2016年3月31日木曜日

3月の短歌と合評




担当:宇津木千代

今月は深沢しのさんの歌を取り上げました。 

*舞い終えて獅子頭とりし友の顔汗の光りつ外灯の灯に

先日沖縄のダンスの会に入っている友達が、自分の出演した沖縄の踊りの舞台写真を数葉見せてくれました。その中に獅子頭をつけ、大きなぬいぐるみを纏った姿の人が居ました。しのさんも確かヒューストンで、沖縄のダンスグループに入会していると聞いていましたので、きっとこの獅子頭のことだな、と思いました。そして、これだけの大きな縫いぐるみの中に獅子頭をつけ、二人で入って、踊るのは重労働なのだろうなあ、と思いました。しのさんはきっとこの獅子頭を被って踊り終わって、頭をとった友の顔に外灯の光が当たり、噴き出ている汗がきらりと光った一瞬をとらえて詠った歌だと思います。この一瞬は、そこに居合せた本人にしか詠えない歌である点が、とても貴重です。

会員の講評


(千代) いいですね。題詠をうまく使っています。四句と結句が少しもたもたしているように感じます。“光りつ”の“つ”は、完了ですが、完了には“つ”と“ぬ”がありますが、何か人為的な完了には“つ”を使い、自然に起こる完了には“ぬ”を使うのが通常です。ここでは、光ったのは、自然に光ったのでここでは“光りぬ”のほうが適当な使い方ではないか、と思います。「・・・・・・外灯の下汗は光るも」
(中井)光りつの「つ」は完了で、終わったことを意味します。一連の動作を現在形で「舞い終へて獅子頭とる友の顔に汗光りたる外灯の下」
(北里)夏祭りなのか正月なのか、具体的な場面はわかりませんが、人々の厄を払おうと一生懸命舞われたご友人には「お疲れ様です」と声をかけたくなるような場面ですね。舞ったご本人にもそれを見ていた詠み手にも気持ちの良い汗なのだと思います。
(白樺)「光ぬ」のほうがすんなりするように思えます。結句「灯」が二つ重なるので「外灯の下」としてみました。

最終歌:舞い終えて獅子頭とりし友の顔汗の光りぬ外灯の灯に

2016年3月7日月曜日

2月の短歌と合評

担当:白樺ようこ

今月は北里さんの歌をとりあげます。

原歌:真夜中に降りつづきおり牡丹雪今日という日をおおいつくすか

短歌において助詞の遣い方は難しい事のひとつです。三十一文字の短詩形文学では言葉が凝縮されているのでたった一文字の違いでもそこから生まれる余韻や詠み手の受け止めかたはいろいろです。この歌の場合も「に」と「を」の違いで雪の降る状態が大分変わってきます。「に」の場合は、雪は真夜中のある時点で降っていた状況が頭に浮かびます。「を」の場合は、雪は真夜中をずっと降り続いていたことが想像できます。

ある状態を描写する場合に過去形、現在完了形、現在進行形がありますが、この歌では「降り続きゐる」と現在進行形にすることでイメージがよりはっきりとしました。

最終歌:真夜中を降り続きいる牡丹雪今日という日をおおいつくすか


(白樺)  順序を少し変えてみました。例えば「牡丹雪おおいつくすか今日ひと日真夜中を降り継ぎし後」
(千代)“真夜中に”を、“真夜中を”にしたら、真っ暗な闇に、あとからあとから意志あるごとく降り続いている真っ白な雪のイメージが、さっと脳裏をよぎるような気がします。“ふりつづきおり”よりも“降り続きいる”がいいと思います。“おり”は、ほとんど人間に対して今は使われたり、“いる”のもっと改まった言い方に今はなっているので。 

(中井)現在進行中なので「降りつづきゐる」とし、結句を「おおいつくさむ」としてみてはどうでしょうか。

2016年1月の短歌と合評




担当:北里

                         
原歌:大き夢描きてみむか余生坂小さくなりゆく画布の余白に

1月の詠草は「夢」でした。夢には寝て見る夢と未来に向けての夢がありますので、どのような歌が出てくるのか楽しみでした。いろいろとおもしろい歌が出されましたが、今回は白樺さんの歌を取り上げます。人生を“一枚の画布に絵を描いていくようなもの”として、残りの人生を“余白”と捉えたところが面白いと思いました。人生の終わりがすなわち絵の完成となるのです。たとえ描き残しがあっても。近頃の私はというと年齢を言い訳にして後ろ向きになりがちです。晩年に入っても残された人生に大きな夢もち、それを成し遂げたいと願う前向きな姿をまぶしく感じます。自分で自分の人生をあきらめてしまったら、そこで絵筆を置いてしまったようなもの。いつまでも意欲をもって何かに挑戦し続けることが大切ですね。
最終歌は言葉がすっきりと整理され、伝えたい内容がはっきりしました。「溢るるように」という結句は躍動的で若々しく希望に満ちています。一年の始まりに明るく元気を与えてくれる一首です。

<合評>                                                       
 (千代)修飾語が多すぎて、それぞれの関係がはっきりしないのですが・・・。人生という小さくなっていく画布の余白に、思い切って大きな夢を描いてみようか?ということですか?〔白樺〕大体そうですが、これまでの人生一つのことに専念してまっしぐらに来たわけではなく、あれやこれやで曲りくねりながらでしたので、気が付いてみればだんだん先が見えてくるようになりました。でも人生はいつの時点でも夢をもって生きていくのが幸せかなと自分に言い聞かせている今日この頃です。
余生坂という言葉は、いらない言葉だと思います。「大き夢描いてみむか我の生の小さくなりゆく画布の余白に」

(中井)余生坂とは聞き慣れない言葉ですが、「この余生」ではどうでしょう?「小さくなりゆく画布の余白」では夢を描きようがないと思うので、「小さくなりゆく画布いっぱいに」としてみました。

(北里)自分の人生を一枚の絵画に擬えているのですね。「余生坂」という言葉があるのでしょうか。ここではどういった意味で使っているのでしょうか。小さい余白に大きな夢を描く、というのは物理的には矛盾しているので観念的にしかとらえられないですね。 

最終歌;大き夢描きてみたし吾の生の画布の余白に溢るるやうに