2024年9月6日金曜日

Eメール短歌会  2024年8月 題詠「原爆」


元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌: 青

林よしこ

*原爆の地獄絵知らぬ我々も時間を止めて聴くレクイエム

(北里)語源を考えると「地獄絵」はあくまでも「絵」ということなのでは。被爆者や原爆で亡くなった方々、そして「我々も」、共に平和を祈る、という視点は共感できます。式典ではなくどこかの教会でレクイエム(鎮魂歌)が歌われ、それを聴いたのかもしれません。(林)教会で聞いたのではないですがなぜか昔からレクイエムを聴くのが好きでした。神様このような人間をお救い下さいと祈るしかありません。
(白樺)広島や長崎の原爆被害に実際に合わなかった世代が殆どとなった現在。終戦79年目を迎えて高齢となった数少ない原爆体験者が後々の若い世代に原爆の体験を語り、戦争は絶対やってはいけないと訴え続けている反面、現実には地球のどこかで今も戦争が起こり続け、核兵器の威嚇も存在しています。世界平和を祈るばかりです。
(林)同感です。
(千代)短歌はあくまで“自分が主”ですから、“我々も”と一般化しないで、自分を中心に詠うといいと思います。「・・・・・・我ながら・・・・・」とすると、5音になります。
林)そのようにさせて頂きます。ありがとうございま
(深沢)結句から悲壮感が感じられます。
(林)ありがとうございます。

*原爆の地獄を知らぬ我ながら時間を止めて聴くレクイエム

「意図的な自由」と壁に描かれたジャズ喫茶に集う詩人ら

(北里)「意思の自由」ではないのですね。「意図的な自由」とは、どんなことを言っているのか、入れ口で立ち止まってしまいました。ジャズ喫茶は今はあまり見かけませんが、詩人が集まっているとはどこかの時代的な感じがして、昔のことを思い出しての歌なのかと思います。
(白樺)5、7、5の韻律が大きく崩れているのが少し気になりました。「意図的な自由」を下の句の結句にすると焦点がそこに集まり構成的にも落ちつのでは。「意図的な自由」と書かれた喫茶店とは外からの圧力に反発して心を自由に遊ばせて集まる人達のいる喫茶店のことかと想像しました。ジャズ喫茶は昭和の雰囲気がありますね。アングラ酒場とか地下室の喫茶店に集まって音楽や議論を交わしていたのですね。
(千代)観念の歌に思えます。以前、よく引き合いに出して短歌を説明した子規の歌があります。「いちはつの花咲き出でてわが目には今年ばかりの春行かんとす」(もう来年の春には自分の命はないだろう。今年が最後になるであろう自分の命。春も逝きつつある時に咲く“いちはつの花”、この花を見るのも今年が最後か、というような命終を詠った短歌です。深い深い命の詩ですが、一言も言葉ではそんなことは言っていません。表面的には“いちはつの花が咲き始めた。私には今年だけの春が過ぎようとしている”ということですが、この歌の奥にある深い深い命の終わりを感じざるを得ない詩です。「意図的な自由」を詠いたいのなら、何かを小道具として、読者が「意図的な自由」を詠いたいのだなと、感じるように詠うのが、短歌で、観念や思想を生のままぶっつけるのは散文であって、短歌ではありません。ただ、そういう表現はとても難しく、工夫をしつつ何年何十年かかって表現し続けることによって可能になると思います。
(深沢)句またがりになっているのが、文字で表記されていると「」が使用されているため視覚からのインパクトでリズムが整っていないように一瞬感じてしまいました。
(林)このお店は引きこもりの息子が気に入っており週に一度は一緒に行くのですがお店の壁に英語で「Intensional Freedom」と書かれていて それが気になったのでこの歌を詠みましたがそれを辞めてみます。

