2014年4月 短歌と合評
担当;萩洋子
今月は宇津木さんの一首を取り上げました。使い方一つで散文的になったり詩的になったりと大きく変わってしまう助詞や助動詞の使い方をもっと注意しなくてはならないと改めて感じました。ただ文法的に知るだけではなく言葉の感覚のようなものを身につけること、内容を伝えるだけでなく言い回しに気をつけることに気をつけたいと思います。中世の歌論の中の「詞にて心を詠まむとすると、心のままに詞の匂ひゆくとは、変れるところあるにこそ」(為兼卿和歌抄)この藤原為兼の言葉は、散文と詩の違いを見事に指摘していると、安田章生は述べています。“心のままに詞の匂ひゆく”とは、言葉は伝達の手段として存在せず、心と言葉とは一体と化していて、言葉の生み出されると共にそれまでどこにも存在していなかった意味もまた生み出されていくということであろう“とも。
最終歌に使われている「しはぶきぬ」は、咳払いをするということですが、たいていの場合咳をする時は前屈みになるので原作で使われていた「前屈む」も匂わせていていいと思います。
皿洗ふ夫の姿は前屈む この人独り残しては逝けぬ
(萩)前かがみになってお皿を洗っている姿を見るとやりきれないような気持ちになるという作者の思いが伝わってくるような一首です。声に出して読むと「前屈む」が少し窮屈な感じがしましたので“前屈みに”と初句に持ってくるのも一案かと思います。強調するための“残しては逝けぬ”ですね。“この人独りを残して逝けぬ”と考えましたがニュアンスが違ってきますか。(千代:歌は、助詞一つ、助動詞の使い方一つで意味が違ってきます。特に31文字しかありませんので、助詞、助動詞を散文のようにだけ使わず、もっと活用し、強調や、驚き、悲しさなどの響きにも、工夫して使うことを学んでいくと面白いと思います。ここでの“は”は、仰るとおり、強調で使いました。萩さんの言うようにしますと、散文での正常文というところに落ち着いてしまうのではないでしょうか)
(北里)ご主人を気遣う思いがあふれていますね。皿を洗うときは誰でも少し前屈みになりますので、ご主人の老いをもっと強調するような表現にしてはどうかと思います。永田和宏さんの歌に、「ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど」というのがあり、逆の立場ですが、伴侶への思いは同じと思いました。 (千代:ここでは“皿洗う”ことが、今では男性の仕事として当たり前になっている時代ですが、私の夫の時代にはありませんでしたが、この頃手伝ってくれます。遠くから眺めていると、前屈みもそうですが、私が居なくなった時、独り“皿を洗う”その姿そのものが、哀れをもようします)
(白樺:気持ちがでていてとてもよいと思います。「一人」ではなく「独り」にすることにより死によって後に残された者の孤独さも表現できています。) (中井)少し憐みの混じった妻の心情でしょうか。「夫の姿は」と姿そのものを表しているのですから「前屈み」と名詞するべきでは?「前屈む」と動作を表すなら「姿」を使わずに「皿洗ふ夫は自ずと前屈む」というようにしてはどうかなと思いました。(千代:夫の姿を第三者的に眺めている表現です)
最終歌; 皿洗ふ夫は時折りしはぶきぬ この人独り残しては逝けぬ
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