2012年12月2日日曜日

2012年11月の短歌と合評

担当:宮下

今月の題詠は「感じる」でした。会員によりその使い方は様々で、「風を感じる」、「空気を感じる」、「母を背に感じる」、「体温を感じる」、「素手に感じる」、「いい感じ」、「高さを感じる」、そして「違和感を感じる」などがありました。 今回、私が注目した一首は、萩洋子さんの、 「月一の親睦会に違和感を感じ始めて半年が経つ」 です。 作者はアメリカ在住。でもこの親睦会とは、日本人同士の集まりではないだろうかと先ず推測してみました。続いて「違和感」とはどんなものだろうと考えた時、その具体的な内容は知らなくとも、すぐに伝わってくるものがありました。ここで、会員の合評の中には、その違和感の内容をもう少し補うような言葉がほしいというものもありました。私はあえて、その違和感の内容を具体化しないところに、この歌の味があると感じます。仮にその違和感がいかなるものかと説明を始めたところで、どんぴしゃりと言い切ることもできないのではないでしょうか。だからこそ、その違和感を覚え始めて半年が過ぎてもその親睦会に未だ参加しているのだとも思うのです。誰もが共感するこの違和感。この一首が読者の目に触れたとき、「一人歩きしてよい部分」がこの「違和感」なのだと思うのです。



(原歌)月一の親睦会に違和感を感じ始めて半年が経つ
 

(千代)うまく“感じる”を使っていると思います。

(もも) すごく分かる気がしました。違和感を感じ始めつつも半年が経つところに作者の葛藤が表れています。なにかのシガラミで抜けるに抜けられない会なのでしょう。私も来月だそうとしている歌に通じるところがあるので、妙に納得してしまいました。

(白樺)「違和感」が具体的表現で伝わると余韻がでます。

(北里) 何か違うなと思いつつ無理をして合わせている状況なのでしょう。そろそろ抜け時かと、または、どうやって抜けようかと思い悩まれているのかもしれませんね。「親睦会」の何に「違和感」を感じているのか、もうちょっと補う言葉があってもいいのかなと思いました。

(いずみ)この歌も今の私にはよく伝わってきます。選択・決断することの意味を改めて思います。1+1=2のようにはいかないですものね。現実にはどうにもしようのないことも多々あることも実感しています。)

(中井)どんな違和感なのでしょう。いろいろ考えさせられる、いい歌だと思います。


(最終歌〕月一の親睦会に違和感を感じ始めて半年が経つ

2012年11月1日木曜日

2012年10月の短歌と合評

担当:萩 

十月の円居短歌会合評」から白樺さんの一首を選びました。このような悲劇をどのように詠めばいいのか考えさせられた一首でした。地名を入れたらどうかという意見もありましたが白樺さんは〝世界各地にある悲惨な現実なので敢えて地名を入れなかった″と書いています。いずれにしても読者に実感が伝わるかということが大きなテーマなのではないかと思います。

(原歌)身売りせしをとめの片目のつぶされて水牛曳きて湿原をゆく

 
(萩) 地名を入れるとリアル感が増すと思います。
 
(千代) 記事と写真をみて詠った歌と思われます。やはりどこか地名が入ると、読者にはもっと現実味が湧くと思います。「・・・をとめの片目つぶされて」と“片目の”の「の」を省けば、定型の5音に納められます。

(北里) 現実のことであれば大層悲惨な状況ですが、何かの物語の一場面なのでしょうか。

(中井) 何の物語なんでしょう。私の知らないお話のようですが、「水牛曳きて湿原をゆく」のは誰なのでしょう。主語が隠されているのか、「をとめ」がそうしているのかどちらでしょう?もし,「をとめ」が牛を曳いているのでしたら、「身売りせしをとめは片目」とした方がいいと思います。 

(もも)これは、TVで観た場面でしょうか。悲しいですね。どこの国の画像なのでしょうか。

(いずみ) 物悲しい情景は浮かんできたのですが 読み取ることができずよく解りませんでした。

(きぬ) こういうおぞましい境遇を生き抜かねばならない子供達がいることを思うと、本当に可哀想でなりません。ショッキングな内容を淡々と詠われていて、また情景がはっきりとしてとても良いとおもいます。

