2024年7月28日日曜日

Eメール短歌会 2024年7月 題詠「花火」

元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌

北里かおる

蜆たちくつろいでいるのんきなり料理するのをしばし躊躇う

(林)貝類でも命がありますもの一瞬戸惑いますね。くつろいでいるという表現が頷けます。
(千代)どういう蜆の姿を“くつろいでいるのんきなり”と、感じたのでしょうか?感情移入が多いように思いますが・・・私も時々アサリを獲ってきて、砂出しの為バケツに海水と共に浅利を一日つけて置くことがありますが、ガラージのコンクリートが、浅利の吐く海水でべとべとになっているのを見ましたが、その時には、浅利の生きたい必死の思いを感じたことがありました。
(北里)舌のような足をべろっと出して安心しきってくつろいでいるように思いました。水を取り換えても油断していたのか、とっさのことに対応できなかったのか、しばらく殻に足をはさめたままで、親近感を覚えました。
(白樺)蜆を擬人化してこれから生けにえになろうとしているのも知らないでのんきにしていると観ている作者。蜆の命を少しでも長らえようと躊躇しているところ優しいですね。
(深沢)初句の蜆を「くつろいでいる」「のんきなり」と擬人化させた表現がおもしろいです。これから蜆の身に起こる惨事を知り得ないと思うと、食材ではありますが気の毒であり、他の食材にもあり得ることなので結句の料理人の気持ちが理解できます。

蜆たち足をだらりん寛いでいる料理するのをしばし躊躇う
 

真紅とはまさにこのあか「宴」という名をつけられて大倫の薔薇

(林) 宴という名の真紅の薔薇があるのですね。情熱的な色ですね。
(千代)4句目“名をつけられて”ですが、“名をつけられた”か、“名を付けられし”ではないかしら?もしかして “名をつけられて”としたことに、何か意図があるのですか?
北里)狙いがあって品種改良されその成果に相応しい名前をつけてもらうんだなと薔薇のことを思ったら「つけられて」になりました。でも説明的な感じがしますし、講評の表現の方が自然だと思います。
(白樺)赤色を「あか」とかなにした理由はありますか。「まさにこのあか」と結論していますが、客観描写で真紅を描写できるとより視覚にうったえるお歌になると思います。
 

(北里)漢字で「赤」とするとまず一般的な赤色のイメージが来るかなと思って仮名にしましたが、読んだとき視覚的にしまらないですね。描写については「宴」という名前から想像してもらうのがよいかなと思います。
(深沢)花径が10僂曚匹砲覆訛舂悗礼薇なのですね。中心が白くなりつる性の赤色とあるので、真紅というよりも深紅色なのかなとも思いました。一度手にしてみたい薔薇の花です。(北里)大通りの薔薇は数も多く見ごたえがありますが、今年初お目見えの品種で話題になりました。

真紅とはまさにこの赤「宴」という名をつけられし大倫の薔薇
 

*妹と暗くなるのを待っていた打ち上げ花火手には綿あめ

林)綿あめ!機械にコインを入れて自分で作っていたのを思い出しました。
(千代)幼き日の打ち上げ花火の想い出が、目に浮かぶようです。
(白樺)夏の風物詩の綿あめ、花火、妹さんと暗くなるのを待っていた切り取りが郷愁を誘います。一案ですが結句の綿あめを初句にして「綿あめを手にして花火を待っていた・・」とすると綿あめが焦点になり下句で妹さんと暗くなるのを待っている背景へと続くと流れがでるようです。
(北里)ご提案の語順だと分かりやすくなりますが、普通になってしまうかなと思います。
(深沢)日本の夏を感じさせられる1首です。花火大会なので出店があるのですね。綿あめなど幼少の時にしか口にしていないので、懐かしさを感じさせてもらえる歌です。


