2024年9月6日金曜日

Eメール短歌会  2024年8月 題詠「原爆」


元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌: 青

林よしこ

*原爆の地獄絵知らぬ我々も時間を止めて聴くレクイエム

(北里)語源を考えると「地獄絵」はあくまでも「絵」ということなのでは。被爆者や原爆で亡くなった方々、そして「我々も」、共に平和を祈る、という視点は共感できます。式典ではなくどこかの教会でレクイエム(鎮魂歌)が歌われ、それを聴いたのかもしれません。(林)教会で聞いたのではないですがなぜか昔からレクイエムを聴くのが好きでした。神様このような人間をお救い下さいと祈るしかありません。
(白樺)広島や長崎の原爆被害に実際に合わなかった世代が殆どとなった現在。終戦79年目を迎えて高齢となった数少ない原爆体験者が後々の若い世代に原爆の体験を語り、戦争は絶対やってはいけないと訴え続けている反面、現実には地球のどこかで今も戦争が起こり続け、核兵器の威嚇も存在しています。世界平和を祈るばかりです。
(林)同感です。
(千代)短歌はあくまで“自分が主”ですから、“我々も”と一般化しないで、自分を中心に詠うといいと思います。「・・・・・・我ながら・・・・・」とすると、5音になります。
林)そのようにさせて頂きます。ありがとうございま
(深沢)結句から悲壮感が感じられます。
(林)ありがとうございます。

*原爆の地獄を知らぬ我ながら時間を止めて聴くレクイエム

「意図的な自由」と壁に描かれたジャズ喫茶に集う詩人ら

(北里)「意思の自由」ではないのですね。「意図的な自由」とは、どんなことを言っているのか、入れ口で立ち止まってしまいました。ジャズ喫茶は今はあまり見かけませんが、詩人が集まっているとはどこかの時代的な感じがして、昔のことを思い出しての歌なのかと思います。
(白樺)5、7、5の韻律が大きく崩れているのが少し気になりました。「意図的な自由」を下の句の結句にすると焦点がそこに集まり構成的にも落ちつのでは。「意図的な自由」と書かれた喫茶店とは外からの圧力に反発して心を自由に遊ばせて集まる人達のいる喫茶店のことかと想像しました。ジャズ喫茶は昭和の雰囲気がありますね。アングラ酒場とか地下室の喫茶店に集まって音楽や議論を交わしていたのですね。
(千代)観念の歌に思えます。以前、よく引き合いに出して短歌を説明した子規の歌があります。「いちはつの花咲き出でてわが目には今年ばかりの春行かんとす」(もう来年の春には自分の命はないだろう。今年が最後になるであろう自分の命。春も逝きつつある時に咲く“いちはつの花”、この花を見るのも今年が最後か、というような命終を詠った短歌です。深い深い命の詩ですが、一言も言葉ではそんなことは言っていません。表面的には“いちはつの花が咲き始めた。私には今年だけの春が過ぎようとしている”ということですが、この歌の奥にある深い深い命の終わりを感じざるを得ない詩です。「意図的な自由」を詠いたいのなら、何かを小道具として、読者が「意図的な自由」を詠いたいのだなと、感じるように詠うのが、短歌で、観念や思想を生のままぶっつけるのは散文であって、短歌ではありません。ただ、そういう表現はとても難しく、工夫をしつつ何年何十年かかって表現し続けることによって可能になると思います。
(深沢)句またがりになっているのが、文字で表記されていると「」が使用されているため視覚からのインパクトでリズムが整っていないように一瞬感じてしまいました。
(林)このお店は引きこもりの息子が気に入っており週に一度は一緒に行くのですがお店の壁に英語で「Intensional Freedom」と書かれていて それが気になったのでこの歌を詠みましたがそれを辞めてみます。

詩人たちカフェに集いて歌詠めば 琴線震わせ聞く息子おり

香りたつ豆を挽く音懐かしむ父の存在 浮かぶクリーム

(北里)「懐かしむ」のは詠み手かと思いましたが、お父様が音を懐かしんでいるのですね。そんな「父の存在」が目の前にあるということ。1コマ空けたのはコーヒーが落ちるまでの時間経過でしょうか。出来上がりはウインナーコーヒーのようですね。
(白樺)嗅覚、聴覚、視覚に訴えるお歌ですね。コヒー豆を挽いている時に、同じくお父様がコーヒーを淹れていたのを懐かしんでいるのは作者でしょうか。例えば、語順を少しかえて「香りたつ豆を挽く音によぎる父 珈琲カップにクリーム浮かぶ」
(林)ありがとうございます。とても良いと思いますのでそのように変えさせて頂きます。
(千代)二句目音で切れているのですか?それとも初句からずっと続き、父の存在に係るのですか。“父の存在”は、この歌には少し重苦しい表現ですね。
“在りし日の父”としたらいかがでしょうか?
林)そうですね。存在は辞めます。
(深沢)珈琲をブラックでは飲まず、クリームを入れられていたのですね。結句からクリームがゆっくりと珈琲に溶け込み文様を作り出す様子も想像できます。
珈琲らず巧みに表現を語されている1句と2句が素敵ですね。
(林)ありがとうございます。父は54歳で他界してしまいましたが、引退後はジャズ喫茶店を営みたいという夢を持っていましたので休日には色んな豆を買って来てはサイフォンで時間を掛けてコーヒーを入れてました。生クリームを入れてくれ それが上に浮かんだ状態で飲むと美味しいと教えてくれました。良き思い出は一旦下に沈んでも浮き上がってきますね。

香りたつ豆を挽く音によぎる父 珈琲カップにクリーム浮かぶ

宇津木千代

恋ならずまして愛ならず混沌の坩堝を悔ゆる二十の出逢ひ
 
(北里)「恋」と「愛」の違いは何か、それぞれの定義はあるようですが、ここではそのどちらでもない、20歳での記憶があり、今も後悔がつのる「出逢ひ」とはどうようなものだったのか、「混沌の坩堝」とは。意味深な短歌ですね。
(白樺)作者が二十歳のころは波瀾万丈だったのかと想像が膨らみます。個人的な状況と共に社会的な状況も背景にあるのかもしれませんね。
(林)二十の出会いを悔いてられるのでしょうか。なんとなく理解できます。                                                                                           
(深沢)現在でも考えるような一生の思い出となる出逢いをされたのですね。相手のことが気にかかる一首です。

恋ならずまして愛ならず混沌の坩堝を悔ゆる二十の出逢ひ
 
大魚なるキハダマグロは口に目にフィシュピック刺されひと声もなし
 
(北里)ちょっと残酷な場面のように思いますが、生活のための漁とはそういうものなのでしょう。場面の切り取りが鋭いと思います。
(白樺)結句の「ひと声もなし」の人間の残虐さ、魚が感じたであろう無念さに心を痛めます。弱肉強食の世界を身近な具体で示唆しているお歌と思います。
(林)残酷なシーンですね。もしも人間だったらと思うと怖いです。
(深沢)人間の残酷さを物語っていて、生きる意味を感じさせられる歌です。

大魚なるキハダマグロは口に目にフィシュピック刺されひと声もなし
 
*原爆の阿鼻叫喚に広島は「ヒロシマ」となる 「水ヲ下サイ」
 
(北里)阿鼻とは最も苦しい地獄とか。「ヒロシマ」の片仮名表記は、単なる地名ではなく原爆で焦土と化した街を意味しているとのこと。歌の中での使い分けが巧みです。原民喜の詩は漢字カタカナ交じり文ですが、カタカナが多いのでこの歌の中でカタカナとつながった感じがします。
(白樺)原子爆弾を投下された広島は、カタカナ表記により日本国のみならず世界中に原爆の悲惨さを思い知らされる言葉となりました。
(林)結句が悲惨さを生生しく表現されています。
(深沢)結句が状況を物語っていると思います。

*原爆の阿鼻叫喚に広島は「ヒロシマ」となる 「水ヲ下サイ」

白樺ようこ

*自衛といふ盾に潜みてじりじりと核戦争への怪し黒雲

(北里)正に今「黒雲」ですね。アメリカが5月に臨界前核実験を行ったのはこちらでもニュースになりました。軍縮会議も滞っており、世界が分断されている今、核なき世界が遠のいていると感じています。その危機感が社会詠として生かされています。
(千代)短歌の私の師であった尾崎左永子先生は、よほどのことがないと社会詠は詠みませんでした。どうしても上からの目線になってしまうからということでした。社会詠を詠むとしたら、大きな全体的な事ではなく、もっと小さな一点集中で詠んだらいいと私は思います。
樺)社会詠はとかく観念的で大掴みになりがちで難しいですね。
社会詠をたくさん詠んだ潮音の太田青丘の著書「新短歌開眼」で社会詠について述べた文を以前読んだ事を思い出して復習の為にもう一度紐解いてみました。成程と思いましたので引用させて頂きます。
「・・・総じて時局、社会詠は、総論的に大くびりに歌ふと、えてして概念的になり上滑りしやすいので、勤めて身近な事象を通して背後の大きなものを暗示するか、数歩退いて斜交いに歌ふ方が、より効果をあげやすいやうに思はれる。もとより時と場合により、道破の形をとるものもあってよいが、この場合は公理公論でなく、作者自身に取り込んで、事物の本質に肉迫するものでありたい。」

