできないままに、その空間を見ながら「もう少し詰めてくれれば座れるのに」と毎日のように思う、、改善の余地があるなというような日常の繰り返しの場面を上手く切り取っていると思います。                    (千 代)最初、空間を優待者専用座席(?)でしたっけ、 と読みましたが、違うのですか?シートは、座席がいいと思います。(中井)ロング座席のいわゆる「お見合いシート」でのことです。座席も車両全体も満席状態になってきても、微妙な空間を残したまま詰めようとはしないのです。もっと詰めればもう一人座れるのに・・・。私は疲れている時など、右手で合図して座らせてもらいます。 電車が満員となったわけですから、 この歌ですと、座席が満員になったように受け取れますので、もう少しはっきりと電車が満員になった状態の中で、すこし空間が残っている座席に焦点をあてる といいと思います。視点は、とてもいいと思いますが、“混みゆける”は、字数をあわせるために“ゆける”としたように思えます。徐々に混んでいったことを 言いたいのでしょう?でも「行け+る」ですから“る”は完了で、「混んでいってしまった」という解釈になってしまいますが、現在形で「だんだん混んでいっ ている」状況だと思いますので“混み行く電車は座席の空間残ししままに満員となる」                                 
 (北里シートの空間」は空席のことではなく、座っている人と人との「隙間」のことで、もっと詰めて座ればもう一人くらい座れるのに、という指摘かと思いましたが、「空間」はちょっと分かりづらい気がしました。                                                                                                                                    (白樺:)のシートの空間とはシルバーシートのことでしたら「シルバーシート」としたほうが分かりやすいのでは。「混みゆける電車」を「混んできた電車」と口語にした方がこの歌の場合はしっくりするような気がします。)

最終歌;混みゆきてロングシートに僅かずつ隙間残せし満員電車

2014年12月5日金曜日

11月の短歌と合評

担当:白樺

今月はどの歌をとりあげようかと迷ったのですが、身辺詠や自然描写の歌が多かった中で多少とも現代社会の事象に触れる歌として中井さんの以下の歌をとりあげました。

*寂びゆける疎林に風のたゆたいて落葉をなでる 老老介護 

上四句まで読むと自然を描写した歌のように思えますが、一字空けて結句の「老々介護」ではたと考え込んでしまいました。はたして最初の四句と結句とのつながりは何か。二度三度と読み返してみるとなんとなく身辺の自然現象を通じて背後にある何か大きな現象を暗示させているようにも思えてきます。高齢化社会になっていく中での老人同士の介護の重荷、お互いの思いやりや優しさなどが落葉が風に吹かれて散り乱れるように疎林の中を過ぎ去ってゆく。
社会詠はとかく理念が先走りして概念的になり上滑りした歌になりがちです。
社会詠をよく詠った太田青丘の「短歌開眼」に「・・・身辺の事実(個)に即して、事実の意味(全)を暗示又は開示する方が効果を発揮する・・・」とあります。なるほど何時も講評などで取り上げる具体性とはこの事実(個)に即するということなのかとうなずけます。
                                       
(萩)老老介護は想像を超える大変さと厳しさがありますので、結句に老老介護を持ってくるには4句目までがのんびりし過ぎていると思いました。“、、、、風は吹き荒れて落葉を飛ばす”というような表現の方が私にはぴったりきます。 
                                                            
(千代)意図するところは、十分に理解できます。4句までが、結句を導き出す舞台装置であること。しかし、「寂びゆける」で、荒涼たる感じをうけますし、落ち葉は秋か冬でしょうし、風も冷たく厳しいのではないかしら?きっと北風でしょうし、その風がたゆたいで落ち葉をなでる、という表現が、アンバランスな感じを受けます。   
                                                                                                                               
 (北里)ご自分の今のことを詠ったのでしょうか。結句の「老老介護」が少し唐突に感じました。 
 
(白樺:老老介護のがやるせなさが前半の描写で浮き彫りにされています。結句の前の一字空けも効果的と思います。)

