2015年12月5日土曜日

11月の短歌と合評

担当:中井久游



 北里かおるさんの歌を取り上げます。 11月のお題は「赤または紅」でした。
百人一首には白を詠み込んだ歌は6首ありますが、赤は思いのほか少ない。 在原業平朝臣の「ちはやぶる神代もきかず 龍田川からくれなゐ(唐紅)に水くくるとは」に紅が詠まれている他に、紅葉(もみじ)を詠んだものが数首あるのみです。赤い色にはあまり情趣を感じなかったのか、忌み嫌われたのか私には分かりません。
  現代にあって、色が様々のシーンで重要なポイントになっている事が多いのですから、もっと色を歌に詠み込んでみたいものだと思います。

  元の歌
*その姿天つくごとし寒風に威勢よきまま赤トウガラシ

(千代)寒風に威勢よきままだから、「天衝くごとし」と表現したのだと思いますし、威勢よきままの表現はいらないと思います。「・・・寒風にますます赤くトウガラシ冴ゆ」としてみました。
(白樺)赤い唐辛子がツンと寒空にのびている様子がたのもしい印象のお歌です。赤唐辛子といえば寒い季節に祖母が山になった白菜を木製の樽に漬け込んでいたのを思い起こしました。冬の寒さとピリッとした唐辛子は相性がよいようですね。
(北里)「唐辛子」と漢字表記もありでしょうか。空に向かって成長する動画裸子の畑での姿を見たことがない人にはピンとこない歌だと思います。
(中井)いいと思いますが、二句切れにせず一気に続けた方が良いような気がします。「寒風に天つくごとく輝きて威勢よきかな赤トウガラシ」
(北里)これも私の畑のトウガラシです。山口先生の添削をいただきました。ありがとうございます。

推敲後の歌

*その姿天衝くごとし寒風にますます赤くトウガラシ冴ゆ

 すきっとした、とてもいい歌になったと思います。寒風の中の青空に反対色の赤が映えて、際立った美しが表現されていると思います。生命力と活力が溢れて、読み手に元気を与えてくれる歌となっているのは、赤のなせる業でしょうか。赤を見事に詠んだ秀歌だと思います。


2015年11月1日日曜日

10月の短歌と合評

 

担当:宇津木

  今月の短歌は、深沢しのさんの歌を取り上げました。 深沢さんは、今月は臨終に間に合わなかった、亡くなられた友について、三作連作の挽歌を詠みました。取り上げた三作目の下記の歌に、耳が遠くて看護師さんの言葉が理解できなかった故に、きっと看護師さんは筆談で、病む友達を看護してくれていたのですね。亡くなった後、病室を訪れた作者の目に飛び込んで来たのは、きっと最後の筆談「体拭きます」という一枚のメモ、本当に切なかったことだと思います。でもその感情は出さずに、残されていた一枚の筆談メモ「体拭きます」という言葉で、その悲しみを象徴しているように思えました。
 

*耳遠き友の枕辺看護士の体ふきますの筆談残る
(中井)挽歌ですよね。これだと亡くなったという事が分かりません。「看護士の”体ふきます”の筆談を残して逝きし友の枕辺」耳が遠かったことは言わなくてもいいと思います。
(千代)とてもいい一場面を切り取れた、と思います。男性の看護士だったのですか?もし分からなかったら「看護師」にしたほうが、いいのかな、と思います。「看護師の「体ふきます」の筆談メモ 逝きし耳病む友の枕辺に」としてみましたが、あまりスムースではないので、推敲してください。短歌は削り削りつつ、でも必要な言葉はしっかりと入れなければならないと思います。もちろん、私自身にも言えることですが。
 (北里)三首とも同じ方のことを詠っているようですね。筆談という具体があって良いと思います。挽歌としての提出ですが、この一首だけを見ると、ご存命とも受け取れます。挽歌としてなら、亡くなられたことが分かる表現があるといいですね。
(白樺)具体的な表現でよいと思います。挽歌とするならば亡くなったということがわかる言葉を入れるとよいのでは。

(最終歌)看護師の体拭きますの筆談メモ耳病みし亡き友の枕辺



2015年10月5日月曜日

9月の短歌と合評

担当:白樺

今月は中井さんの歌をとりあげました。

雨に打たれ葡萄の房が汚れゆく なし崩される民主の条理 

理由は下の句の「なし崩される民主の条理」が少し引っかかったからです。
上の句ではきわめて具体的に事象を捉えていていますが、下の句で汚れてゆく葡萄を介して作者が表そうとしている理念が大掴みに概念的に言い切られているだけで心に訴えるというまでには至らないのが残念に思えます。雨に打たれ洗われるのではなく逆に汚れてゆくということは環境汚染等の社会現象の問題を提起して読者の批判に訴えようとしているようにみえます。太田青丘の「短歌開眼」の理念と具象の節で「・・・全と個の関係は、短歌における理念と具象の関係に押し広げて考へることもできようかと思ひます。すなはち理念は具象を俟ってその内容を充実し、具象は理念の裏付を得てその迫力を充うすることができます。・・・イデオロギー歌(理念歌・観念歌)が案外空疎な響きに終わり・・・自己の理念をいかに個々のものにおいて確かめ具象化するかに努力しなければならないわけです。」
このことはすべての短歌作者にとって大きなチャレンジであると思います。