*自衛といふ盾に潜みてじりじりと核戦争への怪し黒雲

(宇津木)以下は、講評ではありませんが、読んでみて下さい。

塩野七生は、ご存じとは思いますが、イタリアに住み多くローマの歴史物語などを長年に渡り調査し、物語を書いています。そしてどんなに人々が理想をのべても、今までの世界の歴史は、結局、国は力を持たないと滅ぼされていくということを述べています。古くは、釈迦国が滅ぼされた原因は、力を持たなかったからではなかったかしら?戦争を好む人は居ないと思います、自分は高見の見物で、武器を売ったり戦争に必要なものでお金儲けをしている人達は別だと思いますが・・・。国民があんなに悲惨な状況であっても、北朝鮮を滅ぼすことができないのは、核を持っているからです。今、ロシアは核戦争をちらつかせ、ウクライナやウクライナを支援する国家を脅かしています。私の先輩歌人は、横浜大空襲で自分の学級全員をうしなってしまいました。彼女の母親の予感で「今日は学校を休みなさい」ということで、死を免れたという戦争体験をした先輩は、世の中で憲法九条ほど美しい憲法はない、憲法九条を世界遺産にと言っていました。この先輩に対しては、私は何も言うことは出来ません。その悲惨さを骨身に染みて体験しているからです。しかし、世界情勢は日々変わっています。美しい人間の姿を夢に見、追及していくことは、世界中のすべての人間が善意で生きているという前提の下には可能なことだと思います。しかし、如何せん人間世界は、正義や理想だけでは生きのびられないのが現状です。特に政治の世界は、善悪、駆け引き、騙し、裏切りが満ちています。こういう世界を生き抜いていくのはどうしたらいいのでしょう?鬱憤限りない最近の世界情勢ですね。
(白樺)「原発のウソ」を書いた小出祐章先生が政治は大嫌いだと言ったわけが分かるような気がします。

(深沢)いつ終わりが来るのでしょうか核戦争は。

ホームレスのテント寄せ合ふアメリカに武器の支援を乞ふやメタ二エフ

(林)税金の使い道をもっと慎重にして欲しいですね。
(北里)テントと武器の対比が面白いです。アメリカは大学生の反イスラエルデモがあり、学内に設置したテントの撤去に応じなかった、ということがありましたので、テントつながりでしょうか。アメリカ大統領選にも影響のある話題ですが、武器支援はウクライナにも、ですよね。長崎市長が原爆記念式典にイスラエルを招待しないことでアメリカ他数か国が参加しないことになり、考えさせられます。
(白樺)個人的には、長崎市長はイスラエルも招待するべきだったと思います。招待した国もあり招待しなかった国もあったということは、理想ではありますがやはり政治的な取引をはなれて原爆の無い世界平和を皆で祈るという本来の目的を外れてしまったのが残念に思われます。
(千代)きっとそれでもアメリカは他の国と比べれば豊かなのですね。
(深沢)15年間何をしてきたのでしょうか。他国を救うよりも先ず足元を見るべきだと思い知らされる歌です。
(白樺)アメリカは膨大な軍事費を費やす前に、もっと足元を見て欲しいと思います。

ホームレスのテント寄せ合ふアメリカに武器の支援を乞ふやメタニエフ

サダコの像切り盗まれて無惨にもピースパークにふたつの足首

(北里)本当に酷い事件ですよね。銅を狙った犯行のようですが腹が立ちますね。原爆記念日を前に心無いことです。社会詠として感慨深いです。
(千代)本当に怒りがふつふつと沸き上がりますね。「破壊されしサダコの像 足首がピース・パークに二つ転がる」としてみました。“無惨にも”という作者の感想は、そこまで言わないという短歌の暗黙のルールに違反していますが二つ転がるということで、無惨さは読者に十分伝わるはず。
(白樺)足首は転がっていたわけではなく台座の上に足首だけが残されていたのです。
(林)そのニュース聞きましたが、足首だけが残っていたのですね。酷すぎます。
(深沢)金属目的で盗まれたサダコの像が哀れです。反戦の象徴を早く戻してほしいです。

サダコの像切り盗まれて足首の台座に残るピースパークに

深澤しの

*『碑』を読んで名前を確認す 原爆で消えた水永君の
 
(北里)碑を二重カギ括弧にしたのは、何か特別な碑を指しているからまのでしょう。碑には原爆のことや亡くなった方のことが書いてあるのだろうと思いますが、「水永君」とはどのような存在なのか興味がわきます。読む側に何であるかを伝へるために、前書きがあると良いのかも。
(千代)この歌では、実際に広島か長崎で詠んでいるように思えますが・・・旅をしたのでしょうか? やはりただ「碑」だけではなく、もう少し語句を並び替えて表現したらいいように思えます。例えば「原爆で一瞬に消えし水永君その名を探す「慰霊石碑」に」としてみました。ところで「水永君」とはどいう少年なのですか?今まで、読んだことも見たこともない名前ですが、何か特殊な物語があるのでしょうか?
(深澤)現在、高校で使用している現代の国語の教科書に『りんごのほっぺ』という単元があります。渡辺美佐子の書いた随筆で、筆者の初恋の相手が疎開した広島で原爆で亡くなったことを知らず、30年後にテレビの対面番組で探して欲しい人のリストに載せてもらい、水永君の両親と対面し、水永君が原爆で12歳で命を落としたことを知り得ます。広島テレビから出版された『碑』という本の中に水永君が在学していた広島2中の1年生322名と4名の教員が被爆しており、原爆死亡者の名簿と慰霊碑に水永君の氏名があり、この本は自分が小学生の時に初めて読み、その時から強く印象に残っている図書の1冊です。指導しているときは、どうしても『碑』の本を開いて、巻末にある原爆死亡者名簿の第4学級のところにある水永龍男の名前を探してしまいます。(千代:そうなんですか。渡辺美佐子って、確か女優さんですよね?そんな物語があったのですね)
(白樺)「水永君」とは作者に縁がありそうですが、『碑』と共に作者との繋がりに何かヒントがあるとよいと思います。
(林)結句のお名前が本当に消えてしまった男の子の命の重みを感じさせてくれます。

*原爆で一瞬に消えし水永君その名を探す「慰霊石碑」に

知らぬ間にU.S.A.を声援し涙している我に気づきぬ

(北里)パリオリンピックで盛り上がりましたので、その時のことでしょうか。アメリカの勝利に喜ぶ自分の涙で、すっかりその国の人になっていたことに気づいた、それが歌になったのですね。読み手にとって人生の大半を生きた地であることを思うと、自然なことと思いました。
(千代)今だからオリンピックと分かるでしょうが、オリンピックでなくても何らかのスポーツの大会であることが分かるような言葉がほしいですね。この歌を読み、まだ私の子供達が中学生頃のことだったか?一緒に「トラ,トラ、トラ」という映画を観に行った時の事日本がやられると子供達が拍手をしたことを思い出しました。子供達はもう完全にアメリカ人になっているんだなあと、思ったことを思い出しました。日本とアメリカの戦いなら、私は絶対に日本を応援する自分が居ます。ただアメリカと別の国との戦いなら、それほど情熱はありませんが、アメリカを声援する自分がいます。私は未だ根っからの日本人で、アメリカ人にはなり切れません。
(白樺)涙のでるほどアメリカ勢を応援している作者は長年アメリカに住み、一人のアメリカ人として第二の故郷に溶け込んでいるのでしょう。
(林)長年住んでいると自然に国民になりますよね。なんとなく理解できます。

知らぬ間にU.S.A.を声援し涙している我に気づきぬ

「夜爪を切ってはならぬ」と諭されし今の自分に何の意味がある

(北里)口笛を吹いてはいけないとか、親の死に目に会えないからと言われたりしましたね。戦国時代の「世詰め」⇒「夜爪」で「短命」を意味したとか、色々説があるようです。迷信が今に伝わっていることが興味深いです。親を送ってしまうと今更と感じる作者の気持ち、共感します。
(千代)とてもいい発想だと思います。誰に諭されたのでしょうか?(深澤)友人
ずっと昔に諭されたのでしょうか?近頃言われたのでしょうか?(深澤)ネイルアートの話をしていてつい最近 そこが疑問に思えました。というのはそこがはっきりすると、もう少し違う表現にもなりうるからです。
(白樺)昔私も聞かされたことがあります。このような迷信は今では意味がないと思う作者がいる。
(林)作者は既にご両親を亡くされているのでしょう。もう切っても大丈夫!
(北里)口笛を吹いてはいけないとか、親の死に目に会えないからと言われたりしましたね。戦国時代の「世詰め」⇒「夜爪」で「短命」を意味したとか、色々説があるようです。迷信が今に伝わっていることが興味深いです。親を送ってしまうと今更と感じる作者の気持ち、共感します。
(千代)とてもいい発想だと思います。誰に諭されたのでしょうか?ずっと昔に諭されたのでしょうか?近頃言われたのでしょうか?そこが疑問に思えました。というのはそこがはっきりすると、もう少し違う表現にもなりうるからです。
(白樺)昔私も聞かされたことがあります。このような迷信は今では意味がないと思う作者がいる。
(林)作者は既にご両親を亡くされているのでしょう。もう切っても大丈夫!

