*凍てし夜パスタ盛る皿受けし手は God Bless You と微笑みかえす
(千代) レストランの光景ですか?それとも友達の家で、寒い夜に温かいパスタを振舞われて、ああ有難い、と笑顔を返した、ということですか?“手は・・・・・と微笑みかえす”手が微笑みかえすのですか?手で嬉しさを表現するのは、歌としてとても良い目の付け所だと思いますが、“微笑みかえす”という表現は少し、甘すぎる表現だと思います。
(白樺)パスタが盛られたお皿を受けるのは作者ではなく、フードサービスを受けるお腹の空いた人と想像しました。若くもなく貧しくボランティアのフードサービスを有り難く受けて止めている人に暖かいスポットが当てられています。二句目「パスタ盛る皿」はまだパスタが盛られていない空のお皿を手渡しているのでしょうか、それとも手渡しているお皿にはすでにパスタが盛られているのでしょうか。主眼は皿を受け取っている人ならばお皿にはすでにパスタが盛られていてそれを有り難く受けているとすれば例えば「パスタの皿を受けし手は」とするとはっきりとするようです。(林)ありがとうございます。そのように変えてみました。
(北里)炊き出しでお皿を受け取った場面でしょうか?これからパスタを盛ってもらうのでしょう。手が微笑み返すのかしら?「God Bless You」 は詠み手がお皿を渡してくれた人にお礼の気持ちを言葉にしたのかなと思いますが、「手」が「微笑みかえす」がなぞです。(林)そうですね。「手」を「方」に変えてみました。
(千代) ”方”は、どちらかと言えば敬意をもって言う時に使う言葉で、ここでは”人”と言ったほうがいい” ですね。
(深沢)ボランティア活動をなされているのでしょうか。温かいパスタを受け取る方の感謝の気持ちがよく伝わる1首です。 (林)ありがとうございます。ホームレスの方たちに炊き出しで月に一度でしたがシアトルダウンタウンに夜の7時に高架下に温かいパスタとサラダパン 等をサーブしていました。 日系人教会にいた当時の思い出です。
(千代) 微笑みかえすは、とても甘い表現です、次回からはその実態を表現するような工夫が必要かと思います。出来ればどこかで”炊き出し”あるいは”ボランティア”であることが分かる一言が入っていると理解しやすくなると思います。
*凍てし夜 パスタの皿を受けし方God Bless You と微笑みかえす
けもの道迷い迷って一軒の 見えし光に両手合わさん
(千代)よく理解出来る歌ですし、また、ドラマや映画でもよく観る状景だと思います。結句“両手合わさん”の“ん”は、どのような意味で使いましたか? 一軒かどうか見えないわけでしょう?ですから、ここでは“一軒”とはっきり表現しないで、“けもの道迷い迷って一条の洩れ来る光に手を合わせたし”
(白樺)どこかの林か森にハイキングにでも行った時の情景ですか。道に迷った時救いの手のように民家の光が見えてきた時のホットした気持ちが伝わります。3句目と4句目が句またがりになっていますが、上の句5、7、5で一旦まとめてから下の句の7、7へ続けるのも構造的にスッキリすると思います。結句「両手合わさん」は意思を表す助詞だとすると、すでに光は見えているわけですから、「両手を合わす」とすれば時制的に合うのでは。(林) ありがとうございます。そのように変えさせて頂きました。
(北里)けもの道って山の中で迷子になったのですか?道に迷って困りはてたあげく、やっと一軒の家の明かりを見つけた時の安堵と感謝の思いを詠ったのかと思います。「一軒の光見つけし」で切る手もあります。
(深沢)救いの光が見えてきたのは良かったのですが、その一軒家は危険がなかったのでしょうか。良い家主ならいいのですが、この頃のご時世、何が起こるかわかりません。少し心配になった1首です。
