2021年12月6日月曜日

2021年11月の短歌と合評

 担当:深沢しの   


今月は宇津木さんの歌を取り上げました。

大豆、糀、塩と手頃な材料ですが、味噌を作っている家庭は昨今少ないと考えます。

仕込んでから6カ月経たないと食べられない貴重なもの。毎年作り続けたご友人の優しい気持ちに触れることができました。

題詠が「熟す」でしたが、表外読みで「こなす」と読まれたことがいいなと感じました。食べ物が胃でで消化されるという意味がありますが、ご友人が丹精込めて手作りされていた味噌に対しそれを食した後の気持ちが結句の言葉で表現されていると感じられました。

なかなか終息を迎えないコロナに感染された方や輸血をされた方は味覚が無くなってしまったり途中で変わったりするということを耳にしますが、5年も真心のこもったその味は生涯忘れることが無いと思います。真心を歌にすることは素敵なことだとこの歌を詠んで思いました。

                                                                                                         

元歌亡き友の送り届けし手作りの味噌味深し五年を熟(こな)れて

 

最終歌:亡き友の送り届けし手作りの味噌味ふかし五年を熟(こな)れて

 

合評:

(北里)亡くなられた友人の手作りみそが五年だっても美味しさを増して、今も味わわれているというのが、寂しくも嬉しいこととして受け止めました。

(白樺)今は亡き人の丹精込めたものにふれた時は思い出と哀しみが涌き出てきて感慨深いものがありますね。

(深沢)いつも友達がパンを焼いて届けてくれます。彼女の息子さんが自殺をしてしまい日曜日が四十九日にあたり昼を一緒に頂きました。その時お手製の焼きたての食パンを頂きました。友達が心を込めて作ってくれる自家製のもの。いつの間にやらそれしか食べられなくなってしまった自分に何か通じるものが感じられる歌です。

2021年11月1日月曜日

2021年10月の短歌と合評


担当:北里かおる                                                                                                            

元歌:墨の香は解き放たれて吾を染む書道部屋なるドアを開ければ

最終歌:墨の香は解き放たれて吾を染む書道部屋なるドアを開ければ

 

題詠は「染める」でした。今回は着眼点に感心した宇津木さんの歌を取り上げました。

染料が何か物を染めるという当たり前の発想ではなく、目に見えない「香」が「染める」、それも「吾」を「染める」、とした発想が優れていると思いました。また、香りが漂う状況を「香」が「解き放たれる」と展開した点も詩心が感じられ、心惹かれました。

書に向き合っておられる詠み手の書道部屋には、日々に何枚も書きためた条幅作品が山のように置かれていることでしょう。ドアを開けて墨の香りをかいだ時点で、さぁ納得いくものを書くぞ、という静かな闘志が新たになるのではないでしょうか。そんな状況が目に浮かびます。やはり実体験から生まれたうたには説得力があると思いました。さわやかで勢いのある歌だと思います。


合 評

(白樺)香りに包まれるではなく「染まる」としたところが墨染の深い色合いと共に高貴な墨の香りが漂ってくるようでよいと思います。

(深沢)墨は独特の良い香りを放ちます。背筋がピンと伸びる気がします。好きなことに没頭できる自分のスペースがあることは羨ましいですね。

(北里)墨にはお香が練りこまれているので良い匂いですね。「香が吾を染める」という発想、題詠の使い方がうまいと思います。部屋に入った時、墨の匂いが体にまとわりついてくる感じが良く伝わってきます。 