「夜爪を切ってはならぬ」と諭されし今の自分に何の意味がある

北里かおる

行きずりの宿世(すくせ)であるか保護犬と眼の合いしときの胸の高鳴り

(千代)“行きずり”は、どの言葉に係るのですか?“宿世” (前世とか、前世からの因縁など)に係るのでしたら、ちょっと意味がはっきりとしません。保護犬に係るなら“行きずりの保護犬”とした方がいいと思いますが、5,5になってしまいますので、行きずりは省いて、参考までに「保護犬と宿世であるか眼の合いて胸の高鳴り知らず覚える」としてみました。また、保護犬なら“行きずり”とはならないのではないですか?どこかに保護されていて、意志をもってその犬に会いに行かない限り、会えないわけですから。行きずりの犬だったら“野良犬”になるのではないでしょうか?北里)「行き摩りの宿世」という慣用的表現があり、「道を行ってすれ違うのも前世からの因縁」という意味とありましたので、そのまま使いました。出会ってしまったことに、前世で何か因縁があったかも、という感覚に及んだ次第です。
(白樺)「宿世」は「保護犬と眼が会った」ことを指しているのですね。「行きずり」はたまたま犬が保護されている所を訪れたということでしょうか。もしその保護犬のそばを偶然通り過ぎた時ということでしたら、例えば「通り過ぐ保護犬と眼の合う時に宿世であるか胸の高鳴る」
(北里)たまたまでの訪問ですが、大きな時の流れの中の「行きずり」のように思えたりします。
(林)人間のような保護犬を見つけられたのでしょうか?恋に落ちたような感覚だったのですね。
(北里)恋かどうか、次の世でまた会うことを約束していたかも、前世で何か縁があったかもと。
(深沢) 2句目の語彙の使い方が良いと思います。胸のときめき瞬間が結句から良く理解できます。


「行き摩りずりの宿世(すくせ)」なるやも 保護犬と眼合いしときの胸の高鳴り
 
ででむしやお前の耳はどこにある口笛で吹く「かたつむり」の歌

(千代)“ででむし”は“でんでんむし”の方言のようですね。確かに歌詞の中では、耳については問うていないですね。発想がいいですね。
(白樺)童謡的なリズム感があるお歌でよいと思います。
(林)口笛で吹けるって素晴らしいですね。作者はかたつむりを見つけられたのでしょうか?(北里)目の前のカタツムリに語りかけている場面の歌です。口笛はけして上手くはありませんが。
(深沢)懐かしいまいまいつぶりのメロディーを口笛で吹く。何気ない仕草に興味が湧く一首です。

ででむしやお前の耳はどこにある口笛で吹く「かたつむり」の歌
 
*鐘の音は淡々と静かにつつむあの日のままの原爆ドーム

(千代)二句目“淡々と静かに”と、字余りがあり、三句目は字足らずになっていますが、意図をもってそうしているのですか?(北里)「淡々を強調し後半に畳みかけたく意図的に崩しました。また、“淡々と”という言う意味はよく分かりますが、もうすこし、あの日を想像出来ように。参考として「鐘の音は真澄の空を響き渡る あの日のままの原爆ドーム」(北里)昨年、以前から一度はと希望していた広島の原爆ドームや原爆記念館を訪れました。その時ドームの佇まいは長い時を隔て私には淡々としているように映りましたが、原爆記念日の鐘などはやはり平和を願い澄んだ空に響き渡るようなものであってほしいですね。
(白樺)鐘の音の形容詞を少し削ると字余りが解消されるのでは。
(北里)字余りではなく、あえて57777としました。意図は伝わらなかったようなので定型に。
(林)あの日のままでこれからも平和を訴えて続けて欲しいですね。
(深沢)原爆ドームの近くから聞こえてくる鐘の音のもの悲しさが伺えます。


*鐘の音は静かにつつむあの夏のあの刻のままの原爆ドーム


課題予告

9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木
11月「暮(暮れる)」北里
12月「餅」林
1月「」深澤

2024年7月28日日曜日

Eメール短歌会 2024年7月 題詠「花火」

元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌

北里かおる

蜆たちくつろいでいるのんきなり料理するのをしばし躊躇う

(林)貝類でも命がありますもの一瞬戸惑いますね。くつろいでいるという表現が頷けます。
(千代)どういう蜆の姿を“くつろいでいるのんきなり”と、感じたのでしょうか?感情移入が多いように思いますが・・・私も時々アサリを獲ってきて、砂出しの為バケツに海水と共に浅利を一日つけて置くことがありますが、ガラージのコンクリートが、浅利の吐く海水でべとべとになっているのを見ましたが、その時には、浅利の生きたい必死の思いを感じたことがありました。
(北里)舌のような足をべろっと出して安心しきってくつろいでいるように思いました。水を取り換えても油断していたのか、とっさのことに対応できなかったのか、しばらく殻に足をはさめたままで、親近感を覚えました。
(白樺)蜆を擬人化してこれから生けにえになろうとしているのも知らないでのんきにしていると観ている作者。蜆の命を少しでも長らえようと躊躇しているところ優しいですね。
(深沢)初句の蜆を「くつろいでいる」「のんきなり」と擬人化させた表現がおもしろいです。これから蜆の身に起こる惨事を知り得ないと思うと、食材ではありますが気の毒であり、他の食材にもあり得ることなので結句の料理人の気持ちが理解できます。

蜆たち足をだらりん寛いでいる料理するのをしばし躊躇う
 

真紅とはまさにこのあか「宴」という名をつけられて大倫の薔薇

(林) 宴という名の真紅の薔薇があるのですね。情熱的な色ですね。
(千代)4句目“名をつけられて”ですが、“名をつけられた”か、“名を付けられし”ではないかしら?もしかして “名をつけられて”としたことに、何か意図があるのですか?
北里)狙いがあって品種改良されその成果に相応しい名前をつけてもらうんだなと薔薇のことを思ったら「つけられて」になりました。でも説明的な感じがしますし、講評の表現の方が自然だと思います。
(白樺)赤色を「あか」とかなにした理由はありますか。「まさにこのあか」と結論していますが、客観描写で真紅を描写できるとより視覚にうったえるお歌になると思います。
 

(北里)漢字で「赤」とするとまず一般的な赤色のイメージが来るかなと思って仮名にしましたが、読んだとき視覚的にしまらないですね。描写については「宴」という名前から想像してもらうのがよいかなと思います。
(深沢)花径が10僂曚匹砲覆訛舂悗礼薇なのですね。中心が白くなりつる性の赤色とあるので、真紅というよりも深紅色なのかなとも思いました。一度手にしてみたい薔薇の花です。(北里)大通りの薔薇は数も多く見ごたえがありますが、今年初お目見えの品種で話題になりました。

真紅とはまさにこの赤「宴」という名をつけられし大倫の薔薇
 

*妹と暗くなるのを待っていた打ち上げ花火手には綿あめ

林)綿あめ!機械にコインを入れて自分で作っていたのを思い出しました。
(千代)幼き日の打ち上げ花火の想い出が、目に浮かぶようです。
(白樺)夏の風物詩の綿あめ、花火、妹さんと暗くなるのを待っていた切り取りが郷愁を誘います。一案ですが結句の綿あめを初句にして「綿あめを手にして花火を待っていた・・」とすると綿あめが焦点になり下句で妹さんと暗くなるのを待っている背景へと続くと流れがでるようです。
(北里)ご提案の語順だと分かりやすくなりますが、普通になってしまうかなと思います。
(深沢)日本の夏を感じさせられる1首です。花火大会なので出店があるのですね。綿あめなど幼少の時にしか口にしていないので、懐かしさを感じさせてもらえる歌です。