(林)これはまだ学生だった頃 女友達ちと鞍馬神社から貴船神社まで徒歩で行くことにした際に迷子になってしまい、次第に夕方になり暗くなりかけて来たところに遠くに一軒の家の光が見えました。家があるということは人が住んでいる区域に自分がいるという事で 熊に襲われる心配が減った事が分かった安堵感を歌っています。
(千代) 結句“両手合わさん”の “ん” は、どのような意味で使いましたか? と、合評の中で訊ねましたが、返答がないので、文法の大切さをここに書いておきたいと思います。*林さんの最初の詠草として、とても良い視点で歌が詠めていると思いました。ただ、歌は意味だけでなく、文法が大切で、特に助詞一つで意味が全く違うことになります。私が尋ねている“ん”の使い方には何の返事も貰えなかったのですが、この一字はとても大切な一字で、林さんがどういう意味で使っているのかの回答が欲しかったですね。幸い、最終歌では結句を変えていますが、でも“両手を合わす”ですが、実際に両手を合わせたのでしょうか?そいう思いがした、ということではないのですか?それから“一軒の”とありますが、一軒の家が見えたのですか?光が表現されているなら敢て“一軒”といれなくても、十分に読者は理解出来ます。31文字しかないのですから、削れる言葉はできるだけ削るといいですね。必要な言葉は必ず入れるべきですが・・・
けもの道迷い迷って一軒の 見えし光に両手を合わす
後半の坂道下る我脚は 幼子みたく弾み歌わん
(千代)何が詠いたいのかを読者が一読して理解出来るようにすることも心がけて下さい。“後半”という言葉は必要ですか。若い作歌者なのでしようが“みたく”という言葉が、今、日本では衆知の言葉なのですか?末広さんが鳥羽シェフへのラブレターの中で、このような言葉遣いをしていましたね。“みたいに”“ごとく”“ように”などの意味があるのですか?結句の “ん”は、意志をあらわしているのですか?“我の脚は”でしょうね。脚が弾み歌おう なのですか?足は帰途に付き嬉しさで、弾み歌おうということですか?それとも疲れて足がガクガクしていることですか?
(白樺)これもどこかにハイキングに行った時のお歌と想像しました。坂を登るのが大変だったのに比べて後半は下り坂なので楽々と脚が弾んできたのでしょう。初句の「後半」を削って例えば「坂道を下る我脚軽々と 幼子になり弾み歌わん」とか。深読みをすれば人生の後半を楽しく弾むように生きたいものだとも取れますね。(林)はい全くその深読みのとうりです。 60歳になりましたので人生の後半にいる自分を再確認しつつ それでも幼子のように夢を失う事なく日々前向きに楽しく生きていきたいと願った歌です。
(北里)初句の「後半」が唐突に感じました。何の後半なのか。人生の坂道、本当の坂道?「脚が歌う」とは明るくスキップを踏んでいるようなことを表現したのでしょうか。単に脚力が優れていることを言いたいのか、人生を元気に力強く生きていこうという決意なのか。(林)はい 決意の方ですね。
(深沢)下りの方が使う筋肉が違うので普通大変なのですが、楽しまれている様子で軽快です。字余りになりますが、「みたく」を「さながら」にしてみました。「幼子なさがら~」
(千代) この歌が実景でなければ、抽象的、観念的すぎる歌になってしまっていると思います。自分の人生を詠うなら、どこかにそのことを表現する言葉がほしいところです。ここでも結句の “ん”という助詞が使われていますが、どういう意味で使われていますか?脚が“弾み歌わん”ということですが、脚が“歌う”ということは、最初の歌“手が微笑みかえす”と同じパターンの表現で、歌の世界では“甘い表現”と言われています。講評の中で“我脚”ではなく“我の脚”と、真ん中に助詞が入らないと、と書きましたが、最終歌でも“我脚”となっていますが、何故ですか?