詩人たちカフェに集いて歌詠めば 琴線震わせ聞く息子おり

香りたつ豆を挽く音懐かしむ父の存在 浮かぶクリーム

(北里)「懐かしむ」のは詠み手かと思いましたが、お父様が音を懐かしんでいるのですね。そんな「父の存在」が目の前にあるということ。1コマ空けたのはコーヒーが落ちるまでの時間経過でしょうか。出来上がりはウインナーコーヒーのようですね。
(白樺)嗅覚、聴覚、視覚に訴えるお歌ですね。コヒー豆を挽いている時に、同じくお父様がコーヒーを淹れていたのを懐かしんでいるのは作者でしょうか。例えば、語順を少しかえて「香りたつ豆を挽く音によぎる父 珈琲カップにクリーム浮かぶ」
(林)ありがとうございます。とても良いと思いますのでそのように変えさせて頂きます。
(千代)二句目音で切れているのですか?それとも初句からずっと続き、父の存在に係るのですか。“父の存在”は、この歌には少し重苦しい表現ですね。
“在りし日の父”としたらいかがでしょうか?
林)そうですね。存在は辞めます。
(深沢)珈琲をブラックでは飲まず、クリームを入れられていたのですね。結句からクリームがゆっくりと珈琲に溶け込み文様を作り出す様子も想像できます。
珈琲らず巧みに表現を語されている1句と2句が素敵ですね。
(林)ありがとうございます。父は54歳で他界してしまいましたが、引退後はジャズ喫茶店を営みたいという夢を持っていましたので休日には色んな豆を買って来てはサイフォンで時間を掛けてコーヒーを入れてました。生クリームを入れてくれ それが上に浮かんだ状態で飲むと美味しいと教えてくれました。良き思い出は一旦下に沈んでも浮き上がってきますね。

香りたつ豆を挽く音によぎる父 珈琲カップにクリーム浮かぶ

宇津木千代

恋ならずまして愛ならず混沌の坩堝を悔ゆる二十の出逢ひ
 
(北里)「恋」と「愛」の違いは何か、それぞれの定義はあるようですが、ここではそのどちらでもない、20歳での記憶があり、今も後悔がつのる「出逢ひ」とはどうようなものだったのか、「混沌の坩堝」とは。意味深な短歌ですね。
(白樺)作者が二十歳のころは波瀾万丈だったのかと想像が膨らみます。個人的な状況と共に社会的な状況も背景にあるのかもしれませんね。
(林)二十の出会いを悔いてられるのでしょうか。なんとなく理解できます。                                                                                           
(深沢)現在でも考えるような一生の思い出となる出逢いをされたのですね。相手のことが気にかかる一首です。

恋ならずまして愛ならず混沌の坩堝を悔ゆる二十の出逢ひ
 
大魚なるキハダマグロは口に目にフィシュピック刺されひと声もなし
 
(北里)ちょっと残酷な場面のように思いますが、生活のための漁とはそういうものなのでしょう。場面の切り取りが鋭いと思います。
(白樺)結句の「ひと声もなし」の人間の残虐さ、魚が感じたであろう無念さに心を痛めます。弱肉強食の世界を身近な具体で示唆しているお歌と思います。
(林)残酷なシーンですね。もしも人間だったらと思うと怖いです。
(深沢)人間の残酷さを物語っていて、生きる意味を感じさせられる歌です。

大魚なるキハダマグロは口に目にフィシュピック刺されひと声もなし
 
*原爆の阿鼻叫喚に広島は「ヒロシマ」となる 「水ヲ下サイ」
 
(北里)阿鼻とは最も苦しい地獄とか。「ヒロシマ」の片仮名表記は、単なる地名ではなく原爆で焦土と化した街を意味しているとのこと。歌の中での使い分けが巧みです。原民喜の詩は漢字カタカナ交じり文ですが、カタカナが多いのでこの歌の中でカタカナとつながった感じがします。
(白樺)原子爆弾を投下された広島は、カタカナ表記により日本国のみならず世界中に原爆の悲惨さを思い知らされる言葉となりました。
(林)結句が悲惨さを生生しく表現されています。
(深沢)結句が状況を物語っていると思います。

*原爆の阿鼻叫喚に広島は「ヒロシマ」となる 「水ヲ下サイ」

白樺ようこ

*自衛といふ盾に潜みてじりじりと核戦争への怪し黒雲

(北里)正に今「黒雲」ですね。アメリカが5月に臨界前核実験を行ったのはこちらでもニュースになりました。軍縮会議も滞っており、世界が分断されている今、核なき世界が遠のいていると感じています。その危機感が社会詠として生かされています。
(千代)短歌の私の師であった尾崎左永子先生は、よほどのことがないと社会詠は詠みませんでした。どうしても上からの目線になってしまうからということでした。社会詠を詠むとしたら、大きな全体的な事ではなく、もっと小さな一点集中で詠んだらいいと私は思います。
樺)社会詠はとかく観念的で大掴みになりがちで難しいですね。
社会詠をたくさん詠んだ潮音の太田青丘の著書「新短歌開眼」で社会詠について述べた文を以前読んだ事を思い出して復習の為にもう一度紐解いてみました。成程と思いましたので引用させて頂きます。
「・・・総じて時局、社会詠は、総論的に大くびりに歌ふと、えてして概念的になり上滑りしやすいので、勤めて身近な事象を通して背後の大きなものを暗示するか、数歩退いて斜交いに歌ふ方が、より効果をあげやすいやうに思はれる。もとより時と場合により、道破の形をとるものもあってよいが、この場合は公理公論でなく、作者自身に取り込んで、事物の本質に肉迫するものでありたい。」