*妹と暗くなるのを待っていた打ち上げ花火手には綿あめ

宇津木千代

う孫らの声遠のくをドア隔て独り聴きつつ時に出合ふも
 
(林) 時に出合ふも …どんな感じなのか詳しく知りたいです。
(白樺)「う孫」は孫や子孫の古形と辞書にありました。「幼なら」とすると孫だけですが、孫の両親や親類も含むように「う孫」としたのでしょうか。下句で皆が去った後の寂しさや孤独感が伝わります。
(千代)う孫は、孫の古形ですが、五音で調子を整えるために用いました。
(北里)「時に出合うも」のがよく分かりませんでした。この先も遊びに来てくれてまた会う機会はあるといっても、お孫さんの帰っていくその声をドア越しに聞いていて寂しく思う、という内容なのかと想像しました。
(深沢)孫との一時も成長も垣間見ることが出来さぞ楽しい時間とも思います。しかし、普段大人しかいない生活にふと戻った時の時間が必要な時もあるのですね。
 
*(千代)“時と出合うも”ということは、私が生まれて、生きて、結婚し、子供が出来て、子供が結婚し、孫が出来てという時の経過を、孫たちの存在によって“時”という抽象的な観念を、現実化された形で知らしめられているということです。
 

う孫らの声遠のくをドア隔て独り聴きつつ時に出合ふも
 
図書館の静寂の中くつろぎてラージ・プリントの本二冊借る
 
(林)私もラージ・プリントの本 見つけると嬉しくて思わず手に取ります。
(白樺)「ラージ・プリント」は最初、本の著者の名前と勘違いしましたが、字が通常よりも大きく印刷してある本なのですね。図書館の静かでゆったりとした空間は落ち着きます。横道ですが、最近本二冊を図書館で借りようとしていますが人気のある本のようで貸出中で大分待ち時間がかかっています。ラージ・プリントやデジタル版があればより早く貸出ができるようです。
(北里)昨今、ラージプリントブックはずい分と増えているようで、興味深い視点です。視力が衰えてくると細かい字の読書は疲れると思うので、読みたい本が大きな字だと嬉しいものだと思います。結句の数字の2が気持ちをよく表していると思います。
(千代)日本語でもラージ・プリントの本があるのですね?まだ、見たことがありませんが、今度日本へ帰るチャンスがありましたら、購入したいです。
(深沢)図書館の静寂というのは、昔から大好きです。静寂の中がくつろげるという気持ちが良く理解できます。出張先でも時間がある際にその地の図書館を訪ね、6月末もシカゴの図書館に息子と本を借りに行きました。自分もラージ・プリントの本を借りるようになるのだなと、時を感じる歌と出会った気持ちになりました。

 
図書館の静寂の中くつろぎてラージ・プリントの本二冊借る
 
*遠花火独立記念日に聴き入れば多摩の花火と同じ音する
 
(林)花火の音を比較できるのですね。素晴らしい耳をお持ちですね。
(白樺)多摩の花火は時間的にも昔のことで、空間的にも海の向こうと作者が現在住むアメリカ大陸で隔たりがあるので「遠花火」が時空を超えた想いを伝えています。
(北里)多摩川の花火大会は大規模のようですが、思い出の花火は遠花火だったのでしょうか。かすかに聞こえる花火の音に郷愁を誘われたのですね。
(深沢)一瞬俳句を感じさせる初句の使い方が新鮮です。現在と過去の思い出を上手く重ねた1首だと思います。花火の音も万国共通なのですね。
(千代)そうですね、英語でも日本語でもなく、音は万国共通で、独立記念日に上がるあちこちから聞こえてくる遠花火の音が、昔聴いた花火の音を想い出させました。幼いころのあの興奮した時、大家族で過ごした日々、亡き父母、祖父母の想い出も自然と浮かんできました。その状態を「多摩の花火と同じ音する」と表現しました。
 
*遠花火独立記念日に聴き入れば多摩の花火と同じ音する


林よしこ

*ジリジリと燃えて弾けて赤い球(たま)ポトリと消えた線香花火

(千代)4句目“ポトリと消えた”は、“ポトリと落ちた”か?落ちたは、消えたことにもなりますし。(林)初めは “ポトリと落ちた”だったのですが、実際私が見た“赤い球”はあくまでも消えて無くなったのでそのように致しました。人間の死を思うとき死後の世界はあくまでも人々の想像でしかなく 実際は目前から消えてしまう花火のようだと思いました。
(白樺)さりげない夏の夕の情景でオノマトペも効果的です。体言止めも構成的に落ち着いています。
(林)ありがとうございます。
(北里)線香花火の様子の説明で終わってしまっていると思います。何かちょっとした自分らしい一言が入ると良いのではないでしょうか。
(深沢)線香花火の辿り着く先がよく表されていると思います。ポトリと言う語彙から線香花火の軽くて小さい様子が伺えます。

ジリジリと燃えて弾けて赤い球(たま)ポトリと消えた線香花火

俊太郎「死は生からの解放」と残して飛んだアゲハ蝶

(千代)この歌から察すると、谷川俊太郎さんは、亡くなられたようですが、いつ亡くなられたのですか?(林)谷川俊太郎「死因」とGoogle致しましたら出てきましたのでお亡くなりになられたのだとショックでしたが まだご健在のようでした。(苦笑)
アゲハ蝶は、谷川さんの詩作か言動に関係していることですか?
(北里)哲学的?「残して」の主語は俊太郎かアゲハ蝶か。谷川俊太郎の言葉とアゲハ蝶の関係がよく分かりませんでした。
(白樺)谷川俊太郎が晩年に残した作品か言葉しょうか。宗教的な意味合いがあるようですね。結句の「アゲハ蝶」が毛虫から蝶に生まれ変わりそして空に飛び去り死んでいく過程を象徴しているようです。
(深沢)何か身辺に変化があったのでしょうか。とても気になる1首です。
(林)谷川俊太郎氏は学生の時に公演に来て朗読をして下さった事があり彼の鋭い空を切るような眼差しが印象的で心に残っています。まだ生きておられるようで嬉しいです。

俊太郎「死は生からの解放」と歌う戦士 吾の内にあれ

何処からか風に運ばれ落ちた種 根はり花咲きシンフォニー

(千代)歌というより散文的な表現と同時に、歌にとって一番大切な作者の立ち位置が見られないことと、頭の中で作られてしまった歌のような感じがします。(林)残念です。
(北里)「シンフォニー」は管弦楽のための大規模な楽曲、とありましたので、大草原の花畑をイメージしました。様々な花々が咲き乱れている情景でしょうか。
(林)初夏の何気ないアメリカの道端の景色ですが かなり色んな種類の色の花々が咲きほこり迫力があり車を運転しながら感動して詠みました。
(白樺)花の種も人間もどこに飛び散るか定着するか、生きていく過程での偶然さや不思議さ。シンフォニーのように楽器の音は異なるけれど全体として和を醸し出しているのでしょう。
(林)そうですね。風に吹かれて飛んできた種とはまさしく自分の事です。
(深沢)自然の偉大さが感じられます。どんな花が咲いたのか想像するのが楽しいです。
(林)ありがとうございます。田舎の道端の景色ですが 名もないような雑草が逞しく花を咲かせており誰も手入れをしていない様子が心地よく音楽のように調和がとれている様子を歌にしたいと思いました。(今の自分もこれらの雑草のように存在できれば嬉しいと思いました。)

何処からか風に運ばれ落ちた種 根はり花咲きシンフォニー

白樺ようこ

*樹々の鳥にしばしの我慢と言ふやうに遠慮がちなる遠音の花火

(林)きっと鳥たちや犬猫も大音響の花火には毎年閉口してるのでしょうね。
(千代)“遠慮がちなる遠音花火”と言う表現の感じはよく理解できますが、二句目、三句目は、感情の移入が強すぎるように思えます。
(北里)繊細な視点からの歌ですね。私などは遠くの花火の音を鳥たちがうるさくて我慢している、と思ったりしないのですが、鳥は夜の音に敏感で細なのかもしれませんし、鳥たちへの気遣いが歌になりましたね。
(深沢)人間が作り上げた人工の音に、自然界の動物たちは時には我慢しなければならないこともあるのですね。聴覚が優れている動物にとっては、どのような音でも遠音であった欲しいです。人間は我儘な動物なのですね。

*樹々の鳥にしばしの我慢と言って寝る枕辺に聞く遠音の花火

ブルーベリー濃い紫の実を摘みて口に含めば夏巡り来る

(林) ブルーベリーFarmに行かれたのですね。夏ならでは素敵な歌ですね。
白樺)Puyallup の近くにブルーベリーパークがあります。ある農家が市に寄付したそうで、誰でも好きなだけ無料で摘むことができます。
(千代)結句を“夏の味する”としたらいかがでしょうか。
(白樺)そのようにさせていただきます。直接的に“夏が来た”とは言わなくても、夏が来たのだということが読者に分かる表現になると思います。
(北里)ブルーベリーの採集をしたのですね。熟すと紺色から黒色になるとありました。紫黒色でしょう。色から見ると、ここではまだ熟する前なのでしょう。甘くなる前の酸っぱさに夏の到来を感じてりるのですね。
(深沢)ベリーの中でもブルーベリーは、夏を感じさせますね。ご自宅の庭で育てておられるのでしょうか。ブルーベリー農園などに摘みに行かれたのでしょうか。夏の暑さではなく爽快さを感じられる歌です。


