2017年10月31日火曜日

10月の短歌と合評

担当:白樺ようこ

今月は深沢しのさんの歌をとりあげました。米国南部の亜熱帯の豪雨を経験したことのある私には情景がよく浮かぶお歌です。すさまじいハリケーンとは対照的に下の句では優しく小さな夕顔に焦点が移っていきそこだけ晩夏のほっとした空間をかもし出しています。講評を参考に推敲した最終歌では気にかかっていた「如き」「咲けり」の語を削ったので大分歌らしくなりました。自然現象を切り取ったお歌ですが、ハリケーンのすさまじさゆえに夕顔の楚々としたイメージが強く残ると同時に、嵐でも戦争であっても外界の移り変わりに関係なく、生命というものは時が来れば自然界の掟に従って生まれ、死んでそして再生していくという普遍性も暗示できるようです。

(原歌)ハリケーンの薄暮の如き晩夏四時夕顔ひとつほっかり咲けり

(千代)まだハリケーンは来ていないのですよね?もしすでにハリケーンが来ていたなら、ほっかりと夕顔は咲いて居られないでしょうし。「ハリケーン迫る薄暮の晩夏四時夕顔ひとつほっかりと咲く」としてみました。結句は過去形よりも現在形にしたほうが、臨場感があるように思います。                                                                       
(北里)夕顔の花の白は品がありますし、夕暮れの薄闇の中で咲いていたら、それはほんとに「ほっかり」で素敵だなと思いました。ただ「ハリケーンの薄暮の如き晩夏四時」という比喩がよくわかりません。「薄暮」は日没後の手元が何とか見える薄暗さですから、四時だとまだ日が暮れ切っていません。また「ハリケーンの薄暮」は誰もがイメージできる情景ではないように思います。
(白樺)下の句の表現がとてもよいと思います。ハリケーンにめげずに咲いている楚々として一見か弱そうな夕顔の力強さが感じられます。

(最終歌)ハリケーン迫る薄暮の晩夏四時夕顔ひとつほっかりと咲く

2017年10月10日火曜日

2017年9月の短歌と合評

担当:北里                                                                                                              


9月の題詠は「水」でしたが、ここに取り上げたい歌がありませんでしたので、今回は題詠にこだわらず、気になった歌を取り上げます。宇津木千代さんの歌です。


 原歌:親しみし飼育員達を噛み殺し、踏み潰す獣。その憤怒思ふ


私は最初、人間側の視点による表面的な鑑賞しかできませんでした。家族が飼い犬や猫に手や足を噛まれ、時には何針か縫うといったことがありましたので、いくらかわいがっていても牙をむくのが動物だという思いがあり、その延長線で読んでしまいました。しかし、今回ネットで見てみると、飼育員が動物に殺されるといった不幸な事件は世界中で実にたくさん起こっており、驚きました。宇津木さんのコメントにあるように、人間の都合や欲によって本来の生活を奪われた動物たちの怒りに、改めて気づかされました。まさに事件は動物の「憤怒」の結果なのでしょう。

また、人間が「獣」に「噛み殺される」、といった衝撃的な内容を詠う上で、あえて句読点を用いた表現方法は、特異な現実を心に刻みながら読み進むことができ、とても効果的だと思いました。歌の印象を際立たせ、注目に値すると思います。他にもどのようなケースで有効なのか、興味あるところです。
以下はネットからの引用です。

「衣食足りて礼節を知ると言いますが、生物の安穏はうっかりすると精神が緩んで目的を失い異常を来たすという事実です。動物の本能や習性はさまざまですが共通しているのは「子孫繁栄」であり、そのために食欲、性欲、母性等の本能が備わり、その本能を活性化させるためには日々の「興味」「刺激」「反応」「学習」「競争」「工夫」なども生体にとっては大切なことになってきます。従って檻で飼われる動物のように衣食住足りることは生物にとって反自然的で子孫繁栄に不適当、不健康でストレスをかかえる不幸な状態といえます。」

かつて動物園の猛獣館で虎やライオンが野生の本能を忘れたような姿で横たわっていたのを思い出しました。


<合評>

(白樺) 動物の立場にたって感情移入したところがとてもよいと思います。句読点は新しい試みですがどういう効果をねらったものでしょうか。

(北里)そのような事件があったのですね。「達」とあるので複数殺されたのでしょう。その獣に、いったい何が起こったのか、所詮畜生ということなのでしょうか。意図的に入れた句読点が奇異な出来事を詠った内容に合っていると思います。獣が何の動物だったのか言ってもいいのでは。(千代:調教師や飼育員を猛獣が噛み殺したり、踏んづけたり、世界中のあちこちで起こっている事件を考えました。日本でも世界でも起こっています。こういう事件が新聞に載るたびに、本来なら自然の中で悠々と生きていられたであろう彼らを捕獲し、狭い檻の中に入れ、それも人間の思うままに動かされていることへの憤怒が、どこか切れて一気に噴出した故であろうと思います。その動物の思いを感じた歌です。所詮畜生だから、というような意味では決してありません。)

(深沢)人間でもきれることがあるので、野生の象ならなおさら、感情が抑えきれないこともあるのではないでしょうか。短歌で句点をこのような形でつけても構わないのでしょうか。(千代:時々、現代ではとくに岡野弘彦氏の歌に句読点を見ます。また、別の歌人達にも散見することがあります。構わないとか構うというよりも、やはり効果を狙ったもので、作歌者の思いが籠められたものである限り、どの時代でも受け入れられています。ここに啄木の三行書きや句読点について触れた部分をコピぺします。「・・・・・句読点などの約物の多用と字下げによる表現が挙げられます。この特徴は主に第二歌集『悲しき玩具』に見られ、句読点の他に感嘆符、疑問符、ダッシュ、括弧類が散りばめられて、短歌であるにもかかわらず、まるで散文のような読み応えを感じます。字下げは『悲しき玩具』の後半百首程度から特に顕著になり、三行書きと相まって読む者に極めて特殊な印象を与えます。」


最終歌:親しみし調教師らを噛み殺し、踏み潰す獣。その憤怒思ふ