短歌を作る時に誰でも陥りやすい傾向として観念の空回りということがあります。
嬉しい、楽しい、悲しい等、私たちの感情や主観をそのまま述べて読み手に理解をしてもらうことは簡単ですが感動にまで訴えることは難しいと思います。
ここが散文と詩の違いであり、難しいところです。
観念の空回りをさけるには、まず具体的動作で心や気持ちを余情として読み手に伝えるということがあります。
北里さんの歌の例では、「期待」「不安」が作者の観念で、読み手にとっては作者が期待と不安を抱えているのだなと理解はできますが、感動が余情となって伝わりにくくしています。
推敲後の歌ではこの観念語はありませんが、結句の「残り一年」に含められた作者の未来への思いが読み手に余情となって伝わります。
(千代)新しい手帳ですから、家計簿にも日記帳にもまだ“踊る”ほどの数字が書かれていないのでは?)(北里)数字はカレンダーの数字だったり、これから書きこまれるものであったり、「踊る」は脳裡に踊るというイメージでした。白樺さんは伝わると言ってくださいましたが、少し無理があるのかもしれません。
(中井)体言止めばかりで歌としての流れがないですね。ある日の日記そのものという感じ。
(白樺)「数字が踊る」の表現でこれから書き入れようとする数字に作者が感じているであろう期待感と不安が伝わります。言葉の間にスペースが「踊る」にリズム感を加えています。
(深沢) 昔はずっと家計簿をつけていました。毎年新しいものを手にした時の心情がよく理解できます。
最終歌: 新しい手帳に家計簿日記帳 定年に向け残り一年(ひととせ)