(最終歌) 身売りせしをとめは片目つぶされて水牛曳きて湿原をゆく

(白樺)これは物語りではなく、"Half the Sky" というドキュメンタリー(by Nicholas Kristof & Sheryl WuDunn)を観た時に感じた歌です。 21 世紀の現代においても貧しさや不遇故に売春窟に売り飛ばされていく子供たちがいる現実を現地取材して記録したものです。 この歌の場面はカンボジアの例でしたが、世界中にこのような現実があることに対して ”Turning Oppression into Opportunity for Women Worldwide" というスローガンのもとで救いの手をさしのべようとする運動をおこしています。 地名を入れることを考えましたが、世界の各地にある悲惨な現実なので「湿原をゆく」として表してみました。 



2012年10月15日月曜日

作歌上の用語のこと


短歌雑誌、角川の「短歌9月号」の中に ”作歌上の用語のこと”として佐藤佐太郎の弟子でもあった秋葉四郎は「・・・・・・・・言葉の選択に何を基準にするかは、その人の歌論によります。例えば、私は「現代短歌写生」論という歌論を持っていますから、その中に明言しているように、用語についても、知的より感覚的、奇抜より率直、華美華麗より素朴真実、複雑より単間、軽より重、冗漫より抑制を重んじます。小鳥が「歌う」より「鳴く」を重んじ、蝶が「舞う」より「とぶ」を選びます。この逆の考えもありましょう。要するにしっかりとした歌論の裏付けによってきまることです。・・・・・・・」と言っています。私達の日ごろの歌作を省みるよりチャンスです。以上のことを参考にしながら、次の作歌に取り組んでみたいですね。 

2012年10月3日水曜日

2012年9月の短歌と合評

担当:中井

この歌は四句切れと解釈した方がいいのですね。「微かにはずむ吾は裏」として、自分の声が弾んでいると解釈したのでちょっと違和感があったのですが、千代さんの説明のように相手の弾んだ声に自分もちょっと合わせたような声を出した、ということならば納得できます。
 
宇津木千代

(原歌)ある人の変死伝ふる人の声微かにはずむ吾は裏声

(萩)人間の持つ怖い一面を見るようです。″吾は裏声″は、言葉も出ない状況だ。。。と解釈していいのでしょうか。 

(千代:“裏声”とは、技巧的な発声という意味がありますが、自分も興味津々でありながら、作った同情の声を発している、ということです。相手も相手なら、自分も自分である、という人間の一面を言いたかったのです。)

 
(中井)「はずむ」は「弾む」だと思うのですが、楽しいとき嬉しいときに用いる言葉と理解しています。それからすると、この歌の場合はミスマッチだと思いますが・・・。
(千代:これは有名なエピソードですが、盤珪という乞食をしていたお坊さんがいました。ある時盲目のお婆さんが、乞食である盤珪さんの声を聴いて、「この人は只者ではない」と言います。皆はただの乞食と、思っていましたので、びっくりして、なぜか問います。その盲目の老婆は、「大概の人は、人の不幸を語るときには、その裏で喜んでいる。人の幸せを語るときには、嫉妬や羨みが声色にでている。でも盤珪さんだけは、人の不幸を言う時には、本当に悲しい声を出し、人の幸せを言う時には、本当に嬉しそうに言う。」 ということでも “はずむ” という言葉を使った私の歌意は理解出来るのではないでしょうか。これは皮肉でもなんでもなく、もし、中井さんが理解できないのであったら、中井さんも盤珪さんのように、本当に心が純粋で、世の中の人間の暗い部分を持っていない人に思えます。

  
(北里)「ねぇ、お聞きになった?」人の死が話題だというのに、その声がはずんでいる。変死ということできっと興奮していたのでしょう。それに対応する自分の声も「まぁ、何てことでしょう。」と裏声でどこか空々しい。人間の性に対する示唆にとんでいます。大変おもしろい切り口で、「変死」が効いていると思います。