*妹と暗くなるのを待っていた打ち上げ花火手には綿あめ

宇津木千代

う孫らの声遠のくをドア隔て独り聴きつつ時に出合ふも
 
(林) 時に出合ふも …どんな感じなのか詳しく知りたいです。
(白樺)「う孫」は孫や子孫の古形と辞書にありました。「幼なら」とすると孫だけですが、孫の両親や親類も含むように「う孫」としたのでしょうか。下句で皆が去った後の寂しさや孤独感が伝わります。
(千代)う孫は、孫の古形ですが、五音で調子を整えるために用いました。
(北里)「時に出合うも」のがよく分かりませんでした。この先も遊びに来てくれてまた会う機会はあるといっても、お孫さんの帰っていくその声をドア越しに聞いていて寂しく思う、という内容なのかと想像しました。
(深沢)孫との一時も成長も垣間見ることが出来さぞ楽しい時間とも思います。しかし、普段大人しかいない生活にふと戻った時の時間が必要な時もあるのですね。
 
*(千代)“時と出合うも”ということは、私が生まれて、生きて、結婚し、子供が出来て、子供が結婚し、孫が出来てという時の経過を、孫たちの存在によって“時”という抽象的な観念を、現実化された形で知らしめられているということです。
 

う孫らの声遠のくをドア隔て独り聴きつつ時に出合ふも
 
図書館の静寂の中くつろぎてラージ・プリントの本二冊借る
 
(林)私もラージ・プリントの本 見つけると嬉しくて思わず手に取ります。
(白樺)「ラージ・プリント」は最初、本の著者の名前と勘違いしましたが、字が通常よりも大きく印刷してある本なのですね。図書館の静かでゆったりとした空間は落ち着きます。横道ですが、最近本二冊を図書館で借りようとしていますが人気のある本のようで貸出中で大分待ち時間がかかっています。ラージ・プリントやデジタル版があればより早く貸出ができるようです。
(北里)昨今、ラージプリントブックはずい分と増えているようで、興味深い視点です。視力が衰えてくると細かい字の読書は疲れると思うので、読みたい本が大きな字だと嬉しいものだと思います。結句の数字の2が気持ちをよく表していると思います。
(千代)日本語でもラージ・プリントの本があるのですね?まだ、見たことがありませんが、今度日本へ帰るチャンスがありましたら、購入したいです。
(深沢)図書館の静寂というのは、昔から大好きです。静寂の中がくつろげるという気持ちが良く理解できます。出張先でも時間がある際にその地の図書館を訪ね、6月末もシカゴの図書館に息子と本を借りに行きました。自分もラージ・プリントの本を借りるようになるのだなと、時を感じる歌と出会った気持ちになりました。

 
図書館の静寂の中くつろぎてラージ・プリントの本二冊借る
 
*遠花火独立記念日に聴き入れば多摩の花火と同じ音する
 
(林)花火の音を比較できるのですね。素晴らしい耳をお持ちですね。
(白樺)多摩の花火は時間的にも昔のことで、空間的にも海の向こうと作者が現在住むアメリカ大陸で隔たりがあるので「遠花火」が時空を超えた想いを伝えています。
(北里)多摩川の花火大会は大規模のようですが、思い出の花火は遠花火だったのでしょうか。かすかに聞こえる花火の音に郷愁を誘われたのですね。
(深沢)一瞬俳句を感じさせる初句の使い方が新鮮です。現在と過去の思い出を上手く重ねた1首だと思います。花火の音も万国共通なのですね。
(千代)そうですね、英語でも日本語でもなく、音は万国共通で、独立記念日に上がるあちこちから聞こえてくる遠花火の音が、昔聴いた花火の音を想い出させました。幼いころのあの興奮した時、大家族で過ごした日々、亡き父母、祖父母の想い出も自然と浮かんできました。その状態を「多摩の花火と同じ音する」と表現しました。
 
*遠花火独立記念日に聴き入れば多摩の花火と同じ音する


林よしこ

*ジリジリと燃えて弾けて赤い球(たま)ポトリと消えた線香花火

(千代)4句目“ポトリと消えた”は、“ポトリと落ちた”か?落ちたは、消えたことにもなりますし。(林)初めは “ポトリと落ちた”だったのですが、実際私が見た“赤い球”はあくまでも消えて無くなったのでそのように致しました。人間の死を思うとき死後の世界はあくまでも人々の想像でしかなく 実際は目前から消えてしまう花火のようだと思いました。
(白樺)さりげない夏の夕の情景でオノマトペも効果的です。体言止めも構成的に落ち着いています。
(林)ありがとうございます。
(北里)線香花火の様子の説明で終わってしまっていると思います。何かちょっとした自分らしい一言が入ると良いのではないでしょうか。
(深沢)線香花火の辿り着く先がよく表されていると思います。ポトリと言う語彙から線香花火の軽くて小さい様子が伺えます。