*自衛といふ盾に潜みてじりじりと核戦争への怪し黒雲

(宇津木)以下は、講評ではありませんが、読んでみて下さい。

塩野七生は、ご存じとは思いますが、イタリアに住み多くローマの歴史物語などを長年に渡り調査し、物語を書いています。そしてどんなに人々が理想をのべても、今までの世界の歴史は、結局、国は力を持たないと滅ぼされていくということを述べています。古くは、釈迦国が滅ぼされた原因は、力を持たなかったからではなかったかしら?戦争を好む人は居ないと思います、自分は高見の見物で、武器を売ったり戦争に必要なものでお金儲けをしている人達は別だと思いますが・・・。国民があんなに悲惨な状況であっても、北朝鮮を滅ぼすことができないのは、核を持っているからです。今、ロシアは核戦争をちらつかせ、ウクライナやウクライナを支援する国家を脅かしています。私の先輩歌人は、横浜大空襲で自分の学級全員をうしなってしまいました。彼女の母親の予感で「今日は学校を休みなさい」ということで、死を免れたという戦争体験をした先輩は、世の中で憲法九条ほど美しい憲法はない、憲法九条を世界遺産にと言っていました。この先輩に対しては、私は何も言うことは出来ません。その悲惨さを骨身に染みて体験しているからです。しかし、世界情勢は日々変わっています。美しい人間の姿を夢に見、追及していくことは、世界中のすべての人間が善意で生きているという前提の下には可能なことだと思います。しかし、如何せん人間世界は、正義や理想だけでは生きのびられないのが現状です。特に政治の世界は、善悪、駆け引き、騙し、裏切りが満ちています。こういう世界を生き抜いていくのはどうしたらいいのでしょう?鬱憤限りない最近の世界情勢ですね。
(白樺)「原発のウソ」を書いた小出祐章先生が政治は大嫌いだと言ったわけが分かるような気がします。

(深沢)いつ終わりが来るのでしょうか核戦争は。

ホームレスのテント寄せ合ふアメリカに武器の支援を乞ふやメタ二エフ

(林)税金の使い道をもっと慎重にして欲しいですね。
(北里)テントと武器の対比が面白いです。アメリカは大学生の反イスラエルデモがあり、学内に設置したテントの撤去に応じなかった、ということがありましたので、テントつながりでしょうか。アメリカ大統領選にも影響のある話題ですが、武器支援はウクライナにも、ですよね。長崎市長が原爆記念式典にイスラエルを招待しないことでアメリカ他数か国が参加しないことになり、考えさせられます。
(白樺)個人的には、長崎市長はイスラエルも招待するべきだったと思います。招待した国もあり招待しなかった国もあったということは、理想ではありますがやはり政治的な取引をはなれて原爆の無い世界平和を皆で祈るという本来の目的を外れてしまったのが残念に思われます。
(千代)きっとそれでもアメリカは他の国と比べれば豊かなのですね。
(深沢)15年間何をしてきたのでしょうか。他国を救うよりも先ず足元を見るべきだと思い知らされる歌です。
(白樺)アメリカは膨大な軍事費を費やす前に、もっと足元を見て欲しいと思います。

ホームレスのテント寄せ合ふアメリカに武器の支援を乞ふやメタニエフ

サダコの像切り盗まれて無惨にもピースパークにふたつの足首

(北里)本当に酷い事件ですよね。銅を狙った犯行のようですが腹が立ちますね。原爆記念日を前に心無いことです。社会詠として感慨深いです。
(千代)本当に怒りがふつふつと沸き上がりますね。「破壊されしサダコの像 足首がピース・パークに二つ転がる」としてみました。“無惨にも”という作者の感想は、そこまで言わないという短歌の暗黙のルールに違反していますが二つ転がるということで、無惨さは読者に十分伝わるはず。
(白樺)足首は転がっていたわけではなく台座の上に足首だけが残されていたのです。
(林)そのニュース聞きましたが、足首だけが残っていたのですね。酷すぎます。
(深沢)金属目的で盗まれたサダコの像が哀れです。反戦の象徴を早く戻してほしいです。