*皆さんに伺いたいのですが、“みたく”と言う表現は、今、日本語として当たり前の言葉になっているのですか?皆さんの合評を読んでも、この言葉に疑問を呈していないので、当たり前の表現なのかと思いましたが、もし、どなたかが応えてくれたら嬉しく思います。
以下はネットで調べた回答です。
「みたいだ」は、形容動詞型活用をする助動詞です。 「ようだ」とほぼ同じ意味・用法の語です。 よって、連用修飾語として使う場合には、連用形で 「みたいに」とするのが正しい、ということになります。 「みたく」は、「みたい」という語形から、形容詞型活用 であると誤って受け止められ、その連用形「みたく」が 用いられるようになった、あるいは希望を表す助動詞 「たい」と混同されてその連用形「たく」が用いられる ようになった、と考えられます。 国語大辞典(小学館)によると、 「みたいだ」が使われるようになったのは明治中期以降 だそうです。「みたく」の方は、最近使われるようになった としかいえないようです。 同じような誤りに、動詞「違う」の名詞形「違い」を 形容詞と誤解したことから生じた「違く」という言葉が あります。 地域によって使う使わないはあるでしょうが、共通語か 方言というよりは、上記のように正しい用法か誤用か、 ということだと思います。
後半の坂道下る我脚は幼子さながら弾み歌わん
宇津木千代
墨まみれ反古まみれの吾の余生 墨摺りゐれば甦る過去
(白樺)初句と二句目で書に専念されている作者の情熱が伝わり、墨を摺っている時に浮かんでくる過去とはどういうことなのだろうと色々と想像します。
(林)「墨まみれ反古まみれ」の意味がよくわかりません。きっと私の想像力不足ですね。
(北里)「まみれ」の繰り返しから詠み手の書道人生が見えます。墨を摺っているといろいろと思い出されることがあり、振り返えることになったのでしょう。書道に多くの時間と労力、愛を注いできた人生への自負を感じます。
(深沢)先般、生徒に書道をさせました。1年に1度しか持たぬ筆で、彼らは悪戦苦闘して半紙に文字を書いているという様子でした。その机の周りは反古まみれでした。余生を書を書くこととしている場面とは相当な違いがありますが、集中して書き終えた1枚の清書の中の文字には、その日の心の様子が現れていました。香りの良い墨をひたすら摺っているときに甦るものはたくさんあるかと察します。日々思い出作りをされている様子がうかがわれます。
墨まみれ反古まみれの吾の余生 墨摺りゐれば甦る過去
あまりにもいい子ぶらないで 本気だし時には親や師に抗ひて
(白樺)これは作者自身に言い聞かせているのか、他の第三者に言っているのでしょうか。
(林)どなたに対して言われているのかが 少し気になります。
(北里)誰かが念頭にあって、この歌はその人に向けて言ってあげたい言葉なのですね。そう言ってあげたい大切な人なのでしょう。内容からいって「余りにも」は「そんなにも」、結句は「抗って」と話し言葉で表記した方が自然かと思います。
(深沢)いつも言われたままにいうことを聞くこともよいことなのかもしれません。しかし時には自分に直に向き合い、違うものは違うと声を大きくすることも人間は必要なのでしょう。急に火山が大爆発すれば手におえなくなります。抗うことは悪いことではないと考えさせられる1首です。
(宇津木)私は、いわゆる優等生というのは、どうしても信用出来ないし、好きじゃなし、面白くもないしという人生観の持ち主で、考えてみれば小学生の頃からそうだったような気がします。この歌は“羽生弦結”を観ていて自然に出てきた歌で、でも彼に対してだけの歌ではないです。昨晩永田和弘氏の“近代秀歌”を読んでいたら、びっくりしました。秀歌の一首に「そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから」と、我が子に向って詠った小島ゆかり氏の歌がありました。私の歌とは視点が違いますが・・・。
あまりにもいい子ぶらないで 本気だし時には親や師に逆らひて
凍て空に最後のあがきか楓の葉梢に二枚縋りつきゐる