ブルーベリー濃い紫の実を摘みて口に含めば夏の味する

選挙戦の状況画面で追つてゐる少しの希望を片隅におき

(林)アメリカの選挙戦ですね。外国人にも優しい国でいて欲しいと切に願います。
(千代)4句目と結句の表現が良いですね。
(北里)「状況を画面で」とするとすんなり意味が通ると思います。「片隅」とはどこの片隅でしょうか。「少しの希望」とは実際には希望があまりもてない状況ということでしょうか。
(白樺)大荒れに揺れている今回の米国の選挙戦を見ていて将来的に色々な面で少しの不安を抱くことがあります。
(深沢)どのような11月になるのか、自分の中に迷いも出てくる大統領選挙です。下の句が全部を物語っています。

選挙戦の状況を画面で追つてゐる少しの希望を片隅におき

深澤しの

片足の鳩に無情のゲリラ雨 恐れず我に寄って啄む

(千代)ふと4本ある鳩の足で一本に障害がある場合、片足と呼ぶのか?と、疑問に思いました。もしどなたか答えがある方は教えて下さい。私は“三本足の”と言うのかしら?と思いましたが・・・。4句目と結句を「餌を持つ我に怖れず寄って来る」では如何でしょうか?
(千代: 済みません、何を勘違いしたのか鳩が4本足と思い込んでの講評でした。失礼しました。)
(北里)読み手はゲリラ豪雨の中、どのように鳩と対自していたのでしょうか。片足の鳩もけなげですが、詠み手は大丈夫か心配な状況です。
(白樺)パラリンピックの選手の勇気に勝つとも劣らずに片足という不具合にもめげずに必死で生きようとする鳩の勇気に感服です。

片足の鳩に無情のゲリラ雨 餌を持つ我に恐れず寄って来る

ワープロの時世に我はエンピツと紙きれが武器ひたすらに書く

(千代)紙にエンピツで書く、ということは努力が必要ですね。
(北里)アナログ的な自分への肯定感が良いと思います。だたワープロはパソコンに取って代わられているので、今はAIの時代ではありますが、せめて「パソコンの時世」としては。
(白樺)機械に頼らずに自らの手で字を書くということは体操をして身体機能や脳機能を高めるのと同じような効果があるようですので頑張ってください。


パソコンの時世に我はエンピツと紙きれが武器ひたすらに書く

静やかなドローン花火のもあってよし されど花火の音も恋しい

(千代)“静やかな”とは、平安時代の言葉か、とも思うのですが、ドローン花火は近年のもので(実際のドローン花火ってあるのですか?)そのアンバランスを作者は狙ったのかしら?とも思います。4句目と結句は、「・・・・されど恋しい花火の音も」と、したら歌の流れがスムースにいくように思うのですが、如何でしょうか?
(北里)視点の新しさが良いですね。ドローン花火は環境への配慮からこれからは増えていくのかもしれませんが、たしかに何か物足りないですね。「のも」は「も」だけの方がすっきりしますね。
(白樺)ドローン花火というものは未だ見たことがないのですが大小のドローンがデザインされた軌跡を飛び交っているのでしょうか。あるいはドローンを使った花火の企画があるのですか。
(深澤)ドローンを使用した花火の企画です。

静やかなドローン花火のもあってよし されど恋し花火の音も

課題予告

8月「原爆」深澤
9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木
11月「暮/暮れる」北里
12月「餅」林


2024年7月2日火曜日

Eメール短歌会 2024年6月 題詠「結ぶ」


元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌
 
深澤しの

蘇るわが青春の1ページ 卵顔したモディリアー二の絵

 (林) 卵顔したモディリアー二の絵を見て何を思い出されたのか興味が湧きます。
(白樺)モディリアー二の絵が作者の青春にどんな影響を与えたのかヒントになる言葉があると良いと思います。
(千代)どういう場面なのでしょうか?デイトで一緒にモディリアーニの絵を観に行ったのか?あるいは卵顔した中のいい友達が居たとか?卵顔したモディリアー二の絵に関係あることが、作者の青春とダブるわけですね?
(北里)「1」は漢数字がよいですね。結句は「絵の人」「人物画」等となるところでしょうか。何かモディリアーニの人物にまつわるエピソードがありそうですね。青春の思い出につながるヒントが一つ欲しいところです。
 
蘇る青春の一ページ 卵顔したモディリアーニの絵
 
横着になりし木々のリスたちに 懲罰としてピカーンを与えず

 (林) いつもリスを観察されているのですね。微笑ましいです。
(白樺)リスの行動を横着と見ている作者。リスにもそれぞれ性格があるようで手で差し出したナッツを勇敢に手元まで取りにくるリスもいればナッツに興味がありながら人の手元まで取りに来ない臆病なリスもいます。
(千代)作者がいつもピカーンをあげているので、リスたちは自分達で餌を得ることをしなくなってしまったので、自分達で何とかしなさいと言うことですか?
(北里)野生のリスに餌をあげているのでしょうか。「懲罰」と言う言葉が厳しいですが、あえて可笑しみをねらって使ったのかなと思います。「横着」とはどういうことを言っているのか、「懲罰」に納得する具体がほしいです。
 
横着になりし木々のリスたちに懲罰としてビカーンを与えず
 
*貝の口をさらりと結ぶ君の手で ほどかれてゆく沖縄ミンサー

 (林) すみません、私の想像力が足りません。
(白樺)貝の口を結ぶとは帯を結ぶということですね。下句では沖縄ミンサー織の帯がほどかれていくということで、結ぶとほどくとで反対の動作になるのでは?
(千代)いろいろ考えると、とてもエロティックな場面にも思えてしまうのですが・・・“君”というからには、この“貝の口”結びをする人は男性ですよね?その同じ手で、沖縄の綿の細帯をゆっくりとほどいていく場面
(北里)知らない人にも「ミンサー」は帯のことだと分かるように、沖縄はなくても「ミンサー帯」とするのが良いのかなと。「君」は男性とすると、帯が「ほどかれていく」のは恋愛のつやっぽい場面なのかと想像しました。
 
貝の口をさらりと結ぶ君の手でほどかれてゆくミンサー帯
 
林よしこ

*息を吐き身体(からだ)を結ぶヨガをして鳥になったり月になったり

(白樺)ヨガのポーズを身体を結ぶと表現したところが面白いですね。鳥や月はどちらも空の中を飛んだり浮かんだりしていますのでヨガをして身や心を自由自在に空に遊ばせるということをよく表現していると思います。(林)ありがとうございます。
千代)ヨガをしている人なら“身体を結ぶ”ということが理解出来るのではないかと思いますが、ヨガをしない私には想像しか出来ませんが、ここで言う“身体をむずぶ”ということは、いろいろなポーズをとるということですか?(林)息を吐きながら体をひねったり曲げたりして色んなポーズをとります。
(北里)ヨガはyoga繋ぐ、結ぶ、という意味の言葉からきているとのことで、心と体を「結ぶ」ということでしたので、「心と身体を結ぶヨガ」という表現にすると良いのでは。呼吸が大切ということですから吸ったり吐いたりの両方ですかね。(林)そうですね。
(深沢)ヨガの意味は結ぶという意味もあるので、結ぶヨガとすると、語彙が重複していることになるのではないのでしょうか? (林)ご指摘をありがとうございます。
 
*息を吐き心身結び息を吸う鳥になったり月になったり
 
 鉢植えを持ち上げ見ればミミズ達 吾に邪魔された静かな夜宴

(白樺)ミミズの目線に立って静かな夜宴をじゃましてごめんなさいと思っている作者の気持ちが優しいですね。(林)ありがとうございます。
(千代)短歌は特別な場面以外は“吾”が主人公ですから、“吾”を省くほうが、字数を他に使えます。結句と4句目を入れ替えて、・・・・静かな夜宴邪魔をしたらし などと表現できます。(林)そのようにさせていただきました。
(北里)鉢の下にミミズがいたのですね。イトミミズとかでしょうか。ミミズにしたら人間は迷惑な存在と、ミミズの立場をおもんばかっている視点に面白みがあります。宴会のあとはどこかに散っていくのでしょうか。その後が気になりました。きっと湿った場所を探して移動したはずです。
(深沢)ミミズの領域を侵してしまったのですね。初句で鉢植えとあるので、土壌を良くするためにミミズを鉢植えの中に故意的に飼育しているのかと思いました。(林)ミミズは苦手です。苦笑