ジリジリと燃えて弾けて赤い球(たま)ポトリと消えた線香花火

俊太郎「死は生からの解放」と残して飛んだアゲハ蝶

(千代)この歌から察すると、谷川俊太郎さんは、亡くなられたようですが、いつ亡くなられたのですか?(林)谷川俊太郎「死因」とGoogle致しましたら出てきましたのでお亡くなりになられたのだとショックでしたが まだご健在のようでした。(苦笑)
アゲハ蝶は、谷川さんの詩作か言動に関係していることですか?
(北里)哲学的?「残して」の主語は俊太郎かアゲハ蝶か。谷川俊太郎の言葉とアゲハ蝶の関係がよく分かりませんでした。
(白樺)谷川俊太郎が晩年に残した作品か言葉しょうか。宗教的な意味合いがあるようですね。結句の「アゲハ蝶」が毛虫から蝶に生まれ変わりそして空に飛び去り死んでいく過程を象徴しているようです。
(深沢)何か身辺に変化があったのでしょうか。とても気になる1首です。
(林)谷川俊太郎氏は学生の時に公演に来て朗読をして下さった事があり彼の鋭い空を切るような眼差しが印象的で心に残っています。まだ生きておられるようで嬉しいです。

俊太郎「死は生からの解放」と歌う戦士 吾の内にあれ

何処からか風に運ばれ落ちた種 根はり花咲きシンフォニー

(千代)歌というより散文的な表現と同時に、歌にとって一番大切な作者の立ち位置が見られないことと、頭の中で作られてしまった歌のような感じがします。(林)残念です。
(北里)「シンフォニー」は管弦楽のための大規模な楽曲、とありましたので、大草原の花畑をイメージしました。様々な花々が咲き乱れている情景でしょうか。
(林)初夏の何気ないアメリカの道端の景色ですが かなり色んな種類の色の花々が咲きほこり迫力があり車を運転しながら感動して詠みました。
(白樺)花の種も人間もどこに飛び散るか定着するか、生きていく過程での偶然さや不思議さ。シンフォニーのように楽器の音は異なるけれど全体として和を醸し出しているのでしょう。
(林)そうですね。風に吹かれて飛んできた種とはまさしく自分の事です。
(深沢)自然の偉大さが感じられます。どんな花が咲いたのか想像するのが楽しいです。
(林)ありがとうございます。田舎の道端の景色ですが 名もないような雑草が逞しく花を咲かせており誰も手入れをしていない様子が心地よく音楽のように調和がとれている様子を歌にしたいと思いました。(今の自分もこれらの雑草のように存在できれば嬉しいと思いました。)

何処からか風に運ばれ落ちた種 根はり花咲きシンフォニー

白樺ようこ

*樹々の鳥にしばしの我慢と言ふやうに遠慮がちなる遠音の花火

(林)きっと鳥たちや犬猫も大音響の花火には毎年閉口してるのでしょうね。
(千代)“遠慮がちなる遠音花火”と言う表現の感じはよく理解できますが、二句目、三句目は、感情の移入が強すぎるように思えます。
(北里)繊細な視点からの歌ですね。私などは遠くの花火の音を鳥たちがうるさくて我慢している、と思ったりしないのですが、鳥は夜の音に敏感で細なのかもしれませんし、鳥たちへの気遣いが歌になりましたね。
(深沢)人間が作り上げた人工の音に、自然界の動物たちは時には我慢しなければならないこともあるのですね。聴覚が優れている動物にとっては、どのような音でも遠音であった欲しいです。人間は我儘な動物なのですね。