最終歌;暮れゆける疎林に風の吹きゆきて落葉をなでる 老人介護

2014年10月31日金曜日


担当:北里                                                                            原歌;向島の萩のトンネルくぐり行けば晩夏の陽射しのゆうらり透ける                                                                      
10月はオノマトペを題詠としましたが、出題しておきながら自分で思っていたより大変で苦戦しました。中井さんには「オノマトペのある短歌」ということでインターネットから歌をいろいろと紹介して頂きましたが、その時の中井さんのコメントに、“実際にあるものをそのまま使ったのでは創作として芸がないということがわかる”とありました。同感です。メンバーのみなさんは果敢に挑戦していたと思います。   今回は白樺さんの歌を取り上げました。自分の中でオノマトペが一番しっくりきましたし、「ゆうら透ける」という表現がきれいだと思いました。「萩のトンネル」は白樺さんがメールしてくれた写真で初めてみましたが、本当にトンネルになっていて驚きました。「時」はひらがなにした方が見た目、「晩夏」にスムーズにつながるように思いましたが、どうでしょうか。オノマトペを効果的に使うとなると本当に難しいもので、宇津木さんにはオノマトペに関する河野裕子の講演記録、萩さんには川野里子さんのエッセイからオノマトペに関する一節を紹介して頂き、それもまた良き学びの機会となりました。
<合評>                                                        (萩)後半がいいと思います。“くぐり行けば”ですが少し説明的な感じがするので“くぐる時”ではどうでしょうか。また4句と結句を入れ替えて“、、、くぐる時ゆうらり揺れる晩夏の陽射し”とするとより結句として納まりがいいように思いました。                                                              (千代)最初、“萩のトンネル”とあったので、そのような名前が付いたトンネルがあるのかと思いましたが、“萩”という花のトンネルのことですね?萩はトンネルを作るほど背が高いのですか?“萩の群(むら)々過ぎゆけば”では、違いますか?                                                                                                (中井)萩のトンネルって良いですね。私も宮城野萩が大好きです。「行けば」の「ば」は無い方がいいのと、「陽射しの」の「の」も無い方がゆうらりのリズムに乗りやすいと思います。「向島の萩のトンネルくぐり行く晩夏の陽射しゆうらりと透け」敢えて言いさしの形にして、余韻を・・・。                                                                 (北里「くぐり行けば」の)字余りが気になります。「萩のトンネル」とは素敵ですね。萩は秋のイメージですが、実際に晩夏に咲いていたのでしょうね。「ゆうらり透ける」がいいと思います。
最終歌;向島の萩のトンネルくぐる時晩夏の陽射しゆうらり透ける

2014年10月1日水曜日

2014年9月 短歌と合評

担当;萩洋子

今月は私自身が挑戦したく枕詞を使うというテーマを提案しました。そうでないと枕詞を使って短歌を作ることは先ずないだろうと思ったからです。しかし実際に考えてみるととても難しく提案したことを後悔するほどでした。残念ながらこのブログに取り上げるのは一首だけですが、皆さん苦労された様子が伺えました。中井さんが「枕詞の必然性がないままに使わざるを得なかった歌も多かったように思います。」と講評に書き添えておられましたがそれも頷けます。満足のいく歌ができたかどうかはともかく「枕詞」に関しての知識が増えたことだけは間違いありません。
北里さんの一首をご紹介します。枕詞といえば私の中では不動の位置を占めている「たらちねの母、、」多くの人が懐かしいような切ないような気持ちになるのではないでしょうか。最終歌では結句を結論付けず読者に想像を残すような言葉選びがされていて余韻が深くなったように感じます。

(出詠歌) たらちねの母と呼ばれることもなくも師と呼ばれしや生きる糧とす          (萩)踏み込んだ内容の一首ですね。結句の“生きる糧とす”と言わないで、それを感じ取れる言葉にすると結句の重みが増すと思います。                                                                        (千代)己の内側に踏み入った、北里さんだけに作れる歌ですね。このような歌がやはり読者の心を動かすのです。ただ、残念なことに、結句で総纏めの結論を言ってしまっているのです。このようなことは、読者が想像する余地を残すべきなのです。ここまで言ってしまうと、読者はこの歌に参加できないのです。例えば「・・・・・こともなく師と呼ばれつつ20年過ぐ」とすれば、あとは読者が想像してくれます。歌はこのことがとても大切に思います。余計な自分の意見は邪魔になるのです。  (中井)「師と呼ばれし」では過去形になりますので、「母と呼ばれる」に合わせて「呼ばれゐて」としたいですね。                                                                                                                                  (白樺:作者の存在感もあってよいと思います。二度ある「も」を一つ削って「・・呼ばれることなくも」として下の句を「教師の道を生きる糧とす」としてみました。