鉢植えを持ち上げ見ればミミズ達 静かな夜宴邪魔をしたらし
 
母の日に亡き母忍び描く絵は微笑む太陽 向日葵のごと

(白樺)亡くなられたお母様への想いを絵で表現されたのですね。「太陽が微笑んでいるようだ」ではなく「太陽の下で微笑んでいる向日葵のようだ」と表現したかったのかとも思いました。一案ですが「太陽の下で微笑む向日葵」(林)ありがとうございます。これは平塚らいてうの名言「原始、女性は実に太陽であった。」から引用しました。まさに母はそんな女性であったと思いこの歌を作りました。そして実際には笑う太陽が月を照らしているイラストを描きました。
(千代)特に、亡くなってみて、初めて母親の偉大さは感じられるものですね。きっとその思いを絵に描いていたら、微笑む太陽になったのでしょうか?結句は二重の説明になってしまっているように思えますね。“微笑む太陽”と母親を既に修飾しているのですから。この歌の意味からは“忍び”は、“偲び”という字が合っていますね。(林)ご指摘をありがとうございます。
(北里)祝う母親がいな人の母の日はさみしいものがあります。漢字は「偲び」ですね。結句に「ごと」とありますから「描く絵」は肖像画ということでしょう。「太陽や向日葵が微笑む」という比喩になっていますが、「微笑む母は太陽…のようだ」、という流れの方が自然に思います。
(深沢)お母様が向日葵のような存在であったことが感じられます。

母の日に亡き母偲び描く絵は微笑む太陽 月を照らす
 
宇津木千代

陸ワカメ支柱の先に蔓至り行き途(ど)なくして宙を揺れゐる

 (林) 陸ワカメは海藻でなく植物なんですね。栄養価が高く健康野菜だと知りました。
(白樺)ミクロ的な観察から下句の蔦の先が宙に揺れているという背景へ流れていく構成がよいと思いました。
(北里)一度育てたことがありますがとても成長がよくて勢いよく延びました。その様子がよく分かる歌です。先を摘む必要があるのかも。
(深沢)雲南百薬ですね。結句から蔓が行き場をなくしている様子がよく読み取れます。

陸ワカメ支柱の先に蔓至り行き途(ど)なくして宙を揺れゐる
 
むんむんとむせる若葉の森へ入り疲労は極み恋ふや枯葉の季
 
  (林)「むんむんむせる」面白い始まり方ですね。
(白樺)全ての命が躍動する春にもう枯葉の季節を想い望んでいる作者。命の躍動が落ち着き始めて次第に枯れてゆく輪廻の自然サイクルで作者は一歩先を歩んでいるのかもしれませんね。
(北里)「若葉」は爽やかなイメージですが、「むせる」とあり、春から暑いのですね。疲労は暑さからくるのもなのでしょうか。結句の「秋を恋ふ」、という展開は実感かのでしょう。「秋の森」は涼しくてどんなにか過ごしやすいのでしょうね。
(深沢)初句と2句が新鮮に感じます。語彙の使い方が巧みなので学びがありました。若葉と枯葉の呼応が良いと思います。
注:(千代)年齢が70代、80代になるとエネルギーが衰退し、煌々と照る電気など余りに明るいと疲れます。音も柔かな音、自然も春よりも秋がやわらかく身を包んでくれます。森を歩いていて感じたことを歌にしました。

むんむんとむせる若葉の森へ入り疲労の襲ひ恋ふる枯葉の季
 
*日本語を知らぬ幼らにせめてもと「むすんでひらいて]の動画を送る

  (林) 昔母が日本語の歌のCDを子供のために送ってくれたのを思い出しました。
(白樺)聴覚と視覚を使う言語学習はとても良い材料ですね。日本語を母国語とする作者が日本語を知らないお孫さんに少しでも日本語を知って欲しいという気持ちが伝わります。
(北里)「せめても」とあるので、子どもさんは日本語を話すことを期待されているのですね。曲名からは、なつかしさや親心のようなものを感じます。最近の幼児向けの言語教材の動画はとてもよくできていてバラエティーにとんでいて驚かされます。
(深沢)すんなり入る一首です。言語を直ぐに理解できなくても、手の動きで意味が通じるの歌なので楽しめる歌の1つですね。


*日本語を知らぬ幼らにせめてもと「むすんでひらいて]の動画を送る

白樺ようこ

ふるさとを訪れみれば飽食の文化に浸る若者闊歩す

 (林) Covid が落ち着いて美味しい物食べ歩きができて人々は少し浮ついているのか    もしれませんね。
(千代)結句“若者闊歩す”と、一般化して纏めてしまっている感じがします。もう少し、若者の具体の行為が挙げられると、歌がずっと読者に迫ると思います。
(北里)飽食は多くの場所で見られると思いますが、「ふるさと」「若者」と意図的に限定したのですね。具体的にいかにもと思わせるような若者が集まる場所を出すとよいのでは。
(深沢)4句目までは理解できるのですが、結句への繋がりが難しいように感じます。結句を弥いや若者などとしてはどうかなと思います。

ふるさとの飽食文化を闊歩する若者言葉はメッチャ美味しい

日本語の造語にあふれて宇宙語に聞こゆる時あり帰国をすれば

 (林) 私も久しぶりに帰国したら同じ事を思います。
(千代)造語を一つ挙げて詠むと、歌がずっとよくなると思います。それから“日本語の造語にあふれて”ですが、“日本語は造語にあふれて”か、“日本語の造語はあふれて”か、“日本語が造語にあふれて”か、ではないでしょうか?
(北里)日本に住んでいてもネット用語や若者言葉など、同様に感じることがあります。帰国され違和感を感じる「造語」とはどのような言葉のことでしょうか。日本に住む私の感じ方との違いは何かなと思いました。
(深沢)世相を感じる1首です。日本では言葉を短縮させることも多いですが、耳慣れない造語も増えてきているのは確かで、多言語に聞こえうることは多いと思います。それを宇宙言としたところに面白みが感じられます。


日本語はカタチを変えて宙に舞ふ トリセツ トリテツ カスハラ クマダシ
 
(注:取扱説明書、撮鉄、カスタマーハレスメント、熊出し)

*欄干に身を出し観てゐる三社祭いなせに結んだ鉢巻がゆく

 (林) おみこしが通り過ぎて行く景色が見えます。
(千代)結句の“鉢巻がゆく”と詠んだところがとてもいいですね。“鉢巻をした男たちがゆく”と、表現しがちなところを、上から三社祭を観ていて“鉢巻がゆく”と、表現したところが、具体であり、生きている表現であり、実際に三社祭を見下ろしている状況であることが、しっかりと表現されていて、実際に観ている作者ならでは表現できないものだと思います。
(北里)「いなせ」は髪型で正式には「鯔背銀杏」というようですね。粋な若者の姿が目に浮かびます。上から見ている感じもよく出ていて、結句の比喩が効いていると思います。
(深沢)学生の頃、三社祭りで神輿をかついでいたので、懐かしく詠ませて頂きました。身を乗り出しとした方が祭りの勢いを感じさせるのではと思いました。


*欄干に身を乗り出し観入る三社祭いなせに結んだ鉢巻がゆく
 
北里かおる

繰り言は「安足間(あんたろま)行きのバスに乗る」母の御霊は帰っただろか
 
 (林) 北海道出身のお母様だったのですね。だろうか、、、。ユニークな終わり方ですね。余韻が残る素敵な歌だと思います。
(白樺)安足間という珍しい地名に注目しました。地図でみましたらかなり内陸にはいった所ですね。
(千代)お母さまの故郷が安足間なのですか?お母さまは晩年に、きっと繰り返し故郷の安足間へ行きたいと言っていたのでしょうか?御霊は行きついて安堵して安らいでいるといいですね。
(北里)母の出身は中愛別で、旭川から安足間行きのバスに乗っていたようです。最後、施設に入ってもらいましたので、「一人でも」+歌に使った言葉そのままを口にしていました。帰りたかったのは自分が住んでいた旭川の家かと思えたのですが、本当は何処に帰りたかったものなのか。自分の親の眠る故郷だったのかなと。
(深沢)北海道のことですね。お母さまは生前、そのバスをよくご利用になられていたのですね。お母様の霊はきっと無事にお帰りになられたと思います。


繰り言は「安足間(あんたろま)行きのバスに乗る」母の御霊は帰っただろか
 
*贈られし句集は手製結び綴 癌寛解と後書にあり
 
 (林)お友達が癌治療をされてられ句集が送られてきたのですね。完治されていると嬉しいです。
(白樺)寛解は初めての語でしたのが、全快ということだと知りました。お友達のお手製の句集の温もりが伝わります。
(千代)“後書き”と、送り仮名が付くのが現代仮名遣いではないかしら?“あり”も、口語では終止形は“ある”。
(北里)広辞苑では「後書」となっていました。どちらもありと思います。実際には送り仮名はなかったです。私の見た中にはひらがなで「あとがき」としている方が多いようです。初句に「し」を使っているので「あり」とします。
(深沢)後書の語彙でその方の近況が伺え安堵されたことと思います。語彙の重みを感じられる1首です。手作りで時間をかけて作製された句集には、病との闘いへの思いが刻まれているのでしょうね。