サダコの像切り盗まれて足首の台座に残るピースパークに

深澤しの

*『碑』を読んで名前を確認す 原爆で消えた水永君の
 
(北里)碑を二重カギ括弧にしたのは、何か特別な碑を指しているからまのでしょう。碑には原爆のことや亡くなった方のことが書いてあるのだろうと思いますが、「水永君」とはどのような存在なのか興味がわきます。読む側に何であるかを伝へるために、前書きがあると良いのかも。
(千代)この歌では、実際に広島か長崎で詠んでいるように思えますが・・・旅をしたのでしょうか? やはりただ「碑」だけではなく、もう少し語句を並び替えて表現したらいいように思えます。例えば「原爆で一瞬に消えし水永君その名を探す「慰霊石碑」に」としてみました。ところで「水永君」とはどいう少年なのですか?今まで、読んだことも見たこともない名前ですが、何か特殊な物語があるのでしょうか?
(深澤)現在、高校で使用している現代の国語の教科書に『りんごのほっぺ』という単元があります。渡辺美佐子の書いた随筆で、筆者の初恋の相手が疎開した広島で原爆で亡くなったことを知らず、30年後にテレビの対面番組で探して欲しい人のリストに載せてもらい、水永君の両親と対面し、水永君が原爆で12歳で命を落としたことを知り得ます。広島テレビから出版された『碑』という本の中に水永君が在学していた広島2中の1年生322名と4名の教員が被爆しており、原爆死亡者の名簿と慰霊碑に水永君の氏名があり、この本は自分が小学生の時に初めて読み、その時から強く印象に残っている図書の1冊です。指導しているときは、どうしても『碑』の本を開いて、巻末にある原爆死亡者名簿の第4学級のところにある水永龍男の名前を探してしまいます。(千代:そうなんですか。渡辺美佐子って、確か女優さんですよね?そんな物語があったのですね)
(白樺)「水永君」とは作者に縁がありそうですが、『碑』と共に作者との繋がりに何かヒントがあるとよいと思います。
(林)結句のお名前が本当に消えてしまった男の子の命の重みを感じさせてくれます。

*原爆で一瞬に消えし水永君その名を探す「慰霊石碑」に

知らぬ間にU.S.A.を声援し涙している我に気づきぬ

(北里)パリオリンピックで盛り上がりましたので、その時のことでしょうか。アメリカの勝利に喜ぶ自分の涙で、すっかりその国の人になっていたことに気づいた、それが歌になったのですね。読み手にとって人生の大半を生きた地であることを思うと、自然なことと思いました。
(千代)今だからオリンピックと分かるでしょうが、オリンピックでなくても何らかのスポーツの大会であることが分かるような言葉がほしいですね。この歌を読み、まだ私の子供達が中学生頃のことだったか?一緒に「トラ,トラ、トラ」という映画を観に行った時の事日本がやられると子供達が拍手をしたことを思い出しました。子供達はもう完全にアメリカ人になっているんだなあと、思ったことを思い出しました。日本とアメリカの戦いなら、私は絶対に日本を応援する自分が居ます。ただアメリカと別の国との戦いなら、それほど情熱はありませんが、アメリカを声援する自分がいます。私は未だ根っからの日本人で、アメリカ人にはなり切れません。
(白樺)涙のでるほどアメリカ勢を応援している作者は長年アメリカに住み、一人のアメリカ人として第二の故郷に溶け込んでいるのでしょう。
(林)長年住んでいると自然に国民になりますよね。なんとなく理解できます。

知らぬ間にU.S.A.を声援し涙している我に気づきぬ

「夜爪を切ってはならぬ」と諭されし今の自分に何の意味がある

(北里)口笛を吹いてはいけないとか、親の死に目に会えないからと言われたりしましたね。戦国時代の「世詰め」⇒「夜爪」で「短命」を意味したとか、色々説があるようです。迷信が今に伝わっていることが興味深いです。親を送ってしまうと今更と感じる作者の気持ち、共感します。
(千代)とてもいい発想だと思います。誰に諭されたのでしょうか?(深澤)友人
ずっと昔に諭されたのでしょうか?近頃言われたのでしょうか?(深澤)ネイルアートの話をしていてつい最近 そこが疑問に思えました。というのはそこがはっきりすると、もう少し違う表現にもなりうるからです。
(白樺)昔私も聞かされたことがあります。このような迷信は今では意味がないと思う作者がいる。
(林)作者は既にご両親を亡くされているのでしょう。もう切っても大丈夫!
(北里)口笛を吹いてはいけないとか、親の死に目に会えないからと言われたりしましたね。戦国時代の「世詰め」⇒「夜爪」で「短命」を意味したとか、色々説があるようです。迷信が今に伝わっていることが興味深いです。親を送ってしまうと今更と感じる作者の気持ち、共感します。
(千代)とてもいい発想だと思います。誰に諭されたのでしょうか?ずっと昔に諭されたのでしょうか?近頃言われたのでしょうか?そこが疑問に思えました。というのはそこがはっきりすると、もう少し違う表現にもなりうるからです。
(白樺)昔私も聞かされたことがあります。このような迷信は今では意味がないと思う作者がいる。
(林)作者は既にご両親を亡くされているのでしょう。もう切っても大丈夫!

