「星座」7月号が届きました。その中で、主筆たる尾崎左永子氏と現代詩、短歌、俳句、オペラ、新作能など多彩な作歌活動をなさっている高橋睦郎氏との座談会がありますが、感銘を受けた言葉がありますので、紹介したいと思います。高橋氏は「・・・物や事に対して「ことば」があると言われますが、「ことば」は何かの代行だけではない。一度身心未分な中を通過しない「ことば」は、多分、人の心に伝わらないのではないかとつくづく思います」と言っています。また「日本人はいい加減にことばを使ってきたから、これだけ沢山の短歌や俳句ができたわけです」とも。尾崎氏は「映像短歌は残らない。記録としてのものなら映像の方が圧倒的に強いし、何かが足りないな(映像を見て詠った歌に対して)と感じます」と。そして今回の震災の歌に関して「・・・今、やたらに震災の歌があふれています。それも映像短歌が多いんです。震災にあった方があとから震災の歌を詠むことは当然としても、安全圏にる傍観者が「これが時事的な感動だ」と捉えて歌うのはやめて欲しいと思いますね」と。
上記の文で、「身心未分」という言葉ですが、分かりずらいと思いますので、私なりの解釈を試みます。ようするに、頭で考えた言葉ではなく、身心がまだ分かれていない、直感的なもの、触覚的なもの が感じ取ったものを言葉にする努力をして歌を詠んだ時には、その歌が読者の心を揺さぶる、ということだと思います。映像や絵をみて、単に言葉に置き換えて作った歌では、読者に感動をもたらすことは出来ないし、いい加減な言葉遣いとなってしまう、ということだと思います。
その他に心に残った言葉は、お二人の発言の中に、「我慢と蓄積が足りないで、直ぐに言い捨ててしまう」ということでした。ある感動、ある心の動き、かすかな未分のとらえたある感覚とか、あるいは目の前の出来事の中で、言葉にしたいものがあって、そのことを長い間貯めておいて、我慢をし、熟成するまで蓄積をしておく、ということだと思います。そしてある時、ああこういう表現がぴったりだ、と思えるものが出てくるはずです。ですから、何かに追われて作歌をするのではなく、普段からパソコンに入れたり、ノートに書いたりして、作っては訂正し、訂正しては作り、熟成したときに作品として提出することが一番いいと思います。今までの歌も時によりめくり返して、自分で添削しなおすことも大事だと思います。
「身心未分」とは、頭で考えた言葉ではなく身心がまだ分かれてない直感的なもの、触覚的なものが感じ取ったものであるという説明に納得しました。
返信削除多くの場合は”心身”と書きますが"身心”となっているのはどうしてかと最初に読んだ時に思いました。心や頭で感じる以前の動物的な直感や触覚的なものが感じ取ったものを言葉にする努力をしなくてはならないということですね。
以前に作った短歌で、その時にはいいと思う一首でも読み返してみるとそうではないということがよくあります。そう思う歌はやはり頭の中で作った歌のように思います。
尾崎左永子さんの『現代短歌入門』の中の一部分を抜粋してみます。
<短歌を作るのに、「型」にはめていくのは一つの技術である。それはむしろ「ことば」に対する鋭敏な感覚、「言語感覚」をみがくことでかなり解決していくことができる。ところが、それより前にもっと大切なことがある。それは「詩感覚」ともいうべきもので、その人が何を感じ、何に感動し、何を表現したいか、という、そのことである。いま現在生きている一人の人間が、心のどこかに、さざなみのようにかすかな揺れを感じたり、いま開いてゆく白い木蓮の花びらに、理由のない涙のようなものを感じたりする、ごく微妙な、ささやかな、情緒のふるえのようなもの、それをキャッチするアンテナがあるかないか。こうした感覚をキャッチするのは、一見難しそうにみえるが、多くの場合、誰にも訪れるのに気がつかないだけなのだ。むしろ、気付こうとしない人が多いのだ。いっぺんその感覚をつかむと、今度はそうした機会を自分から作り出していくようになる。自分を追い込んでいくことができるようになる。その「ひらめき」のようなもの、とらえ難い「光」のようなものは、人間としての「かなしみ」であったり、自然の姿の純粋さへの「おどろき」であったり、神と人との関係についての「つつましさ」であったり、ものと人との関わりについての「発見」であったりする。いわば人間が精神生活の中で何かに出会った「機」に対する自覚のようなものといってもいい。それがないと、短歌という「型」と「ことば」という表現の道具を持っていても、なかなかいい歌にならない。詩的凝縮のない短歌は、つい「型」に流されて、だらだらとしまらなくなる。>
この抜粋した部分も同じようなことを言っているのだと思います。