*贈られし句集は手製結び綴じ癌寛解と後書にあり
 
木工は木目に逆らい削りゆく四年置いたというクルミの木
 
 (林) 木工をされているのですね。クルミの木は硬いですから体力がいりますね。(北里)私ではないです。ここでは木彫職人のことですが、紛らわしいので最終歌は「職人」とします。
(白樺)木工で木目に逆らって削るのと木目に沿って削るのでは表面にどういう違いが表れるのか興味をそそられました。
(千代)例えば、木目があって、下から削ったら“木目に逆らう”ということですか?私には、上からも下からも木目には逆らわないのでは?と思えてしまうのですが・・・
木目の横から削ったら“逆らう”も分かるのですが・・・。実際に見ているであろう作者の説明をお願いします。
(北里)「木目に逆らって切る」などと見ることのある表現です。厳密には木には表側と裏側がありますが、いずれにしても「巡目(繊維に倣うように進む向き)」と「逆目(繊維に食い込んでいくような向き)」があり、図にするとわかりやすいのですが、木目は弧を描きながら斜めに入っていますので、削りやすい方向とその反対は削りずらい方向があるのです。上とか下とかではないのです。普通は巡目で加工すると奇麗ですが、木彫職人のこだわりで、あえてササクレが起こりやすい性質に挑んで逆目を生かして作品を作ることがある、ということで、そこに注目した一首です。
(深沢)木の持つ特徴を生かしての削り方なのでしょうね。年月を寝かせたクルミの木から作られる作品の見るのが楽しみになる1首ですね。職人技が言葉で表現されていて良いと感じました。


職人は木目に逆らい削りゆく四年置いたというクルミの木


課題予告

7月「花火」林
8月「」深澤
9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木 

2024年6月1日土曜日

Eメール短歌会  2024年5月 題詠「耐える」



元歌:黒

コメント:赤

コメントへの応答:紫

講評を参考に推敲した最終歌


北里かおる


いっせいに散りゆく桜 こみ上げる思いのごとく葬送の空へ


(千代)散るのは下方に向って落ちて行くのですよね?込み上げるのは、上方に向って上がってくるのですよね?そこがちょっと繋がらないのですが。もしかしたら、散っていく寂しさと、どなたかを葬る寂しさを合わせたのですか?それから、~のごとくとありますが、桜が散るのは空へは舞い上がらないですよね?私の理解を越える歌に思えます。(北里:風の流れや強さによると思いますが桜吹雪をこちらでは見ます。降る雪も下から上へ動くのを見ます。焼骨の間の自分の気持ちを桜にたくし詠んだものですが、「込み上げる思いのごとく」は安易な表現かと思いましたので変えました。
(林)とても感受性が豊な作者ですね。 うまく表現されていると思いました。

(白樺)死のはかなさを桜の花の散る様子に重ねて寂しさを表したところが良いですが、最初の二句と結句で桜の散る様子に焦点があるように響くので語順をかえる等して、「哀しさの思い」をより強調できると良いと思います。

(北里:語順を入れ替えてみました。)

(深澤)初句をひらがな表記にしたことで、一本の桜の木の花びらが舞い散るのではなく、複数の場所で同時に舞い散っているという出来事を表現していると思います。結句の見送りの言葉にある送り出している空一面に桜の花びらが舞っている様子が浮かばれます。

ゆくものを悼むが如くいっせいに散りゆく桜葬送の空へ


*ひと冬の雪の重さに耐えかねて枝折れひどきに新芽伸びくる


(千代)4句目枝折れひどきにですが、逆接の接続詞として用いているのですね?でもいいですね。この逆接の接続詞として用いられています。(北里:枝折れで酷い状況にもかかわらず、の意ですから、逆接でしょうか。確かに短歌では「も」方が合いますね。)
(林)冬から初春の季節の移り変わりの様子が目に浮かびます。とても良いと思います。

(白樺)生命力の強さが伝わるお歌です。「枝折れひどきも・・」と助詞を変えると良いと思います。(北里:最終歌は助詞を「も」に変えました。)

(深澤)雪という環境にスキー以外はあまり触れたことがなく、どのくらいの降雪量で枝が折れるのか想像もつきません。派生した枝から接木をしなくても自然と新芽が出てくるのですね。自然は賢く生き延びる術を心得ているのですね。


*ひと冬の雪の重さに耐えかねて枝折れひどきも新芽伸びくる


ひとり釡鳴りを聴く溝深き茶杓にすくう八十八夜


(千代)二句目でぴっしゃりきってしまうのではなく、・・・釜鳴り聴きつつ・・・としてみました。(北里:その方が時間の経過がありますね。)

(林)八十八夜  新茶を摘む時なのですね。

(白樺)下の句がとても良いと思います。上の句の三句目と下の句の四句目が句またがりになっているのが気にかかりました。二句目の後に一字開けはどうでしょうか。(北里:元句は初句も切れているようなリズムなので、語順と語彙を変えてみました。樋(ひ)は溝のことです。)

(深澤)何も不思議な出来事は51日は起こらず、一番茶を味わうことができたのですね。結句の体言止めに効果がありますね。「茶摘み」の歌でも歌われているのでとても親しみを感じる一首です。


釜鳴りを一人聴きつつ桶の深き茶杓にすくう八十八夜


林よしこ


*耐えること辞めると決めて微笑まん鏡の前で慎ましやかに


(千代)辞めるは、止めるでしょうね。耐えることはもう止めようと、決断したわけですね?そのことと微笑まん慎ましやかにへの関連性がよく理解できないのですが・・・。
(白樺)無理して耐えないと決めて心を軽くして微笑みを浮かべようとする作者。結句の「慎ましやか」は慎ましやかに微笑もうということか、慎ましやかに耐えようとすることかが曖昧です。

(北里)耐えていたことは何なのか想像がふくらみます。ダイエットとか、誰かのしがらみとか軽いものから重いものまで色々ありそうです。結句からはあきらめというより、静かに戦いの狼煙を上げたのかと思いました。逆襲の笑みならちょっと怖いです。鏡の前で自分を鼓舞しているのかも。ということか曖昧に感じました。

(深澤)耐え忍ぶ自分自身との戦いから身を引いたのですね。控え目ながらも微笑んだのでしょうか。


*耐えること止めると決めて花を買う飾る向日葵太陽のごと


無から有 如何に産み出す雷を暗き空には雨雲重く


(千代)無から有を生み出す証として、雷を挙げているのですか?そしてその雷はどうして生まれるのか?を問うているのですか?余りに抽象的な思索を詠うのは、難しいですね。作者にとって大切な思索や哲学をそのまま詠むのではなく、日常の中での動作や、草木、動物などに託して詠うといいと思います。
(白樺)思索的で難しいお歌の印象を受けました。大きな観念を作者自身に即した具体で表現できると歌の深みや余韻が増すようです。

(北里)初句の後半角開けていますが、「」❝❞等を付けるのが良いのでは。倒置があり3句切になっていますが、主語がないので「如何に生まれる雷は」なのでは。科学的には雷は無から生まれるわけではありませんが、歌としてはおもしろいと思います。

(深澤)とても難しい一首です。雷発生のしくみを詠っているとは思いませんが。


「無から有」産み出す人に憧れて女神の助け待ちわびる


の息子それぞれ違う団子達どうか幸あれ三兄弟


(千代)要するに我が子達の幸せを願っている母の歌ですね。しかし、歌は直接そのことは詠わずに、例えば、俵 万智の歌「制服は未来サイズ入学のどの子もどの子も未来着ている」何にも幸せを願っているような直接的な表現はないけれど、制服、入学、未来などの言葉からその願いは察せられる。出来れば、歌を詠む時には考えることを止めて、感じたことの核、直感を大切にして表現を工夫していくといいと思います。

(北里)息子さん達を団子に例えて願う幸とは何かしら。バックにあると思われる「団子3兄弟」の歌詞を振り返ってみましたが、特別な意味はなく、単に末永く仲良くね、ということでしょうか。歌では一つの串に団子三つでしたが、この歌からは三本の味違いの団子の串を想像しました。

(白樺)息子さん達を団子達と表現したところが面白いですね。兄弟といえどもそれぞれ違う個性を持ちながらも一本の串で繋がっている家族の繋がりが伝わります。

(深澤)日本の和菓子屋さんに手作りの三色団子を作って頂き食べたばかりで、お子さんを団子に例えて詠まれているので、楽しく拝見させて頂きました。団子なので四六時中一緒にいて、離れられないほど距離が近いが故の悩みもあるのかなと思いました。