*樹々の鳥にしばしの我慢と言って寝る枕辺に聞く遠音の花火

ブルーベリー濃い紫の実を摘みて口に含めば夏巡り来る

(林) ブルーベリーFarmに行かれたのですね。夏ならでは素敵な歌ですね。
白樺)Puyallup の近くにブルーベリーパークがあります。ある農家が市に寄付したそうで、誰でも好きなだけ無料で摘むことができます。
(千代)結句を“夏の味する”としたらいかがでしょうか。
(白樺)そのようにさせていただきます。直接的に“夏が来た”とは言わなくても、夏が来たのだということが読者に分かる表現になると思います。
(北里)ブルーベリーの採集をしたのですね。熟すと紺色から黒色になるとありました。紫黒色でしょう。色から見ると、ここではまだ熟する前なのでしょう。甘くなる前の酸っぱさに夏の到来を感じてりるのですね。
(深沢)ベリーの中でもブルーベリーは、夏を感じさせますね。ご自宅の庭で育てておられるのでしょうか。ブルーベリー農園などに摘みに行かれたのでしょうか。夏の暑さではなく爽快さを感じられる歌です。


ブルーベリー濃い紫の実を摘みて口に含めば夏の味する

選挙戦の状況画面で追つてゐる少しの希望を片隅におき

(林)アメリカの選挙戦ですね。外国人にも優しい国でいて欲しいと切に願います。
(千代)4句目と結句の表現が良いですね。
(北里)「状況を画面で」とするとすんなり意味が通ると思います。「片隅」とはどこの片隅でしょうか。「少しの希望」とは実際には希望があまりもてない状況ということでしょうか。
(白樺)大荒れに揺れている今回の米国の選挙戦を見ていて将来的に色々な面で少しの不安を抱くことがあります。
(深沢)どのような11月になるのか、自分の中に迷いも出てくる大統領選挙です。下の句が全部を物語っています。

選挙戦の状況を画面で追つてゐる少しの希望を片隅におき

深澤しの

片足の鳩に無情のゲリラ雨 恐れず我に寄って啄む

(千代)ふと4本ある鳩の足で一本に障害がある場合、片足と呼ぶのか?と、疑問に思いました。もしどなたか答えがある方は教えて下さい。私は“三本足の”と言うのかしら?と思いましたが・・・。4句目と結句を「餌を持つ我に怖れず寄って来る」では如何でしょうか?
(千代: 済みません、何を勘違いしたのか鳩が4本足と思い込んでの講評でした。失礼しました。)
(北里)読み手はゲリラ豪雨の中、どのように鳩と対自していたのでしょうか。片足の鳩もけなげですが、詠み手は大丈夫か心配な状況です。
(白樺)パラリンピックの選手の勇気に勝つとも劣らずに片足という不具合にもめげずに必死で生きようとする鳩の勇気に感服です。

片足の鳩に無情のゲリラ雨 餌を持つ我に恐れず寄って来る

ワープロの時世に我はエンピツと紙きれが武器ひたすらに書く

(千代)紙にエンピツで書く、ということは努力が必要ですね。
(北里)アナログ的な自分への肯定感が良いと思います。だたワープロはパソコンに取って代わられているので、今はAIの時代ではありますが、せめて「パソコンの時世」としては。
(白樺)機械に頼らずに自らの手で字を書くということは体操をして身体機能や脳機能を高めるのと同じような効果があるようですので頑張ってください。


パソコンの時世に我はエンピツと紙きれが武器ひたすらに書く

静やかなドローン花火のもあってよし されど花火の音も恋しい

(千代)“静やかな”とは、平安時代の言葉か、とも思うのですが、ドローン花火は近年のもので(実際のドローン花火ってあるのですか?)そのアンバランスを作者は狙ったのかしら?とも思います。4句目と結句は、「・・・・されど恋しい花火の音も」と、したら歌の流れがスムースにいくように思うのですが、如何でしょうか?
(北里)視点の新しさが良いですね。ドローン花火は環境への配慮からこれからは増えていくのかもしれませんが、たしかに何か物足りないですね。「のも」は「も」だけの方がすっきりしますね。
(白樺)ドローン花火というものは未だ見たことがないのですが大小のドローンがデザインされた軌跡を飛び交っているのでしょうか。あるいはドローンを使った花火の企画があるのですか。
(深澤)ドローンを使用した花火の企画です。

