林よしこ
*天の川蛍の乱舞光る魂(たま) 貴方の命輝け闇に
(北里)天の川は星の光の帯、群れて飛ぶ蛍、どちらにも光る魂(命)と感じ、どち
ら にも精一杯に輝いて欲しい、という祈りの歌と解釈しました。 (白樺)夜空を流れ
る星々や小さな蛍と同じ目線に立ったスケールの大きなお歌です ね。人間の傲慢さが
なくなりこの世の全ての命がそれぞれに輝くことができたら素晴ら しいと思います。
(千代)いいたいことが沢山あり、どうしても全部入れないと落ち着かないのかもし
れ ませんが、31文字しかないので、一極集中して詠むと読者にも分かり易いと思いま
す。(林)まず視点を宇宙空間にもっていき そしてこの地球上の小さな空間に移す事によって
「今置かれている状況が悪くてもそんなに落ち込まなくても大丈夫、そんな大したこと
ではないよ!」と読む方に思ってほしいので意図的に書いております。
(深沢) 今は寒波ですが、夏はヒューストンでもバイユー沿いで蛍を見ることができま
す。天の川の星や蛍の光を魂と捉えた大きな見方ができる1首ですね。
*天の川蛍の乱舞光る魂(たま) 貴方の命輝け闇に
「 瞑想は斬り合いぞ」と云いし師は 金剛杵置き茶を配る
(北里)「金剛杵」とは仏具ですが、武器もあるようですね。「斬り合い」とは瞑想し
ながら自分の煩悩と向き合うことを言っているのでしょう。師とは阿闍梨?結句の
「茶 を配る」行為には、何か仏教的な特別な意味がありそうですね。 (白樺)仏教寺
院での座禅か何かの時の切り取りでしょうか。「瞑想は斬り合いぞ」は 物欲を切り捨
てるということか、深い意味がありそうですね。観念的ですが結句の具体 が良いと思います。
(千代)「 」に入っている言葉を言った師は、その後金剛杵を置いてお茶
を配ったの ですか? この歌は5,7,5,7,7に区切るとしたら、どのように区切
るのですか?字足らず になっているように思います。 「 」を取りました。
(深沢)茶を配るの結句は字足らずでしょうか。金剛杵はここでは武器ではなく仏具な
のでしょうね。
瞑想は斬り合いぞ と云いし師は 金剛杵置き茶を配る
暗き朝シャワーを浴びて身を清め 今日も登らん螺旋階段
(北里)螺旋階段とは日々の生活や人生の比喩でしょうか。そうですが、昨日の自分よ
りほんの僅かましな今日を送りたいという気持ちを込めて螺旋階段を上ると表現しまし
た。な階段ではなく螺旋ということで、生きていると色々あるけど今日も頑張るぞ、と
自分を鼓舞する歌と解釈しました。実際の朝の一場面の切り取りかもしれませんが。
(白樺)身の回りを綺麗にしておくことが精神的にも日々の困難を乗り越えるプラスの
エネルギーを生むというのは本当かもしれません。螺旋階段とは真っ直ぐにはいかない
日々を乗り越えていく例えですね。
(千代)“暗き朝”というのは、まだ夜が明けきっていない早朝ということですか?それ
とも気持ちが暗い朝ということですか?螺旋階段として、今生きている複雑な状況を現
わしたのはとても良いと思います。
付け足しですが、まだ夜が明けきっていない朝のことなら、“薄明に” とか、“朝まだき
(朝未だき)”とかの言葉があります)
(深沢)結句で使用している螺旋階段が物事がまっすぐに進まないことを表しているの
ですね。語句の使い方がお上手です。
暗き朝シャワーを浴びて身を清め 今日も登らん螺旋階段
白樺ようこ
*朝霧の晴れて満ちくる春光の窓辺すがしき元旦の朝
(北里)窓越しではありますが、期待感をもって美しい初日の出を見ることができたの
ですね。元旦の朝日はいいもんです。
(千代)4句までがすべて元旦に係る連体修飾語になっていますね。どこかに切れが必
要に思います。朝霧は とするか、“・・・春光は”で切って「…窓辺に(林)元旦の朝に新たな光が差し込んでこれから将来に向かう気持ちの高揚を感じまし
た。
(深沢)元旦の朝に窓からでも初日が見れ、心に誓うものもあったかと思います。
