2011年6月8日水曜日

自分の表現


先日来、井後きぬさん(佐織さん)とのメールのやり取りで、きっと皆様にも役立つことがあるかもしれない、と思い、このブログに概要を書き込みます。

 五月のきぬさんの歌「 凧糸に風の力が張りつめて凧は舞い上ぐ大空高く」に対して、きぬさんは、萩さんの講評(萩)゛凧糸に風の力が張りつめてと勢いがあるのに、後半が常套句で一般的な歌になってしまって残念に思いました。きぬさんならではの思いが入るといいのではないでしょうか。
を参考に*凧糸は風の力が張りつめて凧の赤空に吸い込まれ行く と推敲しましたが、私が最終歌に対してまたコメントをしました。(千代:上記のように推敲すると、凧糸が主になるのですが、凧より凧糸を主に詠んだのですか? 少し理屈が先立つ歌になってしまった感じがします。風の力と言わなくても、風だけで十分だと思いますが。凧が赤い夕日の空に吸い込まれていく、その姿だけで詩的で素敵な一首を成しています。もし凧糸の張り詰めるのを詠いたいなら、また一首作らないと、主が二つ読み込まれてしまっています。)

この私のコメントに対しきぬさんから以下のメールをもらいました。

 きぬさんからのメール

実は、下の句を変えたのは、堀様からのご指摘で下の句がありふれた表現になっているということに私もなるほどなあ、と感じたのと、先生がブログの「敷島の道」の中に自分の心情を映し出すような自分自身の表現でないといけない、という内容のことを書かれていたのですが、これにガツン!と頭を打たれたような、改めて表現することをもっと大切にしていかなければ、と思わされました。それで今後は、できるだけ常套句は使わないで、もっと自分独自の表現をして行きたいと思ったのです。ギクシャクして不自然な表現になってしまっても、自分の心を映し出す表現をする練習が必要ですね。でも、この最終歌では言いたい事が上手く表現できていなかったようです。下の句「凧の赤空に吸い込まれ行く」の意味は、「凧の赤い色(実際はオレンジの凧だったのですが)が(点になって)空に吸い込まれて行く」という意味だったのですが、確かに意味が伝わり難い表現だったと思います。「凧糸」の部分は、自分で凧を揚げていたので、糸を通して手に伝わる風の力を感じたのがとても強く印象に残っていて、「糸に感じた風の力」と「舞い上がる凧」を一体として歌いたかったのですが、そうであれば、もっと言葉が整理されてよく詠み込まれていないと、主が二つあるように感じてしまう、という点は本当にそうだと思います。一点に絞るか、両方詠み込むことをもう少し努力してみるか、もう少し考えたいと思います。できれば後数日お時間を頂いて、もう一度推敲してみたいと思いますので、もう少しお待ち頂けますでしょうか。(千代:私はきぬさんの歌を読み間違えていたようですね。下の句凧の赤、空にだったのですね。私は、凧の赤空(あかぞら、夕焼けのそらと思っていました)に

山口からのメール
「自分の表現」をすることは、本当に大切なことだと思います が、自分だけが分かる表現であってはならない、ということも、いつ> も念頭に置いて おかなくてはならないと思います。理解しあえる根拠がどこかにある こと、つまり共 通理解が可能なものでなくてはならない、ということです。

きぬさんからのメール

 本当に、そうですね。「自分の言葉で」ということに力を入れる余り、独りよがりな表現になりがちな気がします。

昨日提出させて頂いた二首にも、自分でもそれを感じていて、もっと推敲が必要だなと思いながら、時間切れで提出させて頂きました。また皆様からの講評を頂いてから、推敲させて頂きたいと思います。それにしても、ありきたりな表現を使うと、容易に他人にも理解してもらえるし、作歌も楽にできるけれど、自分を自分の言葉で表現しようとすると、色々とバランスが難しいと感じます。しばらくはギクシャクした表現で、意味も伝わり難くなってしまうかも知れませんが、精一杯やってみたいと思います。いつかその内に、自分の表現が素直にスムーズにできる日がくれば良いなあ、と願っています。

 山口のコメント

 独自な表現でありながら、共通理解ができるものが根底にある表現、ということで、次の歌をあげてみたいと思います。5月号の雑誌「短歌」の中で<借り物のことば>を省こうというタイトルで、大松達知氏が、読者の歌黒豆の粒つやつやと(これは常套句であり、ありきたりの表現ですね)を、闇を秘めたるごとくと、添削例を出されています。独自の表現でありながら、一つひとつの言葉は、決して難しくなく、誰でも理解できる言葉の範疇ですね。こういうことを独自の表現でありながら、共通理解が可能な表現、というのだと思います。

少しでも参考になれば、と投稿しました。

3 件のコメント:

  1. 「自分の表現」で一首を完成させようといつも思っていますが、なかなか思い通りにいきません。
    特に円居短歌のような小さな会で、お互いの職業を知っていたり背景を知っていたりすると察してしまったり、独りよがりな表現をしてもある程度わかってもらえる、分かってしまうという危険が大いにあるような気がします。読者が読んだ時に"納得”とストンと心に入っていくような一首でありたいものです。
    選ぶ言葉ひとつで、あっと見違えるような一首に変身させることが可能な短歌、わずか31文字の詩形だからこそ伝えようとする気持ちを抑えて欲張らないように心がけようと思います。
    最近読んだ短歌で心に残っている一首を紹介します。杜沢光一郎さんの歌「短歌この小さき詩型に日々追われ追いつめられて一生(ひとよ)終るか」追い詰められてとまで言っている作者、何かを生み出すということは苦しさと二人三脚なのだと今更ながら感じています。

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  2. きぬさんの凧の歌は推敲を重ねることによってずっとよくなりましたね!やはりあきらめずに納得のいくまで推敲することは重要だとあらためて思いました。

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  3. chiyoko先生、
    この度はメールでご親切にご指導頂き、ありがとうございました。本当に勉強になりました。

    Hagiさんのコメントに、「伝えようとする気持ちを抑えて欲張らないように」と書かれていますが、本当にそうですね。自分が何かに感動して、感動の焦点はこれだ!と的を絞って歌にしようとした時、作歌の途中で、よく掘り下げて考えてみると、感動の焦点を表現するには、始めに考えていた点ではなく、少し違う別のところを詠わないといけないのだ、と気づくことがあります。目を澄まして余計なものをそぎ落として行くと、物事の輪郭が浮かび上がってくる感じがします。でも、それができる時もあるのですが、できないことの方が多いので、難しいなあと感じます。
    杜沢光一郎さんの歌、すごいですね。日々短歌作りに情熱をかけておられる人生なんですね。この歌を読ませて頂いて、以前から疑問に思っていて、作歌の姿勢や環境に関して皆様に質問させて頂きたいことを思い出しました。近々新しいトピックで質問させていただきます。

    yokoさん、
    温かいお言葉、ありがとうございます。今後も頑張ります!

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