静やかなドローン花火のもあってよし されど恋し花火の音も

課題予告

8月「原爆」深澤
9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木
11月「暮/暮れる」北里
12月「餅」林


2024年7月2日火曜日

Eメール短歌会 2024年6月 題詠「結ぶ」


元歌:黒
コメント:赤
コメントへの応答:紫
講評を参考に推敲した最終歌
 
深澤しの

蘇るわが青春の1ページ 卵顔したモディリアー二の絵

 (林) 卵顔したモディリアー二の絵を見て何を思い出されたのか興味が湧きます。
(白樺)モディリアー二の絵が作者の青春にどんな影響を与えたのかヒントになる言葉があると良いと思います。
(千代)どういう場面なのでしょうか?デイトで一緒にモディリアーニの絵を観に行ったのか?あるいは卵顔した中のいい友達が居たとか?卵顔したモディリアー二の絵に関係あることが、作者の青春とダブるわけですね?
(北里)「1」は漢数字がよいですね。結句は「絵の人」「人物画」等となるところでしょうか。何かモディリアーニの人物にまつわるエピソードがありそうですね。青春の思い出につながるヒントが一つ欲しいところです。
 
蘇る青春の一ページ 卵顔したモディリアーニの絵
 
横着になりし木々のリスたちに 懲罰としてピカーンを与えず

 (林) いつもリスを観察されているのですね。微笑ましいです。
(白樺)リスの行動を横着と見ている作者。リスにもそれぞれ性格があるようで手で差し出したナッツを勇敢に手元まで取りにくるリスもいればナッツに興味がありながら人の手元まで取りに来ない臆病なリスもいます。
(千代)作者がいつもピカーンをあげているので、リスたちは自分達で餌を得ることをしなくなってしまったので、自分達で何とかしなさいと言うことですか?
(北里)野生のリスに餌をあげているのでしょうか。「懲罰」と言う言葉が厳しいですが、あえて可笑しみをねらって使ったのかなと思います。「横着」とはどういうことを言っているのか、「懲罰」に納得する具体がほしいです。
 
横着になりし木々のリスたちに懲罰としてビカーンを与えず
 
*貝の口をさらりと結ぶ君の手で ほどかれてゆく沖縄ミンサー

 (林) すみません、私の想像力が足りません。
(白樺)貝の口を結ぶとは帯を結ぶということですね。下句では沖縄ミンサー織の帯がほどかれていくということで、結ぶとほどくとで反対の動作になるのでは?
(千代)いろいろ考えると、とてもエロティックな場面にも思えてしまうのですが・・・“君”というからには、この“貝の口”結びをする人は男性ですよね?その同じ手で、沖縄の綿の細帯をゆっくりとほどいていく場面
(北里)知らない人にも「ミンサー」は帯のことだと分かるように、沖縄はなくても「ミンサー帯」とするのが良いのかなと。「君」は男性とすると、帯が「ほどかれていく」のは恋愛のつやっぽい場面なのかと想像しました。
 
貝の口をさらりと結ぶ君の手でほどかれてゆくミンサー帯
 
林よしこ

*息を吐き身体(からだ)を結ぶヨガをして鳥になったり月になったり

(白樺)ヨガのポーズを身体を結ぶと表現したところが面白いですね。鳥や月はどちらも空の中を飛んだり浮かんだりしていますのでヨガをして身や心を自由自在に空に遊ばせるということをよく表現していると思います。(林)ありがとうございます。
千代)ヨガをしている人なら“身体を結ぶ”ということが理解出来るのではないかと思いますが、ヨガをしない私には想像しか出来ませんが、ここで言う“身体をむずぶ”ということは、いろいろなポーズをとるということですか?(林)息を吐きながら体をひねったり曲げたりして色んなポーズをとります。
(北里)ヨガはyoga繋ぐ、結ぶ、という意味の言葉からきているとのことで、心と体を「結ぶ」ということでしたので、「心と身体を結ぶヨガ」という表現にすると良いのでは。呼吸が大切ということですから吸ったり吐いたりの両方ですかね。(林)そうですね。
(深沢)ヨガの意味は結ぶという意味もあるので、結ぶヨガとすると、語彙が重複していることになるのではないのでしょうか? (林)ご指摘をありがとうございます。
 