*朝霧の晴れて満ちくる春光を身に浴びすがし元旦の朝
スキー板立てかけ雪を待つてゐる 裾野も街も霞染月
(北里)雪が少なくてスキー場がオープンしないのかしら。スキー場泣かせですね。結
句の霞染月は旧正月の異称とありました。山も街もお正月で、せっかくのお正月に初滑
りがしたかったのに残念だ、雪よ降ってくれ、という思いなのでしょう。
(千代)“待つてゐる”という表現が、霜染月という古語と合わないと思います。“待ち焦
がる”とか、あるいは、"待ちてをり"
(林)スキーをされる方らしい歌だと思いました。
(深沢)異常気象のため豪雪のところもあれば雪が少ないところもあるようです。ス
キーが出来ぬ歯がゆさを4句と結句で綺麗に纏められていますね。
スキー板立てかけ雪を待ち焦がる 裾野も街も霞染月
地震(おおなゐ)に崩れし能登の海の街 旅せし若き日脳裏をよぎる
(北里)有名な観光地ですから旅の思い出をお持ちの方もたくさんいて、同じようなこ
とを思っているのではないでしょうか。被害の規模のあまりの大きさに胸が痛みます
ね。
(千代)いいと思います。
(林)私は石川県に行ったことがないのですが、今回の痛々しい大地震後の町の再復興
を祈らずにはいられません。
(深沢)日本は元旦から大地震となり、波乱万丈の年明けとなってしまいました。一度
旅をしたところが被害に遭われてしまい多くの方が同様な思いであられたと思います。
地震(おおなゐ)に崩れし能登の海の街 旅せし若き日脳裏をよぎる
宇津木千代
九十を生きゐる人の溜息を電話に聴きつつ受話器握りしむ
(北里)電話の人は「溜息」をつくような何かがあったのでしょう。それを聞いてあげ
るしか出来ることがない、という無念の思いが結句に表現されています。90歳だと溜
息にも人生の重みが感じられます。
(千代)私の友人で歌人の女性が、電話で“老いてなお生きていることは残酷ですね”と、
言ったのです。この方は、去年の11月に朝日新聞で、自己出版の歌集が優秀賞を受けた
ばかりで、幸せの状態だと思っていたのですが・・・)
(白樺)上の句を読んだ時、以前読んだ篠田桃紅の随筆「105歳、死ねないのも困る
のよ」(幻冬社文庫 平成31年初版)が浮かび上がりました。篠田桃紅は墨を用いた
抽象画(書)で知られた美術家で随筆や短歌も書かれていました。溜め息をついた電話
の向こうの人も桃紅さんの思いと重なるところがあったのかもしれないと想像しまし
た。(林)言葉にならない悲哀を感じます。歌で表現できると少し楽になる内容だと思いま
した。(深沢)電話というのは顔が見えないだけあって、受話器の向う側から聞こえてくる音
たとても気にかかります。ご高齢の方がついた溜息にはどのような意味があったので
しょうか。安堵、絶望、数々のことが考えられますが、電話越しにでも話を聞いて頂け
た方はきっとほっとし、受話器のこちら側では、話を聞くことしかできない空しさがこ
みあげているのでしょう。切ない歌ですね。
九十を生きゐる人の溜息を電話に聴きつつ受話器握りしむ
霧深く漂ふ街を買物の袋を下げて家路急(せ)く人ら
(北里)「下げて」は「提げて」では。時期や時間帯はいつかしら。年末の夕方とかの
情景を思い浮かべました。霧が深いと不安になって、早く暖かい我が家に帰りたいと思
うのでしょう。買い物袋には夕飯の食材が…。
(千代)下げる、提げる は、同じ意味で両方使うとおもいます。広辞苑では“下げる”
で引くと“提げる”とも書く、とあります。また“提げる”を引くと、“下げる”を見よ、と出
てきます。(電子辞書より)ということは、一般的には“下げる”が使われると思いま
す。ただ、短歌を詠む場合には優雅さを感じる“提げる”の方が似合うかもしれません
ね。
(白樺)「買物の袋」を「買物袋」として、例えば、「霧深く漂ふ街を急く人ら 買物
袋下げて家路へ」とすると57577の韻律におさまります。
(林)地震で被害に遭われた方達でしょうか?