(白樺)細かな観察で晩秋の空気感を伝えています。
(林)凍て空と楓の葉梢に二枚縋りつきゐる色のコントラストが目に浮かび二枚の葉っぱが揺れている寒々しい情景が目に浮かびます。
(北里)オー・ヘンリーの『最後の一葉』みたいですね。結句の「すがる」が哀れをさそいます。「あがき」とともに比喩表現が有効に使われていると思います。一枚ではなく二枚なのは楓の葉にご主人と自分を重ねているのかとも思いました。
(深沢)もうすぐ葉を落とすこととなる楓の様子ですね。二句目の「最後のあがき」結句の「縋りつきゐる」が楓の葉の必死さをうまく切り取られています。人生の中で最後の機会を与えらた者が、必死にあがいているようにも感じられました。
凍て空に最後のあがきか楓の葉梢に二枚縋りつきゐる
北里かおる
スマホ手に誰もがいっぱしカメラマン朝陽に染まる紅葉狙う
(千代)四句目と結句に違和感を覚えます。紅葉は既に赤く染まっている葉ですよね?その葉がまた朝陽に染まるという表現は、少し疑問に思います。“朝陽に映える”とか・・・(北里)紅葉が太陽の光にさらに色を変えると感じたので「染まる」としたのですが、ご指摘を頂いて「映える」の方がしっくりくると思いました。
(白樺)紅葉の頃は誰もがスマホで同じ被写体を撮っている情景は定番になりましたね。(北里)最近のスマホは映像がとても鮮明で優秀ですね。デジカメの出番が全くなくなってしまいました。
(林)確かに今のスマホのカメラの性能は一眼レフのカメラに負けません。「いっぱし」という表現とてもユニークですね。(北里)あまり使われなくなったかも。
(深沢)「いっぱし」という言葉の意味はわかりますが、「一丁前」とか「気取る」などに置き換えてもいいのかなと感じました。(北里)札幌にも紅葉のトンネルで有名な撮影スポットがあり、皆が太陽の当たる瞬間を待っていました。一眼レフの人もいましたけれど、私も含め多くはスマホで、けっこう真剣に。「気取る」だと意味合いがとちょっと違います。「一丁前」は似た意味ですが、語調が整いません。「プロのごと」「一角」とか考えてみたけれどニュアンスと語調の納まる言葉がなくて。
スマホ手に誰もがいっぱしカメラマン朝陽に映える紅葉狙う
結ぶ手の吾は三角母は丸恋しく思う母の手結び
(千代)着物を着るときに、三角結び手と丸型結び手があるそうですね?母親の結び手は丸型結び、その結び手を通して母親を懐かしく思い出しているのですね。よく理解出来る歌ですね。
(白樺)帯の結び方にも色々あるのですね。昔から大切にしてある着物や帯には思い出が詰まっていて懐かしいものです。上の句の後に一字開けると良いようです。
(林)「手結び」とはおにぎりの事でしょうか?
(深沢)何の手結びですか。手結びとなると帯かとも思いますが、三角と丸ならおむすびのことなのでしょうか。読み取れず申し訳ありません。
(北里)皆さま、丁寧に読み解いて講評をして下さったのに、言葉選びが悪く、誤解や疑問を生む歌で大変申し訳ありませんでした。この歌の「手結び」はおにぎりのことでした。深く反省!
にぎる手の吾は三角母は丸恋しく思う母のおむすび
一夜にて真冬となりぬ登校の子らの声まで凍ててをり
(千代)結句の“をり”は、旧仮名を使う時の表記ですね。丁寧語として使う現代表記では“おる”でしょうが、ここでは“いる”でいいのでは?また、5,7,5,7,5で、結句が字足らずになっています。「・・・・・窓越しの登校の子らの声も凍ている」参考までに。(北里)うっかりしました。字足らずでしたね。「をり」は以前にも同様のご指摘をうけたのですが、きちんと理解できていませんね。
(白樺)二句目「・・となりぬ」の完了の助詞を「・・となりて」としてみました。
(林)「声まで凍ててをり」凍りつきそうな寒々しい感じの声が聞こえてきそうです(深沢)急激な寒さのために子供の声が出ていないということですね。日本の登校の様子なのでしょうか。寒ければ急ぐので会話も途切れてしまいますね。(北里)雪かきをしていると近所の小学生が挨拶してくれます。元気に挨拶してくれる子もいますが一様に寒そうで、朝、校門や玄関に立って登校指導していた頃のことを思い出しました。
