2021年6月29日火曜日

 

2021年6月の短歌と合評

担当:北里                                                                                                             

元  歌:裏窓ゆどっと蛙声飛び入りぬ 幼の初夏(はつなつ)しばし吾を包む

最終歌:裏窓ゆどっと蛙声(あせい)飛び入りぬ 幼の初夏(はつなつ)吾()を包む

 

題詠は「包む」でした。何で何を「包む」のか、いろいろと発想を飛ばせる題詠ですが、「蛙声」と音に注目した点がおもしろいと思いました。詠み手を包んでいるのは蛙声であり、幼き日の初夏の思い出でもあるでしょう(「幼」は詠み手自身と解釈しました)。

私にも同様の経験があります。最初の勤務校が僻地で、教員住宅は田んぼにぐるりと囲まれていました。田植えが終わると夜には蛙が道路にまではい出てきて一斉に鳴くのです。何百匹か、まさに「どっと」です。前半の蛙の声が裏窓から飛び込んでくる、という場面設定、表現も巧いと思います。結句の字余りもゆったりとした回想する時間の流れが感じられます。

 

合 評

(深沢)モリアワガエルの声でしょうか。自然との関わりが多い歌に和まされます。

(白樺)外から蛙声が聞こえてきてお孫さんと初夏を過ごされる幸福感が伝わるお歌です。

(北里)匂いや音でふっと時が巻き戻されることがありますね。ここではカエルの声に幼き日々を思い起こしているのですね。「しばし」の時の流れが良いですね。格助詞「ゆ」が新鮮。万葉っぽい。

 

 

2021年6月4日金曜日

令和三年五月 円居短歌会合評

 担当:白樺

原歌:「冷蔵庫に残り物あり」とメモ残し吾にリマインド多用な日々は

最終歌:「冷蔵庫に残り物あり」とメモ残し吾にリマインド多用な日々は

今月は深沢しのさんのお歌をとりあげました。

英語圏の米国に長らく住んでいると日常とりかこまれている英語に慣れてしまいつい意識せずに短歌でもカタカナ英語を使ってしまいがちです。このお歌ではカタカナは“メモ”“リマインド”と二か所使われています。”メモ“は日本語の中で日常的に使われていて特に違和感はありません。”リマインド“は動詞として「思い出させる」の意味で使われています。言語は時代とともに変化してゆき、現代の日本語はカタカナ英語で溢れています。カタカナ英語の良し悪しではなく、良い日本語があるのに意識してカタカナにして流行に追いついたような錯覚に陥るのはどうかと思います。例えば、日本語の固有名詞に〝ザ”を付ける。お見合をマッチメーキング、引退をリタイア、水族館をアクアリウム、舞台をステージ、装飾品をアクセサリー、旅行をツアー、鳥観測をバードウォチング、遠隔作業をリモート、意見の一致をコンセンサス、我が家をマイホーム、自家用車をマイカー、個人番号をマイナンバー、傾向をトレンド、例をあげればきりがありません。逆に日本語が英語の中に浸透してそのまま日常的に使われている場合もあります。例えば、サケ、タタミ、ミリン、ジュードー、カラテ、ハシ、イケバナ、等々。カタカナ英語は名詞が殆どですが、動詞もカタカナにしている場合もあります。例えば、諦めるをギブアップする、店を開けるを店をオープンする、討論するをディスカッションする、等々。カタカナ、ひらがな、漢字と、われわれ短歌を創作する者はその時々に適した美しい言葉を探し、意識しながら言葉という道具を最大限に生かしていきたいと思います。

(千代) 確かに忙しい日々を過ごしていると、食べ忘れてしまうものもでてきますね。自分自身にメモを残すことの日常の一場面がよく捉えられていると思います。

(白樺)最後の語「日々は」は「日々」ではどうでしょうか。

(北里)生活感が出ていてよくわかる歌です。具体をしぼっているのが良いですね。私も何でもメモに書くようにしています。残念なことに、それでも忘れます。