*息を吐き心身結び息を吸う鳥になったり月になったり
 
 鉢植えを持ち上げ見ればミミズ達 吾に邪魔された静かな夜宴

(白樺)ミミズの目線に立って静かな夜宴をじゃましてごめんなさいと思っている作者の気持ちが優しいですね。(林)ありがとうございます。
(千代)短歌は特別な場面以外は“吾”が主人公ですから、“吾”を省くほうが、字数を他に使えます。結句と4句目を入れ替えて、・・・・静かな夜宴邪魔をしたらし などと表現できます。(林)そのようにさせていただきました。
(北里)鉢の下にミミズがいたのですね。イトミミズとかでしょうか。ミミズにしたら人間は迷惑な存在と、ミミズの立場をおもんばかっている視点に面白みがあります。宴会のあとはどこかに散っていくのでしょうか。その後が気になりました。きっと湿った場所を探して移動したはずです。
(深沢)ミミズの領域を侵してしまったのですね。初句で鉢植えとあるので、土壌を良くするためにミミズを鉢植えの中に故意的に飼育しているのかと思いました。(林)ミミズは苦手です。苦笑

鉢植えを持ち上げ見ればミミズ達 静かな夜宴邪魔をしたらし
 
母の日に亡き母忍び描く絵は微笑む太陽 向日葵のごと

(白樺)亡くなられたお母様への想いを絵で表現されたのですね。「太陽が微笑んでいるようだ」ではなく「太陽の下で微笑んでいる向日葵のようだ」と表現したかったのかとも思いました。一案ですが「太陽の下で微笑む向日葵」(林)ありがとうございます。これは平塚らいてうの名言「原始、女性は実に太陽であった。」から引用しました。まさに母はそんな女性であったと思いこの歌を作りました。そして実際には笑う太陽が月を照らしているイラストを描きました。
(千代)特に、亡くなってみて、初めて母親の偉大さは感じられるものですね。きっとその思いを絵に描いていたら、微笑む太陽になったのでしょうか?結句は二重の説明になってしまっているように思えますね。“微笑む太陽”と母親を既に修飾しているのですから。この歌の意味からは“忍び”は、“偲び”という字が合っていますね。(林)ご指摘をありがとうございます。
(北里)祝う母親がいな人の母の日はさみしいものがあります。漢字は「偲び」ですね。結句に「ごと」とありますから「描く絵」は肖像画ということでしょう。「太陽や向日葵が微笑む」という比喩になっていますが、「微笑む母は太陽…のようだ」、という流れの方が自然に思います。
(深沢)お母様が向日葵のような存在であったことが感じられます。

母の日に亡き母偲び描く絵は微笑む太陽 月を照らす
 
宇津木千代

陸ワカメ支柱の先に蔓至り行き途(ど)なくして宙を揺れゐる

 (林) 陸ワカメは海藻でなく植物なんですね。栄養価が高く健康野菜だと知りました。
(白樺)ミクロ的な観察から下句の蔦の先が宙に揺れているという背景へ流れていく構成がよいと思いました。
(北里)一度育てたことがありますがとても成長がよくて勢いよく延びました。その様子がよく分かる歌です。先を摘む必要があるのかも。
(深沢)雲南百薬ですね。結句から蔓が行き場をなくしている様子がよく読み取れます。

陸ワカメ支柱の先に蔓至り行き途(ど)なくして宙を揺れゐる
 
むんむんとむせる若葉の森へ入り疲労は極み恋ふや枯葉の季
 
  (林)「むんむんむせる」面白い始まり方ですね。
(白樺)全ての命が躍動する春にもう枯葉の季節を想い望んでいる作者。命の躍動が落ち着き始めて次第に枯れてゆく輪廻の自然サイクルで作者は一歩先を歩んでいるのかもしれませんね。
(北里)「若葉」は爽やかなイメージですが、「むせる」とあり、春から暑いのですね。疲労は暑さからくるのもなのでしょうか。結句の「秋を恋ふ」、という展開は実感かのでしょう。「秋の森」は涼しくてどんなにか過ごしやすいのでしょうね。
(深沢)初句と2句が新鮮に感じます。語彙の使い方が巧みなので学びがありました。若葉と枯葉の呼応が良いと思います。
注:(千代)年齢が70代、80代になるとエネルギーが衰退し、煌々と照る電気など余りに明るいと疲れます。音も柔かな音、自然も春よりも秋がやわらかく身を包んでくれます。森を歩いていて感じたことを歌にしました。