(千代)声の凍ている を、“声も凍ている”のほうが、より寒さを強調できると思います。)
一夜にて雪景色となり登校の子らのあいさつ声も凍ている
深沢しの
あちこちに集うランナーの息白く背中にやさし冬日が注ぐ
(千代)三句目で切ったらどうでしょうか?「・・・・・息白し 背中にやさしき冬日が注ぐ」としてみました。尚、“やさし”は、“優しい”の古語で、終止形です。この歌では冬日に係っているので。連体形にならなくてはならないので、“やさしき”となります。
(白樺)冬のマラソンでランナーが吐く息の白さに寒さが伝わるようです。やわらかい陽射しが背中に注いでいることでホットした暖かさを醸し出しています。上の句で冬の情景と分かりますので「冬日」は「陽射し」とした方が温かみが伝わるのでは。
(林)「背中にやさし冬日が注ぐ」作者のとても繊細で優しい感性が感じられて好きです。
(北里)実景で何人かずつ集まって話をしている状況なのだと思いますが、走る前なのか走った後なのかで歌の味わいが変わると思います。個人的には、走っている人々、または走り終えた人々の姿を描いた方が「息白」「冬日」が生き、ポエムになるように思います。
あちこちに集うランナーの息白し 背中にやさしき冬日が注ぐ
片足の鳩に無情の空っ風おそれず我によりて啄む
(千代) 少し盛りだくさんの内容に思えます。"片足の鳩" ”無情の空っ風"おそれず我に寄り""啄む"と。例として単純化してみますと[片足の鳩クックークックーと鳴きつつ我に寄り來て餌を啄む]などとも表現できますね。
(白樺)可哀想な鳩ですが人に慣れているのですね。
(林)片足の鳩でありながら力強く生きようとする生物の生命力の強さを感じました。
(北里)片足とは痛々しい姿ですが、それでも生きていかなくてはいけないですものね。強い鳩だと願います。何を「ついばむ」のでしょうか。「無情」は感じてもらえれば良いと思うので削り何を啄んでいるのかを入れた方が良いのではと思いました。
片足の鳩に無情の空っ風我に寄り来て餌を啄む
*凍おりつく水に流せぬ言の葉は毒になったり薬になったり
(千代)題詠は"凍てる"ですので、[凍てし水に流せぬ言葉 ある時は毒にもなったり薬にもなる]としてみました。
(白樺)人の言葉を水に流したり、流せなかったりと揺れ動く作者の心理を呟くようなお歌ですね。
(林)水に流せぬ言の葉」素晴らしい表現ですね。「毒になったり薬になったり。作者の視点が凄く柔軟で大人の女性の余裕が感じられます。
(北里)初読、ちょっと哲学的な歌と思いました。凍りついた水は氷、固体ですから何も流すことはできません。表記は「凍りつく」ですね。内容から「凍りつく」は言葉にかかるのでしょう。語順を変えるとよいかも。結句も「毒」か「薬」か、含蓄の深い内容です。
凍てし水に流せぬ言葉 ある時は毒にもなったり薬にもなる
白樺ようこ
自らに金槌振るい人助けし背なの頼もしロザリンカータ
(千代) 初句は“自らも”で、結句 の日本語表記は”カーター"だと思います。哀悼の歌としてはいいと思います。
(林)ロザリンカータ 最近お亡くなりになられた元大統領 カーター氏の奥様ですね。生前は素晴らしい働きをされたのですね。
(北里)元大統領ジミー・カーターの奥さんのことですね。11月19日にお亡くなりになったことは日本でもニュースになりました。短歌にするくらいですから、彼女の生き方によほど感銘を受けておられたのですね。そのうち映画とかにもなるかもしれませんね。
(深沢)人権活動をなされていたご夫妻ですが、人間の温かさや楽観主義が感じられる1首です。
自らも金槌振るい人助けし背なの頼しロザリンカーター
一輪のジョージアの花散る時し九十六年のひと世を閉じぬ
(千代) 少し、飾りが過ぎると感じます。近頃は様々な歌の内容や形式がありますが、基本はやはり"主"は、"吾、我"であると考えますので、こういう歌はよほど工夫をしないと読者を惹きつけられないと思います。