2021年10月1日金曜日

2021年(令和3年)9月の短歌と合評

 担当:白樺

今月は北里さんの歌をとりあげました。

原歌:カラス五羽無言のままにはだかりてゴミ持ち帰る集積所前

カラスがゴミ集積所に群がってゴミをあさっているので作者が出そうとしていたゴミを持ち帰るという主意の人間がカラスの行動に振り回されているというどこか滑稽で多分にありえる日常的な情景が切り取られています。作者はカラスの迷惑さを表現したようですがゴミを持ち帰るのはカラスでゴミが減るから人間は助かるとも読めました。短歌では語数が限られているので散文のように事実を忠実に表現するのが不可能です。それで読み手は限られた言葉が何をかもし出しているかを感じ取り色々と想像を膨らませます。故に作者が意図したところと読み手の解釈に誤解やズレが生じたり、読み手によって色々な受け止め方があるのは当然であるといえるでしょう。最終歌では「一先ず」という言葉、助詞「に」「を」を入れることでゴミを持ち帰るのは作者であることがはっきりして作者の意図を明確にしようと推敲したことが明らかです。私はしかし原歌の「カラス五羽無言のままにはだかる」という表現が歌としては想像が膨らみ面白いと思いました。

(深沢)鴉がいるのですね。日本やイギリスでは目にしたことがありますがヒューストンにはいないので珍しく感じます。ゴミをつついてしまうので、折角持って来たゴミを持ち帰られたのですね。身の周りの何気ないことを切り取りして1首を詠めるように努力してみたいです。

(千代)“ゴミ持ち去る”でなく、“ゴミ持ち帰る”としたのは、どんなニュアンスがあるのでしょうか?(北里)詠出時に「持ち帰る」のはカラスと読めるとも思ったのですが、流れから詠み手の行動と読んでもらえるのではないかと思いそのままにしました。ごみステーションには網が掛けられていたり、ボックスになっていたりするのですが、生ゴミの日はカラスも分かっていて周りをうろちょろするのです。怖くて近寄りがたいことを詠みました。最終歌では初句が字余りになりますが、助詞「に」を入れました。

(白樺)カラスを擬人化して「無言」「はだかる」「持ち帰る」として人間の残したゴミを掃除してくれる賢いカラスと人間の共存性を日常的な目線から捉えたところが面白いですね。

(北里)誤解を生む歌で恐縮です。

カラスはやはり迷惑な存在です。ゴミ集積所のゴミを引っ張り出して荒らしたり、家庭菜園のキュウリやトマトを取って食い散らかしたり、鳩がやられたり、悪さします。子育て中は攻撃してきます。グループでいつも一緒にいるカラスもいます。最終歌では言いたいことが読み手に伝わるものに近づけたかと思います。

最終歌:鴉五羽にゴミ集積所陣取られ一先ずゴミを持ち帰る朝






2021年9月6日月曜日

令和三年八月短歌と合評

 担当: 宇津木千代

今月の短歌は、白樺ようこさんの歌を取り上げました。

元歌: 猛暑日の日本列島に繰りひろぐ競技の熱気とマスクの人々

最終歌:蒸し暑き日本列島に繰り広ぐる競技の熱気とマスクの人々                

  今回の選歌は、話題性ということで取り上げました。コロナ禍とオリンピック。何とも奇妙な無観客とマスクの人々のオリンピックではありました。しかし、選手たちの五年間頑張って、熱い思いをぶっつけ合った姿によって、コロナ禍で鬱積していた人々の胸を久しぶりに爽やかな風が吹いたのではないでしょうか。作歌者の白樺さんだけが、コロナ禍とオリンピックをとりあげていましたので、選びました。

合評

(北里)猛烈な暑さとコロナ感染拡大の東京2020でしたね。「日」としてしまうとその日一日なので「猛暑」で良いかと。会場は「列島に繰りひろぐ」というほど各地に散らばっていたわけではないので、一考かと。オリンピックの歌だと思って読みましたが、「オリンピック」が入っても良いかと思います。

(千代) “ひろぐ”は“競技”を修飾しているわけですよね。そしたら終止形ではなく、連体形(ひろぐる)でないとおかしいです。

 (深沢)感染者が増えてしまったことは悲しいですが、オリンピックが無事に終わって良かったです

 詳細:http://madoitanka.blogspot.co 連絡先:chiyoko@wavecable.com

 