むんむんとむせる若葉の森へ入り疲労の襲ひ恋ふる枯葉の季
 
*日本語を知らぬ幼らにせめてもと「むすんでひらいて]の動画を送る

  (林) 昔母が日本語の歌のCDを子供のために送ってくれたのを思い出しました。
(白樺)聴覚と視覚を使う言語学習はとても良い材料ですね。日本語を母国語とする作者が日本語を知らないお孫さんに少しでも日本語を知って欲しいという気持ちが伝わります。
(北里)「せめても」とあるので、子どもさんは日本語を話すことを期待されているのですね。曲名からは、なつかしさや親心のようなものを感じます。最近の幼児向けの言語教材の動画はとてもよくできていてバラエティーにとんでいて驚かされます。
(深沢)すんなり入る一首です。言語を直ぐに理解できなくても、手の動きで意味が通じるの歌なので楽しめる歌の1つですね。


*日本語を知らぬ幼らにせめてもと「むすんでひらいて]の動画を送る

白樺ようこ

ふるさとを訪れみれば飽食の文化に浸る若者闊歩す

 (林) Covid が落ち着いて美味しい物食べ歩きができて人々は少し浮ついているのか    もしれませんね。
(千代)結句“若者闊歩す”と、一般化して纏めてしまっている感じがします。もう少し、若者の具体の行為が挙げられると、歌がずっと読者に迫ると思います。
(北里)飽食は多くの場所で見られると思いますが、「ふるさと」「若者」と意図的に限定したのですね。具体的にいかにもと思わせるような若者が集まる場所を出すとよいのでは。
(深沢)4句目までは理解できるのですが、結句への繋がりが難しいように感じます。結句を弥いや若者などとしてはどうかなと思います。

ふるさとの飽食文化を闊歩する若者言葉はメッチャ美味しい

日本語の造語にあふれて宇宙語に聞こゆる時あり帰国をすれば

 (林) 私も久しぶりに帰国したら同じ事を思います。
(千代)造語を一つ挙げて詠むと、歌がずっとよくなると思います。それから“日本語の造語にあふれて”ですが、“日本語は造語にあふれて”か、“日本語の造語はあふれて”か、“日本語が造語にあふれて”か、ではないでしょうか?
(北里)日本に住んでいてもネット用語や若者言葉など、同様に感じることがあります。帰国され違和感を感じる「造語」とはどのような言葉のことでしょうか。日本に住む私の感じ方との違いは何かなと思いました。
(深沢)世相を感じる1首です。日本では言葉を短縮させることも多いですが、耳慣れない造語も増えてきているのは確かで、多言語に聞こえうることは多いと思います。それを宇宙言としたところに面白みが感じられます。


日本語はカタチを変えて宙に舞ふ トリセツ トリテツ カスハラ クマダシ
 
(注:取扱説明書、撮鉄、カスタマーハレスメント、熊出し)

*欄干に身を出し観てゐる三社祭いなせに結んだ鉢巻がゆく

 (林) おみこしが通り過ぎて行く景色が見えます。
(千代)結句の“鉢巻がゆく”と詠んだところがとてもいいですね。“鉢巻をした男たちがゆく”と、表現しがちなところを、上から三社祭を観ていて“鉢巻がゆく”と、表現したところが、具体であり、生きている表現であり、実際に三社祭を見下ろしている状況であることが、しっかりと表現されていて、実際に観ている作者ならでは表現できないものだと思います。
(北里)「いなせ」は髪型で正式には「鯔背銀杏」というようですね。粋な若者の姿が目に浮かびます。上から見ている感じもよく出ていて、結句の比喩が効いていると思います。
(深沢)学生の頃、三社祭りで神輿をかついでいたので、懐かしく詠ませて頂きました。身を乗り出しとした方が祭りの勢いを感じさせるのではと思いました。