「夜爪を切ってはならぬ」と諭されし今の自分に何の意味がある

北里かおる

行きずりの宿世(すくせ)であるか保護犬と眼の合いしときの胸の高鳴り

(千代)“行きずり”は、どの言葉に係るのですか?“宿世” (前世とか、前世からの因縁など)に係るのでしたら、ちょっと意味がはっきりとしません。保護犬に係るなら“行きずりの保護犬”とした方がいいと思いますが、5,5になってしまいますので、行きずりは省いて、参考までに「保護犬と宿世であるか眼の合いて胸の高鳴り知らず覚える」としてみました。また、保護犬なら“行きずり”とはならないのではないですか?どこかに保護されていて、意志をもってその犬に会いに行かない限り、会えないわけですから。行きずりの犬だったら“野良犬”になるのではないでしょうか?北里)「行き摩りの宿世」という慣用的表現があり、「道を行ってすれ違うのも前世からの因縁」という意味とありましたので、そのまま使いました。出会ってしまったことに、前世で何か因縁があったかも、という感覚に及んだ次第です。
(白樺)「宿世」は「保護犬と眼が会った」ことを指しているのですね。「行きずり」はたまたま犬が保護されている所を訪れたということでしょうか。もしその保護犬のそばを偶然通り過ぎた時ということでしたら、例えば「通り過ぐ保護犬と眼の合う時に宿世であるか胸の高鳴る」
(北里)たまたまでの訪問ですが、大きな時の流れの中の「行きずり」のように思えたりします。
(林)人間のような保護犬を見つけられたのでしょうか?恋に落ちたような感覚だったのですね。
(北里)恋かどうか、次の世でまた会うことを約束していたかも、前世で何か縁があったかもと。
(深沢) 2句目の語彙の使い方が良いと思います。胸のときめき瞬間が結句から良く理解できます。


「行き摩りずりの宿世(すくせ)」なるやも 保護犬と眼合いしときの胸の高鳴り
 
ででむしやお前の耳はどこにある口笛で吹く「かたつむり」の歌

(千代)“ででむし”は“でんでんむし”の方言のようですね。確かに歌詞の中では、耳については問うていないですね。発想がいいですね。
(白樺)童謡的なリズム感があるお歌でよいと思います。
(林)口笛で吹けるって素晴らしいですね。作者はかたつむりを見つけられたのでしょうか?(北里)目の前のカタツムリに語りかけている場面の歌です。口笛はけして上手くはありませんが。
(深沢)懐かしいまいまいつぶりのメロディーを口笛で吹く。何気ない仕草に興味が湧く一首です。

ででむしやお前の耳はどこにある口笛で吹く「かたつむり」の歌
 
*鐘の音は淡々と静かにつつむあの日のままの原爆ドーム

(千代)二句目“淡々と静かに”と、字余りがあり、三句目は字足らずになっていますが、意図をもってそうしているのですか?(北里)「淡々を強調し後半に畳みかけたく意図的に崩しました。また、“淡々と”という言う意味はよく分かりますが、もうすこし、あの日を想像出来ように。参考として「鐘の音は真澄の空を響き渡る あの日のままの原爆ドーム」(北里)昨年、以前から一度はと希望していた広島の原爆ドームや原爆記念館を訪れました。その時ドームの佇まいは長い時を隔て私には淡々としているように映りましたが、原爆記念日の鐘などはやはり平和を願い澄んだ空に響き渡るようなものであってほしいですね。
(白樺)鐘の音の形容詞を少し削ると字余りが解消されるのでは。
(北里)字余りではなく、あえて57777としました。意図は伝わらなかったようなので定型に。
(林)あの日のままでこれからも平和を訴えて続けて欲しいですね。
(深沢)原爆ドームの近くから聞こえてくる鐘の音のもの悲しさが伺えます。


*鐘の音は静かにつつむあの夏のあの刻のままの原爆ドーム


課題予告

9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木
11月「暮(暮れる)」北里
12月「餅」林
1月「」深澤

0 件のコメント:

コメントを投稿