(萩) 前半と後半は一見関係がないようにも思えますが、もしかして雨に濡れて泣いているのは国民かもしれませんね。安部政権はもう少し国民の声に耳を傾ける必要がありそうです。                                
(千代)なし崩しにされた民主のテーゼとはなにかを表現したほうが、読者を現実に引っ張り込む効果があるような気がします。「雨に泣く」という表現は、どうも感傷が勝るような気がします。ところで、なし崩しにするのは誰ですか?政府それとも民主党自体?                            
(北里)原発で被災した葡萄畑のことかと思いましたが、「民主のテーゼ」とあるので、ここでの「葡萄」には特別な意味合いを持たせていて、何かの比喩なのだとうと思います。そこから先は・・・。きっと葡萄が何か分かる人には意味深い歌なのだと思います。                                                       (白樺:「民主のテーゼ」と「汚れた葡萄の」関連性がよく分かりませんでした。



2015年9月4日金曜日

2015年8月の短歌と合評

担当:北里
                                                         
原歌;「通りゃんせ」ゼブラゾーンに流るれば何処へ行かむ晩秋の帰郷                                

8月の詠草は「音楽をテーマにした歌」でした。おもしろい歌がいろいろ出されましたので、どの歌を取り上げるか迷いましたが、宇津木さんの歌にしました。選んだ一番の理由は、「通りゃんせ」という曲名を具体的に上げていて、歌を一読しただけでそのメロディ音を伴った映像がパッと脳裏に浮かんだからです。具体的に曲目をあげている歌では、白樺さんの「赤とんぼ」もありましたが、短歌を読んでから「赤とんぼ」の歌を思い出してみる、と少し時間が必要でした。それはそれでなんら問題はありません。この歌に惹かれたのは、交差点の信号機で流れる「通りゃんせ」のあの不思議な機械音による何とも言えない哀愁のあるメロディが、私の心のどこかに強く残っていたからかもしれません。合評にも書きましたが、日本で暮らした年月よりも国を離れた年月の方が長くなり、大切な身内や友もだんだんといなくなり、帰国しても何となく淋しい、心の行き場を失くしているような状況を思いました。「お通りなさい」と言ってもらっても、はしたしてどこへ行ったものか。確かな足取りで横断歩道を渡る者もいる中で、強く望む目的地もなく、さ迷える心で交差点に立ったことが自分にもあったような。そんな記憶があり共感します
話が逸れて恐縮ですが、「通りゃんせ」の歌詞については、いろいろな怖い説があり、その点も私は興味深いのです。暑い日も減ってきましたが、涼しくなりたい人、怖い話が好きな人はネットで検索してみてください。夜に読むと怖さも一層増します。                                      萩)横断歩道に流れる「通りゃんせ」のメロディは日本でよく耳にします。大勢の人がいながら自分を見失ってしまいそうな、取り残されるような目に見えない感覚を歌いこんでいると思います。
(中井)「通りゃんせ」が、と「が」を入れる方がいいと思います。また、全体に色んな要素を入れすぎて散漫になっていると思います。(千代: 一語一語別々のものではなく全体がつながっているので、すべて必要な言葉なのです。)                                                               (北里)交差点での童謡は単純化された機械音に代わり、最近はあまり聞かなくなったように思いますが、大都会の交差点を思い浮かべさせます。長く祖国を離れ懐かしく感じたり帰るべきと思える場所もなくなり、心の行き場をなくして1人佇む姿が、人がせわしなく行き過ぎる交差点の無機質感と対比され、さみしさが一層つのる様子が秋の夕暮れとマッチしています。自問自答で「行かむか」と「か」は入れなくてもよいのでしょうか。(千代:“か”は、必要ありません。“かむ”はどこへ行こうか、という意味が含まれていますから、わざわざ“か”は入れなくてもいいと、思います                                                                                                       (白樺)「ゼブラゾーン」とは直訳すればシマウマの模様のように白線がある地帯という意味で、いわゆる歩行者が渡る白線のひいてある渡り道とは違うようですね。あまり見かけたことがありません。Googleでは直進車を規制する地帯という意味もあるようですが。「通りゃんせ」の音楽と旅券と査証が必要な旅をつなげた発想がユニークです。(千代:ゼブラ・ゾーンは、和製英語で、日本ではあちこちで見られますね。ゼブラゾーンでもいろいろあり、信号のところにあるものを、私は詠みました。田舎に行くと、よくあると思います。)
最終歌「通りゃんせ」ゼブラゾーンに流るれば何処へ行かむ晩秋の帰郷 