 

 


2021年7月31日土曜日

令和三年 七月の短歌と合評

 2021年 七月の短歌と合評

担当:深沢しの

元  歌: 蝉籠にそよ風みたいな野の花を活けて遺影の父に捧げる

最終歌:  蝉籠にそよ風みたいな野の花を活けて遺影の父に捧げる

 

   今回は北里さんの歌をとりあげました。

   

 2021年の夏は、地下から数十億匹の「ブルードX」と呼ばれる周期ゼミの一種が、17年に一度のサイクルでアメリカの大西洋に面した中部諸州や中西部などで大量発生するの種が出てくるので7月の題詠は蝉がつくものにしようと考えていました。

 セミは、アメリカでは比較的あまり見ない昆虫。東部では毎年少数が地上に出てくるが、これまで周期ゼミを経験していない若者や周期ゼミも発生しない西海岸では、そもそもセミを見たことがない人も多いのが事実です。

 北里さんの歌を詠んで自分の頭の中には、由紀さおりと安田祥子が歌う「みどりのそよ風」の歌詞が思い浮かびました。美しかった想い出がたくさん詰まっているようでした。蝉籠に活ける野の花をそよ風みたいと表現したところにはともてほっこりとしました。

 

(深沢)2句と3句目からお父様がどのような人であられたかが感じられます。

(白樺)「そよ風みたいな野の花」が下の句のお父様の遺影と重なって美しくも儚い命という大きな課題にも通じるところがあります。

 (千代)“そよ風みたいな”という表現がいいですね。

 

 

2021年6月29日火曜日

 

2021年6月の短歌と合評

担当:北里                                                                                                             

元  歌:裏窓ゆどっと蛙声飛び入りぬ 幼の初夏(はつなつ)しばし吾を包む

最終歌:裏窓ゆどっと蛙声(あせい)飛び入りぬ 幼の初夏(はつなつ)吾()を包む

 

題詠は「包む」でした。何で何を「包む」のか、いろいろと発想を飛ばせる題詠ですが、「蛙声」と音に注目した点がおもしろいと思いました。詠み手を包んでいるのは蛙声であり、幼き日の初夏の思い出でもあるでしょう(「幼」は詠み手自身と解釈しました)。

私にも同様の経験があります。最初の勤務校が僻地で、教員住宅は田んぼにぐるりと囲まれていました。田植えが終わると夜には蛙が道路にまではい出てきて一斉に鳴くのです。何百匹か、まさに「どっと」です。前半の蛙の声が裏窓から飛び込んでくる、という場面設定、表現も巧いと思います。結句の字余りもゆったりとした回想する時間の流れが感じられます。

 

合 評

(深沢)モリアワガエルの声でしょうか。自然との関わりが多い歌に和まされます。

(白樺)外から蛙声が聞こえてきてお孫さんと初夏を過ごされる幸福感が伝わるお歌です。

(北里)匂いや音でふっと時が巻き戻されることがありますね。ここではカエルの声に幼き日々を思い起こしているのですね。「しばし」の時の流れが良いですね。格助詞「ゆ」が新鮮。万葉っぽい。

 

 