吾の息子それぞれ違う色持ちて皆集まりし私の為に


宇津木千代


陽も薄き鎮もる森にシャクナゲの花語で語る精と出遭ひぬ

(林)メルヘンぽく まるで夢の中の風景を見ているようです。

(白樺)下の句が詩的で良いと思います。

(北里)メルヘン、童話の世界観ですね。シャクナゲの花語とあるので花がそれぞれの種類ごとに花語をもっているという発想でしょうか。シャクナゲの精が自分の花語で話したのですね。メルヘンが生まれるような美しいシャクナゲを見たのでしょう。

(深澤)花に話しかけるときちんと応えてくれるという話を聞くので、エネルギーで質問に対するイメージを本来伝えてくれていると思います。花語のできる精とは想像を絶するふんわりとしたイメージがあり、夢心地になれる一首です。(千代:この歌は、森の中で出会った私の不思議な感覚を詠んだものです。時々蕨の時期に森の中へ入りますが、一生懸命に蕨を摘む私の背後で誰かに見つめられているような感覚に襲われ、振り向くと野生のシャクナゲが一本、弱弱しい姿で、何かを語り掛けているような感じを受けたのです。薄暗い森の中から逃れようのない自身の運命を訴えかけているような、そんな感じでした。その感覚を歌に詠んで花語という言葉で表現しました。


陽も薄き鎮もる森にシャクナゲの花語で語る精と出逢ひぬ


今更に愛とふ語彙はなけれども情けはありて解く夫の髪


(林)表現が極めてストレートですが素敵な作品だと思います。

(白樺)具体動作で長年連れ添った夫婦愛が伝わります。

(北里)老々介護が話題になる昨今。髪をとかしてあげる行為は十分に愛の形と思います。情けも愛情の一部と思いますが、詠み手には明確な一線があるのでしょう。愛と情け、語彙と行為の対比させるという発想がおもしろいと思います。

(深澤)愛情を解体して、違いが明確に示されているような気がします。「愛」が本能的なエネルギーで、「情」がご主人との関係性を特別視しているからこそ生まれているものなのでしょう。長年の生活を垣間見ることのできる一首だと思います。


今更に愛とふ語彙はあらねども情けはありて解く夫の髪


初夏の樹々くきやかに影落としふと身を襲ふ耐へがたき悲哀


(林)確かに夏のきつい日差しは年を重ねると心身共にに応えます。

(白樺)「くきやか」という語はあまり使わない言葉ですが「鮮やかではっきりしているさま」という意味ですね。初句は「はつなつ」と読むと5、7、5、7、7の韻律に収まりますが「しょか」と読むと韻律が大きく崩れて朗詠すると滑らかにいきません。上の句の視覚に訴える背景とは対照的に結句の作者の心を襲った「悲哀」に想像が及びます。(千代:はつなつ と読ませたいのですが、読者がそう読んでくれるかは疑問ですね。そこで表現方法を変えてみました。)

(北里)季節の鮮明な移ろいに急に激しく心揺さぶられた場面かと。悲哀にこめたあれこれ、今のことか、明日のことか。漠然とした不安を感じながら生きている日々に、夏の光ではなく「影」に人生の悲哀と感じていることが詩的だと思います。(千代:そうですね、漠然とした人生の悲哀ということで、何があったからではなく、生きることそのものの悲哀というか、ちょっと説明しがたいですが、そよ風に揺れる木々の葉のくっきりとした影を見ている時に湧き上がる悲哀と言いましょうか・・・そんな感覚を詠みたかったのです。)

(深澤)「くきやか」という言葉を知りました。結句の悲哀という言葉に、作者の計り知れない心中が想像されます。


*はつ夏の樹々くきやかに影落としふと身を襲ふ耐へがたき悲哀


深澤しの


「生きる」とは如何なることか繰り返し自問する日々一人暮らし


(千代)10人居れば10通りの「生きる道」があるわけですが、形而上的なことをそのまま詠むのは難しいですね。

(林)真摯に凛と生きておられるお姿が目に浮かびます。

(白樺)観念的な印象ですので、日々における細かな具体を取り入れると歌として想像が膨らみます。

(北里)「生」という重たい課題を日々意識しながら生活している方なのですね。隣に人がいても心は独りということはありますが、結句に現状の寂しさが凝縮されています。テーマが大きいので、日常の小さな行為からの視点で詠うと、また味わいが出るのではないかと思います。

「生きる」とは如何なることか繰り返し自問する日々一人暮らし


紫のライラックの花が実を結ぶ 頃に部屋着も夏服となる


(千代)頃には取って結ぶころで、丁度5字になりますから。

(林)ライラックの花が実を結ぶとは初めて知りました。

(白樺)季節感がありますが上の句の韻律が大きく崩れているのが気に掛かりました。

(北里)ライラックの花ではなく実に注目し、季節の移ろいを夏服にたくして詠んでいるのが素敵と思います。ライラックといえば紫、白もありますので、紫を強調したかったのかと思いますが省略できるのでは。句がまたがってはいますが「頃」の前の半角空けは必要ないでは。「部屋着も」の「も」は?出かけるときも夏服になっていくので、例えば「吾の庭のライラックに実が結ぶころ夏服となる部屋着に街着」とか。


紫のライラック結ぶ頃 部屋着も街着も夏服となる


騒音に耐える夜中の一室でヘッドセットし静けさを待つ


(千代)理解しやすいし、リズムも良い表現ですね。

(林)作者はどちらにおられるのでしょうか? ヒントがあれば想像し易いと思いました。

(白樺)夜中に騒音に満ちている場所とは?

(北里)旅先のホテルの一室とかでのことでしょうか。昔ビジネスホテルでそんな経験をしたことがありました。今は携帯電話がありますので、色々と気をまぎらすことができますが、「耐える」にはが辛すぎる状況のようです。


騒音に耐える夜中の一室でヘッドセットし静けさを待つ


白樺ようこ


鯉のぼりの空を見上げて口ずさむ甍の波と雲の波 の歌


(千代)良いと思います。願わくばどこかに作者ならではの表現が入れば、歌がもっと惹かれると思います。他の人達が気付かなかった表現にチャレンジしてみて下さい。

(林)日本では今も鯉のぼりを見かけるのですね。懐かしい景色です。

(北里)郷愁の思いがにじむ一首です。結句の半角空けが気になります。(白樺:タイプミスです。)歌のタイトルは「鯉のぼり」ですから「鯉のぼりの歌」となるところか「~の歌詞」となるか。(白樺:歌のタイトルは忘れて歌詞だけを覚えていました。)「口ずさむ」とあるので結句の「歌」は省力できるかとも。最近はご近所で鯉のぼりを見かけるのは幼稚園くらいで残念です。

(深澤)端午の節句を祝う鯉のぼりを見かけることは稀です。字足らずになりますが、結句の「・・の歌」省いてもよいかもしれません。


鯉のぼり「甍の波と雲の波」皆で歌ひし昭和の校庭


*醜きこと耐へて追はむか今日ひと日の楽しきことや美しきこと


(千代)醜きことを、例えば耐へていし言い争いの仕舞いには今日の美しさ楽しさ
求めんとか?

(林)今日に集中し楽しく生き抜く覚悟が感じられます。

(北里)ニュースでは目や耳をふさぎたくなるような事件が多い日々、良い面を見て生きていくという気持ちは精神の安定のためには大切ですね。見つけた「楽しきことや美しきこと」を具体的に短歌にすると読み手の共感を引き出せて良いのでは。

(深澤)日々耳にするのは、不安を掻き立てるような内容のものばかりですね。抽象的な語彙よりも具象例があるともっと分かり易いかもしれません。


*耐へていしメディアの流す世の不安 追ひて探さむ美しきこと


*初夏の庭蚊の襲撃に耐へながら草をむしりて半日の過ぐ


(千代)よく理解出来る歌ですし、リズムも良いですね。でも、母残せし とか、廃屋にせじと草むしるとか、作者でなければ分かりえない気持ちとか、そういう表現があるとよりよい歌になると思います。
(林)作者が自然と戦うという強い意志をお持ちだと伝わってきます。逞しいですね!

(北里)蚊は命にかかわる蚊媒介感染の病気がありますので、「襲撃」レベルなら半日も耐えては危険と思いました。短歌としては蚊を相手の草取りの大変さに潜む可笑しさがねらいなのかと思いました。(白樺:お隣が仏教寺院なのでお供えの花瓶に水が残っていて蚊の天国になっているようです。最近蚊が媒介する感染病の薬ができたと聞きましたが少し不安になりました。)

(深澤)テキサスの蚊はテキサスサイズでバカでかいので、襲撃にあいながら草むしりをするのは到底困難な技です。動物も蚊からは保護しなければなりません。アレルギー反応を起こさずに蚊の予防もしながら草むしりをして頂きたいです。


*初夏の庭蚊の攻撃に耐へながら草をむしりて半日の過ぐ



課題予告


6月「結ぶ」北里

7月「花火」林

8月「」深澤

9月「社会詠」白樺

10月「」宇津木