2015年8月1日土曜日

2015年7月 短歌と合評


担当;萩 洋子    

今月は北里さんの一首を取り上げました。いろいろな短歌がある中で、ほっと一息つけるような一首だからです。多くの人がめまぐるしく過ごしている中、その一首を読んで、いい歌だなあと思う時間が持てるだけでも少し得をした気分になれるかもしれません。テレビから流れてきた言葉『何か特別なことが起きるのが奇跡ではない、平凡な日常を過ごせていること事態が奇跡なのだ』本当にそう思います。この歌のように日常生活における些細なことやちょっと気になってることを気負わずに想像が広がるような一首に纏めたいものです。最終歌では2句目が「噂を聞きしも」となっています。講評にあるように「噂聞きしも」とすれば定型におさまりますが「を」を入れたのは“噂”を強調することを重視されたのでしょうね。

*閉店の噂を聞くもマスターはいつものように珈琲淹れる                                              
                                            
(萩)穏やかな時が流れている感じが伝わってきて、いいと思います。                                   (千代)二句目は「噂聞きしも」と過去にしないと結句の現在形が生きないですね。自然に出来上がった歌、きっとスムースに言葉になった歌だと思います。いいですね。                                        (中井)その後どうなったのでしょう。気になる店ですね。「噂を聞くも」で、一瞬マスターに直接「こんなうわさが有るけど・・」と真偽のほどを聞いたのかと思ってしまいました。ここは「噂のあるも」くらいが柔らかな感じが出ていいと思います。
(白樺:もう一味スパイスが欲しいところです。)                                                         (北里)講評をありがとうございました。そこの自家焙煎のコーヒーが美味しいので豆が手に入らなくなるのをファンは心配しています。年だからやめるやめると繰り返し言っているので、噂は今もあるので聞いたという過去形の話ではないのですが。まだ豆は買えています。中井さんの添削のように「噂のあるも」が実際かと思いますが「聞く」という動詞を入れたかったので。ここにスパイスを加えるような発想は出てきませんでした。
最終歌;閉店の噂を聞きしもマスターはいつものように珈琲淹れる 

2015年7月4日土曜日

6月の短歌と合評

担当 中井久游


今回のお題は「相聞歌」。「白樺ようこ」さんの歌を取り上げてみます。                                                                
 原歌  「サトウさん」声かけてくれし背の高き君との会話いつしらに待つ
 (中井)「いつしらに待つ」は“いつの間にか知らず知らずに”という意味でしょうが、短縮形としてもおかしい気がします。
「通勤の群れ歩みいていつしらに職なきわれはひとり遅れる 」「いつしらに夫は父の如くなり子の如くなり逝きてしまいぬ」という歌が検索で引っかかりましたが、正しい用法なのかどうか、ご存知の方教えてください

 (千代:たぶん、正しい用法ではないと思います。が、使われてしまっているようですね。使うのなら「いつしらで」というのが、正しい用法で、その根拠は調べればすぐわかりますが、「いつしらずて」(いつか知らないうちに)“ずて”は、“ないで”という否定形ですから、それが詰まって“で”になったものですから、“で”をぬかしては意味をなさないですね。「いつしらで」が正しい用法で、「いつしらに」は、間違いですね。)
  (萩)どきどき感がもう少し伝わってくるといいと思います。

 (北里)君の説明が長くて少しもたつきますね。声をかけてくれた後に会話があり、またのそんな会話の機会を待っているのですね。場の状況を会話に絞るなど整理されると分かりやすくなると思います。


 (千代)「声かけくれし」と“て”をとれば、7音になりますね。34句目がすこし説明的な感じがしますし、読んでいてもたつきます。例えば“「サトウさん」声かけくれしバリトンの君待ちゐる 耳鋭(と)くなりて“ 

 言葉は生き物ですから変化していくことは当然あるわけですが、誤用されたものがいつしか定着してしまったという事例がままあります。この言葉もすでに短歌で使われ始めているので、その内普通に使われるようになるのかも知れません。
 しかし、誤用はあくまでも誤用 なのですから、注意して間違った使い方をしないように気を付ける必要があると思います。口語の歌が主流になってきていて、若い人がどんどん歌を詠むようになれば言葉がどんどん崩れていく気がして心配です。


 
推敲後の歌 「サトウさん」背後から声かけくれし君との会話いつしらで待つ