2021年6月4日金曜日

令和三年五月 円居短歌会合評

 担当:白樺

原歌:「冷蔵庫に残り物あり」とメモ残し吾にリマインド多用な日々は

最終歌:「冷蔵庫に残り物あり」とメモ残し吾にリマインド多用な日々は

今月は深沢しのさんのお歌をとりあげました。

英語圏の米国に長らく住んでいると日常とりかこまれている英語に慣れてしまいつい意識せずに短歌でもカタカナ英語を使ってしまいがちです。このお歌ではカタカナは“メモ”“リマインド”と二か所使われています。”メモ“は日本語の中で日常的に使われていて特に違和感はありません。”リマインド“は動詞として「思い出させる」の意味で使われています。言語は時代とともに変化してゆき、現代の日本語はカタカナ英語で溢れています。カタカナ英語の良し悪しではなく、良い日本語があるのに意識してカタカナにして流行に追いついたような錯覚に陥るのはどうかと思います。例えば、日本語の固有名詞に〝ザ”を付ける。お見合をマッチメーキング、引退をリタイア、水族館をアクアリウム、舞台をステージ、装飾品をアクセサリー、旅行をツアー、鳥観測をバードウォチング、遠隔作業をリモート、意見の一致をコンセンサス、我が家をマイホーム、自家用車をマイカー、個人番号をマイナンバー、傾向をトレンド、例をあげればきりがありません。逆に日本語が英語の中に浸透してそのまま日常的に使われている場合もあります。例えば、サケ、タタミ、ミリン、ジュードー、カラテ、ハシ、イケバナ、等々。カタカナ英語は名詞が殆どですが、動詞もカタカナにしている場合もあります。例えば、諦めるをギブアップする、店を開けるを店をオープンする、討論するをディスカッションする、等々。カタカナ、ひらがな、漢字と、われわれ短歌を創作する者はその時々に適した美しい言葉を探し、意識しながら言葉という道具を最大限に生かしていきたいと思います。

(千代) 確かに忙しい日々を過ごしていると、食べ忘れてしまうものもでてきますね。自分自身にメモを残すことの日常の一場面がよく捉えられていると思います。

(白樺)最後の語「日々は」は「日々」ではどうでしょうか。

(北里)生活感が出ていてよくわかる歌です。具体をしぼっているのが良いですね。私も何でもメモに書くようにしています。残念なことに、それでも忘れます。

2021年4月29日木曜日

令和三年四月円居短歌会合評

 

今月の短歌

担当:宇津木千代

元歌: 電子の世グーグルマップで検索の我が家をズームで望郷にひたる                                          最終歌:電子の世グーグルマップで検索の我が家をズームで望郷にひたる

今月の短歌は白樺さんの歌を選びました。結句を結論付けて詠ってしまったことは残念ですが、現代社会の一面をとても上手く切り取っています。初句を「異国にて」として、結句を「じっと見つめゐる」とかにすると、読者は作者の状況を様々に想像出来、歌にふくらみをもたせられると思う。

(千代:いい観点を詠みましたね。いいと思います)
(北里:先日旭川の実家を検索したら何年も前のものらしく、父の姿があり、犬はしっぽだけが写っていて笑えました。同時に今は見ることができない情景に悲しくもなりました。視点がおもしろく、故郷を想う気持ちが伝わる歌ですが、初句は今更言わずもがなでは。)

(深沢)今のご時世にふさわしい1首ですね。世界中どこでも見ることが出来ることは便利ですが、脳裏の中にあるあの頃のあの時として残しておきたいような気もしました。


2021年4月6日火曜日

令和三年弥生の短歌と合評

担当:深沢しの

  歌: ほうれい線マスクの下で深くなる会話の減って笑いも減って

最終歌: ほうれい線マスクの下で深くなる会話が減って笑いも減って

    今回は北里さんの歌をとりあげました。

 ほとんどの女性が大変気にするほうれい線について詠まれていたので、興味が倍増しました。

 みうらじゅん氏の『アレの名前大百科』をぱらぱらと見ていると、「法令線」の文字が見えました。もしかして、と説明を読んでみると、以下のように書いてありました。
 加齢によってできる、小鼻から口元にある八の字のシワは法令線といいます。医学の専門用語では鼻唇溝と呼びます。東洋医学がその起源ではないかという説があります。東洋医学では古くから、医師はこの顔のシワをみて骨盤の状態を判断したようです。シワが左右対称でない人は骨盤が悪くてまっすくに歩けない人、つまり法令を守れない人と判断されたため、これを法令線と呼ぶようになりました。豊かに年齢を重ねた証しであるという意味合いから、豊鈴線(豊麗線)と書かれることもあります。