*欄干に身を乗り出し観入る三社祭いなせに結んだ鉢巻がゆく
 
北里かおる

繰り言は「安足間(あんたろま)行きのバスに乗る」母の御霊は帰っただろか
 
 (林) 北海道出身のお母様だったのですね。だろうか、、、。ユニークな終わり方ですね。余韻が残る素敵な歌だと思います。
(白樺)安足間という珍しい地名に注目しました。地図でみましたらかなり内陸にはいった所ですね。
(千代)お母さまの故郷が安足間なのですか?お母さまは晩年に、きっと繰り返し故郷の安足間へ行きたいと言っていたのでしょうか?御霊は行きついて安堵して安らいでいるといいですね。
(北里)母の出身は中愛別で、旭川から安足間行きのバスに乗っていたようです。最後、施設に入ってもらいましたので、「一人でも」+歌に使った言葉そのままを口にしていました。帰りたかったのは自分が住んでいた旭川の家かと思えたのですが、本当は何処に帰りたかったものなのか。自分の親の眠る故郷だったのかなと。
(深沢)北海道のことですね。お母さまは生前、そのバスをよくご利用になられていたのですね。お母様の霊はきっと無事にお帰りになられたと思います。


繰り言は「安足間(あんたろま)行きのバスに乗る」母の御霊は帰っただろか
 
*贈られし句集は手製結び綴 癌寛解と後書にあり
 
 (林)お友達が癌治療をされてられ句集が送られてきたのですね。完治されていると嬉しいです。
(白樺)寛解は初めての語でしたのが、全快ということだと知りました。お友達のお手製の句集の温もりが伝わります。
(千代)“後書き”と、送り仮名が付くのが現代仮名遣いではないかしら?“あり”も、口語では終止形は“ある”。
(北里)広辞苑では「後書」となっていました。どちらもありと思います。実際には送り仮名はなかったです。私の見た中にはひらがなで「あとがき」としている方が多いようです。初句に「し」を使っているので「あり」とします。
(深沢)後書の語彙でその方の近況が伺え安堵されたことと思います。語彙の重みを感じられる1首です。手作りで時間をかけて作製された句集には、病との闘いへの思いが刻まれているのでしょうね。


*贈られし句集は手製結び綴じ癌寛解と後書にあり
 
木工は木目に逆らい削りゆく四年置いたというクルミの木
 
 (林) 木工をされているのですね。クルミの木は硬いですから体力がいりますね。(北里)私ではないです。ここでは木彫職人のことですが、紛らわしいので最終歌は「職人」とします。
(白樺)木工で木目に逆らって削るのと木目に沿って削るのでは表面にどういう違いが表れるのか興味をそそられました。
(千代)例えば、木目があって、下から削ったら“木目に逆らう”ということですか?私には、上からも下からも木目には逆らわないのでは?と思えてしまうのですが・・・
木目の横から削ったら“逆らう”も分かるのですが・・・。実際に見ているであろう作者の説明をお願いします。
(北里)「木目に逆らって切る」などと見ることのある表現です。厳密には木には表側と裏側がありますが、いずれにしても「巡目(繊維に倣うように進む向き)」と「逆目(繊維に食い込んでいくような向き)」があり、図にするとわかりやすいのですが、木目は弧を描きながら斜めに入っていますので、削りやすい方向とその反対は削りずらい方向があるのです。上とか下とかではないのです。普通は巡目で加工すると奇麗ですが、木彫職人のこだわりで、あえてササクレが起こりやすい性質に挑んで逆目を生かして作品を作ることがある、ということで、そこに注目した一首です。
(深沢)木の持つ特徴を生かしての削り方なのでしょうね。年月を寝かせたクルミの木から作られる作品の見るのが楽しみになる1首ですね。職人技が言葉で表現されていて良いと感じました。


職人は木目に逆らい削りゆく四年置いたというクルミの木


課題予告

7月「花火」林
8月「」深澤
9月「社会詠」白樺
10月「滑稽の歌」宇津木