(深沢)多分タイプミスかと思いますが、袋を「提げる」ですね。街中で暖かい家路に
向かいたい人々の様子がうまく切り取られている1首だと思います。
霧深く漂ふ街を買い物の袋を提げて家路せく人ら
*電飾の取り払はれて色どりを失ひし街 月光すがしも
(北里)クリスマスの飾りつけが外された後の街は、一気にさみしさを感じさせます
ね。にぎやかな光がなくなった分、空の星や月がすんで美しく感じられたのでしょう。
その場の実感があります。自然の美しさへの賛美ですね。
(白樺)クリスマスがすんだ後のさりげない情景で結句の前の一字空けが人工的な騒が
しい明るさと自然の静かな明るさの対照を強調しています。
(林)電飾があると月光が冴えません。普遍的な比喩の香りが致します。
(深沢)年末のクリスマスの飾りが外されたのですね。人工的なものと自然とを上手く
歌に織り込まれています。語彙の使い方を学ばせて頂きました。
*電飾の取り払はれて色どりを失ひし街 月光すがしも
北里かおる
ストーブの蒸発皿に牛乳瓶 終わりのチャイム待つ四時限目
(白樺)上の句と下の句の体言止めでどっしりとした感覚です。小学校の時私の席の
す ぐ横に石炭ストーブがあってその上に牛乳瓶はありませんでしたが、暖かすぎて眠
気を 催して目を開けているのが大変だったことを思い出しました。
(千代)教師であった日のこと?蒸発皿はどんなものかよく分かりませんが、想像は
で きます。きっと生徒たちが冷たい牛乳をお昼に飲むために、ストーブの蒸発皿にの
せて 温めておくのですね?午前中に授業が4時間もあるのですね?今か今かとチャイム
を 待っている状況がよく表されていると思います。(北里)田舎の小中学校に通って
いた頃の思い出です。石炭ストーブの上にだらいの大きな蒸発皿(基本は乾燥防止用)
がのっていて、そこに給食の牛乳瓶を並べてました。授業は午前は今でも4時間ありま
す。給食は午後1時近くになります。
(林)微笑ましい景色ですね。そういえば小学校の時クラスに一台ストーブがありまし
た。
(深沢)学校で授業がもうすぐ終わり、給食の時間となる様子の歌でしょうか。このよ
うな光景は想像しているだけでワクワクしてきます。教職をなされていたのですね。
ストーブの蒸発皿に牛乳瓶 終わりのチャイム待つ四時限目
遺されし母の手袋はめてみる どの手袋も余る指先
(白樺)「手袋」「はめる」「指先」の具体で作者の気持ちがよく伝わるお歌です。
(北里)北海道では手袋は「履く」と言います。「はめる」とは誰も言わないのですが、
方言なのでみなさんが分かるように「はめる」を使いました。
(千代)良いと思います。哀しいとも懐かしいとも余計なことは言わないで、指先が
余ってしまう亡きお母さまの手袋を、嵌めてみている作者の心情がくっきりと浮かび
上 がってきます。
(林)お母様を亡くされて遺品を身に着け懐かしく思い出される大切な時間ですね。
(深沢)同じDNAを持つはずなのに指の長さが違ったのですね。お母さまの思い出深
い手袋をはめた様子からお母様に対する思いが感じられる1首です。
遺されし母の手袋はめてみる どの手袋も余る指先
サイフォンに沸き立つお湯はポコポコと朝の光をとり込んでゆく
(白樺)オノマトペが効果的ですね。お湯が朝の光をとり込んでゆくという表現が詩
的 です。
(千代)結句の “光をとり込んでゆく”という表現はとてもいいですね。この表現には
時間の経過がありますが、それは“ボコ”ごとに光をとりこんでゆく ことなのですか?
(北里)正確にはサイフォンの「フラスコ」のお湯が「ロート」を上っていく場面です。
湯が大きな泡状となり、その泡が光をとり込んでいるように思えたので、フラスコや
ロートの中で泡が「ポコポコ」ごと、ですね。
(林)幸せな一時 とはこのような時間なのでしょうね。
(深沢)サイフォンを使用していただくコーヒーは美味しく、まるでお店でコーヒーを
頂いているようです。コーヒー好きの私には状況がよく理解でき、その様子がすぐに広
がってきます。結句が素敵ですね。
*サイフォンに沸き立つお湯はポコポコと朝の光をとり込んでゆく
深澤しの
鳥の飛ぶテキサスの空ひろびろと 無限の世界が広がりており
(北里)飛行機の中から空を見て無限の世界(宇宙)と感じたのでしょうか。「テキサ
スの空」「無限の世界」とスケールが大きいので、そのように思いました。(白樺)鳥にとってテキサスの空は無限の世界であるように広々としているのだろうか
と想像しているのでしょうか。
(千代)今、自分が眺めている眼前の空に鳥が飛んでいる空を表現したいのなら、もっ
と具体的な鳥の名を入れて方が、歌がくっきりと浮かびあがってくるように思えます。
(オオクロムクドリモドキ)句目と結句ですが、“無限の世界が”と8字になっています
が、助詞“が”をとりのぞけば。7字になりますね。“おり”は、古語の“をり”からきていま