  笑った時にできるほうれい線は、実は自分が思うほど老けて見えないそうです。そうはいっても口横のしわ(ほうれい線)に悩んでいる人にとっては、深刻な悩みです。「老けて見えない」と言われても私のようにコンプレックスに感じていると、納得することが難しいと思います。

 「笑顔によるほうれい線がなぜ老けて見えないのか」は、顔は一枚皮でつながっていますから、表情で顔の色々な部分が連動して動きます。笑って口の端が上がった時に、頬との間に溝ができるのは顔の構造上当たり前なのです。

 基本的に笑顔でできるほうれい線の溝は老けてみえるものではないそうです。小さな子供や赤ちゃんにもあるものなのです。老けとは全く関係ないことがわかりますよ。笑って口横の溝が深くなるのは当たり前。それを必要以上に恐れてしまうと、笑顔を作れない私のように魅力のない顔になってしまう危険性があります。

 

深沢)自分のほうれい線も年を重ねる毎に深くなり今はマスクで隠せますが、とても共感できる1首です。人と会う機会がまずないので、ますます笑顔が無くなります。

(千代) 第四句と結句「・・・・・会話の減って笑いもへって」とありますが、“会話も減って笑いも減って”としなかった意図がありますか?(北里)コロナ禍で授業の形態も変わり、話し合いやペア活動もできませんでしたし、黙食の奨励など、まず「会話」自体が減った現実、それゆえ「笑いも」減った、というように感じています。老けた自分にがっくりきます。

(白樺)生活や環境の変化が顔の”ほうれい線”に及ぼした影響に目をつけたところがよいですね。ほうれい線とは漢字で豊齢線ですね。ひらがなにした理由は?北里)日常であまり漢字表記を見かけないように思いましたので。内容からも仮名のままで良いかと思いますが、どうでしょうか。

2021年3月7日日曜日

令和三年 二月の短歌合評

 担当:北里かおる

元  歌:   *だだつ広い田舎家に在りて育みし夢はアメリカ 十三の歳

最終歌:     *だだつ広い田舎家に在り育みし夢はアメリカ 十三の歳

 今回は宇津木さんの歌を選びました。アメリカへの憧れを詠うのに他でもない“13歳”を持ってきて、「十三の歳」と13歳を際立出せた結句表現が効いています。13歳はちょうど中学生になり、自我を“育む”思春期真っただ中の年齢です。心や体に急激な変化がおこり、自分自身と向き合い始めます。「だだつ広い」と強調した表現には、親離れが始まり、自分の生き方を模索し始める、ある意味孤独で不安定な心のあり様につながるものが感じられます。私も田舎の小さな町に住む夢見る少女であったことを思い出しました。当時オズモンドブラザーズのダニーが大好きで、いつの日か渡米したらダニーに会ってデートができるような気分になっていました。誰にでもそのような日々、何らかの思い出があるのではないでしょうか。

合 評

(深沢)幼いころにアメリカを夢みていたのですね。わかりやすい歌です

 (北里)今はロナ禍ですが、自由に海外渡航ができ、アメリカにも簡単に留学したり行くことができる今と違って、1950〜60年代はまだまだ海外は遠く、憧れや夢の時代でしたね。渡米を夢見る田舎の少女だった自分の若さへのオマージュでしょうか。