(最終歌)たらちねの母と呼ばれることなくも師と呼ばれつつ三十五年


2014年9月3日水曜日

2014年8月の短歌と合評


担当 中井



 今回は、恐縮ですが自分の歌を取り上げてみました。と言うのも、幾つかの問題点を指摘されたので改めて読み直してみることも意味が有るのではと思った次第です。
  誤解を招く表現を避けながら、想像力を掻きたてる歌を詠うのは難しい。ましてや、実体験でないものを説得力のあるものとして詠うには相当の力量が必要になるのだという事を実感しました。また、言葉は簡単だが奥が深い歌というのは、とても難しいものの様です。
 主体をどこにもっていくか、吾との関係性が曖昧のままでは歌として成立しない。その辺りの事をもう少し勉強する必要が有りそうです。勿論、私がです。

 千五百年もの永きにわたって受け継がれてきた短歌(和歌) は、日本の近代化と歩調を合わせるように変容を見せ、近代から現代に至って多様な表現を試行しながら今に至っています。昭和の風物・習慣さえ消えていこうとしている中で、未だにその根幹を崩さずに生き永らえている事に感動を禁じ得ません。

 ジセダイ短歌とかケイタイ短歌とかいう呼び方で親しみを持ち、若い人の間にも広がりを見せているのを見るにつけ、この五、七、五、七、七の三十一文字の韻律の形式が如何に日本人の体質に合ったものであるかが分かります。
 文字の種類、語彙の多様性、オノマトペの豊かさ、古語・雅語の存在、文語と口語の二面性などと言葉を操るセンスや細やかな情感。四季の豊かさや花鳥風月に象徴される自然の移ろいや様々な災害の中で、生きる上で濾過し熟成・醸成して創りあげてきたものが日本人の心というものなのでしょう。それらの発露として、短詩系の制約を持った短歌という形式は、日本人の心にぴったりと合うものなのでしょう。

題詠 お題「星」
 提出歌
 *わだつみのいろこの宮のかたはらに六億年を海星し生きむ  
  

(千代)古事記の海幸彦・山幸彦の物語に六億年という年月があるのですか?それともただ「長い長い年月」を言いたかったのですか?青木繁の絵「わだつみのいろこの宮」に海星が絵がかれているのですか?その海星を擬人化して「む」は、意志ですか?それとも推量?御伽噺を詠みたかったのですか?この歌の意味がよく理解出来ません。  

(中井)ゴキブリが二億年生き続けているように、海星は六億年生き続けている生物です。「わだつみ」は海を「いろこの宮」は古事記から採ったもので、直接は青木繁の絵とは関係が有りませんが、そう取られることは否めないので再考します。「生きむ」の「む」は、意思ではなく単なる推量として使いましたが、「らむ」が正しいようですね。

 (千代)推量の助動詞“らむ”は、動詞の終止形に付きます。生く“が終止形ですから、「生くらむ」でないとおかしいです。ただし、ラ変の動詞には連体形に付きます。

(白樺: 古事記の物語を背景にしたお歌ですね。「海星」は「ひとで」の漢名とありましたが、最初は分かりませんでした。「海星し生きむ」の助詞の使い方ですが、強調の助詞の「し」と意志の助詞「~む」の組み合わせで海星を擬人化しているのですか?

(北里)海の神様の宮で、ヒトデが六億年生きている、という内容でしょうか。「生きむ」の前の「し」は、どのような使い方でしょうか。

中井)「し」は、強調を表しています。六億年も生き続けている海星を強調したかったのです。




 最終歌 *「わだつみの深き浅きにひっそりと六億年を海星し生くらむ」