(林)この歌もロザリン カーターさんへの追悼の歌ですね。ほぼ一世紀の人生を美しく咲き閉じられた彼女のご冥福をお祈りいたします。
(北里)「散りし時」でしょうか。亡くなった年齢が一致するので、この歌もロザリン・カーターさんのことですね。ジョージアという国もありますが、当然ここではジョージア州のことですね。州花はナニワイバラとありました。花=ロザリンさん、なのですね。
(深沢)カーター夫人の逝去ですね。「一輪のジョージアの花散る時し」とインパクトのある語彙の使い方ですね。立派な人生を過ごされましたが、認知症ではありますがカーター元大統領もお寂しいことでしょう。
一輪のジョージアの花散る時し九十六年のひと世を閉じぬ
腰かがめ銀杏の落ち葉拾ふ人凍てる早朝のシアトルの街
(千代)ほとんど引っかかるものがない歌ですが、"何を詠いたいのか"がはっきりしませんので、"ああそうか"で終わってしまうような歌の感じがします。
(林)銀杏ではなく落ち葉を拾ってどうされるのでしょうね。気になりました。ミレー(北里)寒い朝に落ち葉を拾う人を見かけたシアトルの街、実際に見た情景なのだと思いますが、伝えたいことは?シアトルの凍てる朝の街なのか、落ち葉を拾うその人なのか?その時感じたことを入れると読み手にも言いたいことが伝わりやすいのではと思います。油絵「落穂拾い」を思い出しました。
(深沢)イチョウと呼ばず銀杏の落ち葉とありますが、「銀杏の木の落ち葉」ではないでしょうか。銀杏の実を拾うのではなく落ち葉を拾って何にされるのでしょうか。しおりとかでしょうか。(白樺)用事があって早朝にダウンタウンへ行きました。多分ホームレスかもしれない男の人が腰を屈めて落ち葉を拾っていました。人影もなく肌寒く空も灰色でこんな早朝に一人落ち葉を拾う姿に哀れさや孤独感を覚えました。
腰かがめ銀杏の落ち葉拾ふ人黙々と拾ふ凍てる早朝
*和歌に敬語が用いられない理由を教えてください。
ベストアンサー
ID非表示さん
2022/11/9 23:51
ああしたい、こうしたい、こうなってほしい、好きだ、美しい・・・という「自分の感情」の表出が「歌」です。
そのことは歌から発達した音楽でも、聴衆はあくまで聴衆に過ぎず、演奏には参加しない、参加できないことからも分かります。
歌だけでなく、言葉というのは基本的には「自問自答語」なのでしょう。人間は思考するとき、ああでもない、こうでもないと、声には出さないが言葉を用います。
その言葉が、例えば一心同体のようになった古い夫婦や親しい友人同士の会話でも、人格対立の無い自問自答語のような対話になる。プラトンの言うディアレクティケも同じです。
これと対立するのがレートリケー弁論術、説得術。相手を一定の方向に導き、説得する技術としての言葉。プラトンはレートリケーでは真理に達することはできないとした。始めから結論ありきの問答に過ぎないからです。
だから和歌も、相手を予定しない。純粋な思いをそのまま歌っているのであり、誰かを説得したり、折伏したり、誘い導こうとする言葉ではない。プラトンは書いた対話篇はみなディアレクティケで貫かれている。プラトンだけではない、聖人や君子と言われる2000年以上前に現れた釈迦やイエス、孔子やソクラテスの言葉もすべてディアレクティケである。
和歌も、もちろんディアレクティケであるから、自分の心をそのまま表出しているのであり、対立人格の存在を予定していないので、それを前提にしている敬語は用いないわけである。
いや、敬語も本来は話し手の恐れや敬愛を表す言葉だった筈である。それが身分秩序を前提にする社会では、形式的な上下関係を示す謙譲語や尊敬語となって発達したものと言える。
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
の「みゆき(御幸)」は天皇の行幸を意味しているが、天皇に対する畏れの気持ちを込めて「みゆき」と言っているのであり、天皇に語りかけているわけではない。これを敢えて尊敬語という必要もないでしょう。
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