(白樺)3,4句目が句またがりになっていて結句の前に一字あけたところが構成的に新しく感じられます。


2021年2月1日月曜日

今月の歌

 担当:白樺

今月は北里さんのお歌をとりあげました。雪が一日中降り続いている冬の情景の切り取りで、いつもならにぎやかに餌箱に集まっている雀は今日はどこにいるのだろうと作者は思いやっています。最終歌では“しんしん”とという表現が“こんこん”に変わっています。どちらの言葉も雪が静かに降っている情景を修飾する言葉ですが“しんしん”は漢字で“深深”又は“沈沈”と書き、辞書によると“しんしん”は奥深く静寂なさまという意味の他に“しんしんと冷える”のように寒気の身にしみるさまの意味でも使われます。一方、最終歌の“こんこん”はどうでしょうか。作者は“こんこん”の本来の意味は“雪やこん来(こ)”で雪よ降れという意味だと書かれています。この場合はオノマトペとして使われていて雪やあられがしきりに降るさまを音的に表現しています。それでは“しんしん”と“こんこん”の歌としてのニュアンスの違いはどうでしょうか。私自身としては、“しんしん”は奥深さがあり一層静寂さを強調しているように感じ取れます。“こんこん”も雪がしきりと降るさまを表していますが、音的に軽やかさがありリズム感があるように感じます。

原歌:一日中しんしんと雪の降り続き巣箱に集いしスズメや何処に

(千代)雪の降っていない時には巣箱にスズメが集っていたのですね、でも雪がしんしんと降り続いているので、どこへ行ってしまったのか、この寒いのにという思いなのだと解釈しました。ところで教えて下さい、巣箱には鳥が卵を温めて雛を孵すために巣篭る箱なのですよね、だから鳥たちが集うとはならないのか、とも思えますが?餌箱は鳥の餌を置いておいて、多くの鳥たちが集うという解釈をしていましたが?(北里)その解釈で。手作りする人もいるようですが、よく見かけるのは市版の巣箱で、巣箱の台に米が置いてあって、それが今なら雪の上にも落ちて、20~30羽、集団で来て食べています。敵を恐れてかちょっとついばんでは飛び立ちを繰り返します。賑やかというか騒々しいというか・・・。

(白樺)「しんしん」は使い古された言葉なので独自の言葉で表現できるとよいですね。(北里)まさに「しんしん」という状況だったのですが、チャレンジしてみました。きりがないイメージをもつ「滾々」を念頭に「こんこんと」としてみました。「雪やこんこん」と歌われることが多いようですが本来は「雪やこん来(こ)」で雪よ降れ、という意味だそうですが、そこもちょっとかけてみました。

(深沢)しんしんという言葉の効果が良く出ているので、本当にスズメの行方が気にかかります。自然の中で生きることの厳しさが伝わってきます。

最終歌:一日中こんこんと雪の降り続き巣箱に集いしスズメや何処に


2021年1月1日金曜日

 令和三年 一月一日

十二月短歌と合評  担当:宇津木千代

今月の歌は北里かおるさんの歌を選びました。

元歌: 逝き母の洗濯ものをたたみつつ着る人なきを犬につぶやく

最終歌:逝きし母の洗濯ものをたたみつつ着る人なきを犬につぶやく 

母親の亡くなった哀しみを詠う時、そのひとなりの哀切の情がほとんどの歌から伝わってきます。何歳になっても親を亡くす哀しみは例えようもなく、切々としたものがあります。この歌もそうですが、でもただ哀しみを詠うのではなく、残された母親の洗濯物を洗濯し、いつもならきちんと畳んで「はい、お母さん洗濯物よ」と届けるところでしょうが、亡くなってしまった母親の洗濯をして、きちんと畳んでも届けて着てもらう人も居なくなってしまった。その侘しさを傍にいる犬に吐露する、という状況が眼前に浮かび上がってくるということ、とてもいいと思います。

(千代) 初句は“亡き母の”ですか?それとも“逝きし母の”ですか?心情が、とくに“洗濯もの”という具体から、せつなさが伝わってきますね。犬だけが唯一の語れる相手であることも侘しさを醸していますね。

(深沢)お母様のい亡くなられた悲しみが伝わってきます。私の独り言の聞き手も愛犬なのでつぶやきが理解できます。

(白樺)日常的に繰り返されている具体的な小さな動作の中で人生に一度の死という大きな課題に向かい合っていることが切実です。