すが、終止形は“おる”になります。“おる”は謙譲語ですので、ここで使う必要はないで
すね。“無限の世界が広がっている”で良いと思います。
(林)作者の視点が鳥の視点に変換されており 短歌の無限の可能性を感じさせてくれ
ますね。
鳥の飛ぶテキサスの空ひろびろと 無限の世界が広がっている
吾が歌を詠みて下さる人々が祖国(くに)におわすと想えば温し
(北里)自分の短歌を誰かが目にして読んでくれていることを言いたいのなら「読む」
ですよね。日本で誰かが自分のことを歌に「詠ん」でくれている、ということなので
しょうか。「温し」には感謝の思いが感じられます。
(白樺) 気持ちは伝わりますが「おわす」の表現が少し気に掛かりました。
(千代)この歌を読んでいて感じたことは、作者がかってない歌の表現を試みているこ
とです。少し、違和感を覚えました。歌の中に「下さる」「おわす」という謙譲語や尊
敬語を使って作歌したのは、作者なりの意図があって使ったと思いますが、もし、その
意図をきかせてもらえれば、この歌の評が書けると思いますので、よろしくお願いしま
す。(深沢)尊敬してる高齢の方が日本におられて時々、短歌を読んでくださるので、
有難いことだと思い書いてみました。「いる」の意の尊敬語。存在の主を敬っていう。
いらっしゃる。
(林)想像力が体温を変化させるのでしょうね。考えさせられます。
吾の歌を読みいる人の祖国(くに)に在ると想えば温し 春風のごと
尊敬語や謙譲語は、和歌の時代、万葉、古今、新古今などから連綿と明治時代までつづ
いていた。長い間、歌を詠む人は限られていて、極めて上流階級の人々とか天皇、皇室
をとりまく女性達が歌を詠んでいた。階級制度のある中、尊敬語、謙譲語、丁寧語など
が相当歌に詠みこまれていた。しかし和歌が短歌と呼ばれるようになると(主に正岡子
規が、自己の発露としての歌こそ、現代に相応しい歌として和歌でなく、短歌という言
葉を強調した。)、尊敬語や謙譲語はほとんど使われなくなった。
もちろん、使われている歌を散見していますが、それらの歌は、尊敬語、謙譲語を使っても自然と納得でき
る歌です。
*短歌は「みじかうた」として反歌に使われ、その前に長歌(ながうた)といわれて歌
があった。長歌、旋頭歌、仏足石歌(それぞれの歌の形式はネットでしらべればわか
る)などに、最後にまとめの形や、長歌の中で歌いきれなかった思いを、みじかうた
(短歌)として5,7、5,7、7の形で詠んだものが、子規によって「短歌」と、呼
ばれるようになて、和歌がより自己表現の形式となり、最初のころは、これが和歌、こ
れが短歌とはっきり区別するものはなかったのではないか、と思う。
私が今まで読んだ歌の中で記憶に強く残っている尊敬語を使った歌は、明治時代の落合
直文の「父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり」と言う歌
や、斎藤茂吉の母親の危篤を聞いて、陸奥に在る実家に戻る列車の中から読み始めた59
首の「死に給ふ母」の中に使われている沢山の尊敬語や謙譲語です。美智子皇后の天皇
を詠った歌などです。他にもあると思いますが、私の記憶の抽斗にはしまわれていない
か、隠れているかです。美智子上皇后の歌は短歌という分類ではなく、和歌と言う分類
の方がふさわしく思います。美智子上皇后には「瀬音」という美しい歌集があります
が、その中の一首「てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて」があり
ます。いくら自分の夫とは言え、天皇に対する尊敬語や謙譲語はごく自然に出てきたこ
とと思いますし、この和歌一首を読んでみても違和感は一切ありませんね。
*以上の見解は、私の学んだ記憶の中から引き出したもので、間違いがあるかもしれま
せん。
*一条の陽の光とて逃すまじと顔押し付ける朝の北窓
(北里)幼い頃の記憶の一場面でしょうか。子供が窓に頬を押し付けて外を眺めている
のかな。閉じ込められている部屋から出たいのですね。一条の光は希望の光でしょう
か。北窓のガラスは冷たい印象ですが、そこに顔を押し付けてまでも追い求めたい光な
のですね。
(白樺)「顔を窓に押し付ける」の具体的動作で「光を逃すまじ」という気持ちが伝わ
るので「光を逃すまじ」は削れるのでは。
(千代)長雨が続き、ようやっと太陽が出てきたような状況が想像出来ます。あるい
は、もっと精神的な状況を詠っているのかとも思いますが・・・結句 “北窓”に何か意
味がありそうなのですが・・・
(林) シアトルの冬なのでしょうね。微笑ましいですが顔が冷たくなりそうですね。
*一条の陽の光とて逃すまじと顔押し付ける朝の北窓
2024年 課題予告
1月「光」北里
2月「月」林
3月「桃」白樺
4月「ランドセル」深沢
5月「」宇津木
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