(白樺)ミステリーを読むようで少し趣向のかわったお歌ですね。

 
(もも)ある人が変死したとの知らせを聞いたときに自分の声が「はずんだ」のはどうしてでしょうか。 私も芸能人の変死をニュースで知った時、「えーーー?!」と興味本位で声を弾ませてしまったことがあります。

(きぬ)衝撃的なニュースに双方共声も上ずってしまったのですね。悲しいニュースは辛いですね。

(最終歌)ある人の変死伝ふる人の声微かにはずむ吾は裏声



2012年9月1日土曜日

2012年8月の短歌と合評

担当:宇津木

 「八月の円居短歌会合評」から深沢さんの一首を選びました。会員の皆さんからのいろいろな評を参考に、深沢さんが推敲して最終歌として提出した歌-合評の最後にブルーの字で書かれている歌―は、最初の提出歌と比べて、すっきりしたと思います。31文字しかないのですから、説明は必要ありませんし、主役は一事に絞るべきです。欲張らずに一点に集中し、素直に詠ったらすっきりとした歌が詠えるとと思います。

 深沢 しの

(原歌) 8月の日差し斑に零れつつ桃の葉の影地面に揺れる

(萩)桃の葉の影が地面で揺れていると表現したのはいいと思いますが、日差しが斑に揺れると桃の葉が地面で揺れるのどちらかに焦点を当てたらどうでしょうか。

(中井)地面に日差しが「こぼれ」、桃の葉の影が揺れているのですね。斑にこぼれているのは桃の葉の影とは違うのでしょうか。「8月の日差し斑に桃の葉の影をこぼして揺れているかも」ではどうでしょう。

(千代)日差しは“零れつつ”ですから、結句の主語も日差しですから、日差しが“ももの葉の影を地面に揺らす”となってしまいますね。 しかし桃の葉を揺らすのは風ですよね。上の句と下の句の主語が違うのでしたら、三句目で切らなくてはならないと思います。
(北里)「8」は漢数字の方がいいですね。日の光が斑に差してくる、というのはどういう状況なのでしょうか。桃の木の下に居て「日差し」が桃の葉に遮られて地面に「斑に零れ」てくる、というのであれば分かるのですが。

(もも) 8月の日差しがまだらにおちつつ、桃の葉の影が地面にゆれている、という意味でしょうか。

(白樺)八月と漢字のほうがよいと思います。

(きぬ)切り取りがとても良いとおもいます。キラキラとした映像が目に浮かんでくる一首です。

(いずみ)8月の日差しはもう涼しそうですね。仙台は立秋とは名ばかりでしばらくは暑い日が続きそうです。

 〔最終歌) 八月の日差し斑に零れくる暑さに耐える泰山木の下

2012年7月25日水曜日

西行

西行が明恵の夢の中で次のようなことを打ち明けたと、白洲正子は書いています。「この歌、即ち是れ、如来の真の形体なり されば一首詠み出でては、一体の仏像を造る思ひをなし 一句思ひ続けては 秘密の真言を唱ふるに同じ 吾 此の歌によりて 法を得ることあり」 ずっと以前、円居短歌会の歌集で書いたことがありますが、なぜ日本には”道”とつく、いわゆる習い事があるのか、私達は歌道の道を共に歩いているわけですが、欧米や他のアジアの国々のように宗教が生きる指針となっていないからではないか。その代わり”華道””茶道””書道”などと道の付いた多くのものがあり、その道を歩むことで、自分を律し、磨き生きる指針としているのではないか、というような内容だったと思うのですが、上記の西行の”作歌”の態度を読むと、まさしく仏道の具体的な表出が、歌そのものになっているように思えるのですが、如何思いますか?もちろん、今、短歌は10人居れば10通りの作歌観があるとは思いますが、小手先で作っている歌と、命を吹き込んで詠っている歌とは読者に与える感動は違ってくると思います。自分の歌を評価する時に、”この歌は百年後にも生き残るだろうか”という基準で見よと、よく師に言われましたが、それほどの歌は一生をかけても一首できればいいですね。