2011年7月16日土曜日

「異化」ということ。

先日雑誌「短歌」の7月号を受け取りました。今号の特集は「詩性を得るヒント」でしたが、その中で吉川宏志氏は”技術・方法論”を書いています。「限定・飛躍・異化」と3つの項目で書いていますが、”異化”(普段とは異なった言葉の使い方をすることで、日常の言葉の枠組みを揺さぶること)ということで取り上げられていた歌に、”なるほど”と、非常によく理解できる歌がありましたので、紹介したいと思います。岡部桂一郎氏の歌「人の来て鋏鳴せり秋空の石榴の枝は幹を失う」を取り上げています。普通私たちは、枝が落ちる、切り落とされる、枝を失う という見方をします。ところが、枝を主に考えれば、今まで安心してくっついていた幹を失ったことになりますね。すごい見方ですね。この表現によって、読者はまたさまざまな連想が浮かび上がってきます。両親を失った子供、会社をやめたサラリーマン、属していたグループを飛び出した歌人、アスリート、芸術家、さまざまなことが思われますね。独自な表現、自分の見方、視点を変える などなどよく言われますが、上記の歌を読むと、その意味がよく理解できないでしょうか。私は、眼が覚めたような思いにとらわれました。

2011年7月10日日曜日

「ことば」を磨く

「星座」7月号が届きました。その中で、主筆たる尾崎左永子氏と現代詩、短歌、俳句、オペラ、新作能など多彩な作歌活動をなさっている高橋睦郎氏との座談会がありますが、感銘を受けた言葉がありますので、紹介したいと思います。高橋氏は「・・・物や事に対して「ことば」があると言われますが、「ことば」は何かの代行だけではない。一度身心未分な中を通過しない「ことば」は、多分、人の心に伝わらないのではないかとつくづく思います」と言っています。また「日本人はいい加減にことばを使ってきたから、これだけ沢山の短歌や俳句ができたわけです」とも。尾崎氏は「映像短歌は残らない。記録としてのものなら映像の方が圧倒的に強いし、何かが足りないな(映像を見て詠った歌に対して)と感じます」と。そして今回の震災の歌に関して「・・・今、やたらに震災の歌があふれています。それも映像短歌が多いんです。震災にあった方があとから震災の歌を詠むことは当然としても、安全圏にる傍観者が「これが時事的な感動だ」と捉えて歌うのはやめて欲しいと思いますね」と。


上記の文で、「身心未分」という言葉ですが、分かりずらいと思いますので、私なりの解釈を試みます。ようするに、頭で考えた言葉ではなく、身心がまだ分かれていない、直感的なもの、触覚的なもの が感じ取ったものを言葉にする努力をして歌を詠んだ時には、その歌が読者の心を揺さぶる、ということだと思います。映像や絵をみて、単に言葉に置き換えて作った歌では、読者に感動をもたらすことは出来ないし、いい加減な言葉遣いとなってしまう、ということだと思います。

その他に心に残った言葉は、お二人の発言の中に、「我慢と蓄積が足りないで、直ぐに言い捨ててしまう」ということでした。ある感動、ある心の動き、かすかな未分のとらえたある感覚とか、あるいは目の前の出来事の中で、言葉にしたいものがあって、そのことを長い間貯めておいて、我慢をし、熟成するまで蓄積をしておく、ということだと思います。そしてある時、ああこういう表現がぴったりだ、と思えるものが出てくるはずです。ですから、何かに追われて作歌をするのではなく、普段からパソコンに入れたり、ノートに書いたりして、作っては訂正し、訂正しては作り、熟成したときに作品として提出することが一番いいと思います。今までの歌も時によりめくり返して、自分で添削しなおすことも大事だと思います。

2011年7月1日金曜日

百人一首

先日、日系シニアホームで隔週土曜日にボランティアを一緒にしている方からブリティッシュコロンビア大学の東アジアの文化を研究する学部で日本の古典文学を教えていらっしゃるモストウ教授にプリゼンテーションを見てもらう機会があるので一緒に行かないかとお誘いをうけたので、私も勉強の為にカナダのバンクーバーまで行って来ました。このボランティアというのは百人一首のゲームをすることなのですが、モストウ教授は日本の古美術、特に中世の絵画等にも造詣が深く、中世短歌や伊勢物語についての本も書かれています。驚いたのは江戸時代の百人一首の木札をを見せてもらったことでした。木札には筆で変体カナ、草体で歌が書かれていました。私には読めませんでしたがとても貴重なものを見せて頂いて江戸時代の人が百人一首のゲームをしている様が浮かんできてタイプスリップしたようでした。写真はバンクーバーの駅前の木の彫刻の前。行きと帰りは電車とバスのゆったり日帰り旅行でした。