2014年5月31日土曜日


 
担当:北里                                                                            原歌;そがいより射しくる月の()き光 暗きわぬちの秘照らし
(千代:結句の「な・・・そ」は、禁止を表します。「・・・・しないで」ということです。)                                           宇津木さんの歌を取り上げます。前回、自分が担当した折も、宇津木さんの歌を取り上げ、その時は、「歌作りにおいて、古い言葉の個性を生かすか、読み手の理解を優先するか、難しい選択だ」と書きました。そのときは「しみらに」という言葉の意味がわかりませんでしたが、おもしろい言葉を一つ学んだと思い楽しくなりました。この歌は「わぬち」がわかりませんでしたが、今回は語感から意味を推測することができました。上代語に触れると、知らない言葉なのになぜか親しみを覚えます。まだひらがながなく漢字をあてていた万葉の時代、「恋」は万葉仮名では「孤悲」と表現されていたとか。興味がわきます。自分では上代語を使って詠えませんが、上代語に触れるのは楽しいと思います。学びの機会でもあり、解説もためになりました。
<合評>                                                        
(萩)“暗きわぬち”は“わぬし”(二人称の人代名詞。対等以下の者に、 親愛の気持ちをこめて用いる。おぬし。おまえ。)ではありませんか?辞書には“わぬち”という言葉はありませんでした。「な…そ」は、今はそっとしてあげてくださいませんか、、と穏やかな禁止を表しているように感じました。(我裡(わぬち):自分の心の内側:と短歌ことばで読ませています。部屋裡(へやぬち)とかいろいろ読ませます。“杳い“を「とほい」と読ませたり、”顕つ“を「たつ”と読ませたりしていることに通じますね。ようするに、万葉集とか古今集とかの上代の読みが残っているわけです。万葉集などでは調子を整えるためか、例えば舟の楫(かじ)を五音にするためか“か”だけにして読ませたりしています。意味より言葉の調子を大切にしたのでしょうね。でも漢字ですから、意味は通じますね。我裡(わぬち)は、今でも時々見かける使い方です。“へやぬち”という表現を美智子皇后の歌の中で読んだ記憶があります。しばらし、古語を使った歌をつづけるかもしれません。古いといえば古いのですが、現代の中でも古語を生かして、現代の歌としてどれくらい詠え、通じるのか、試したいのです。分かりづらいところもあるかと思いますが、私の試みご容赦ください。これからは説明を加えます」  (萩;説明を読んでよくわかりました。そういえば以前に漢字で「我裡」を使った歌を読んだことがありました。最終歌のように漢字の方が分かりやすいです。ふだん使わない言葉や見慣れない言葉は忘れてしまうことが多いので、こういう場でできる限り身につけたいです。)                                                                 (中井)「そがい」は後ろを意味する言葉でしょうか。それでしたら「そがひ」が正しいのでは?(千代: ご指摘の通りですね。また間違えました。)「窓外」のことではないですよね。「わぬち」は「吾の内」でしょうか。古語でしか詠えない歌だという気にさせ、和歌の醍醐味を味わえる歌ですね。                                                            (北里)  隠しておきたい秘密(具体的には分かりませんが)を月の光で露わにしないでほしいという内容を、上代語を使って美しく詠っていると思います。ときに、月の明るさは驚くばかりです。「そがい」は聞きなれない言葉ですが、「背向」と漢字にすると意味が伝わりやすいように思います。「そがい」と読まれない懸念があれば、送り仮名をふるのはどうでしょうか。「わぬち」はやはり古典の言い回しかと思いますが、「我内」なのか「我地」なのか、または他の漢字になりますか。  (千代:萩さんへの注釈をご覧ください)                                                                                                    (白樺:古風な万葉調のひびきのお歌ですね。暗い心の秘密とは・・想像が膨らみます。) 
最終歌;背向(そがひ)より射しくる月の()き光 暗き我裡(わぬち)の秘な照らしそよ  
 
 
                                 

2014年5月1日木曜日



2014年4月 短歌と合評
担当;萩洋子

今月は宇津木さんの一首を取り上げました。使い方一つで散文的になったり詩的になったりと大きく変わってしまう助詞や助動詞の使い方をもっと注意しなくてはならないと改めて感じました。ただ文法的に知るだけではなく言葉の感覚のようなものを身につけること、内容を伝えるだけでなく言い回しに気をつけることに気をつけたいと思います。中世の歌論の中の「詞にて心を詠まむとすると、心のままに詞の匂ひゆくとは、変れるところあるにこそ」(為兼卿和歌抄)この藤原為兼の言葉は、散文と詩の違いを見事に指摘していると、安田章生は述べています。“心のままに詞の匂ひゆく”とは、言葉は伝達の手段として存在せず、心と言葉とは一体と化していて、言葉の生み出されると共にそれまでどこにも存在していなかった意味もまた生み出されていくということであろう“とも。
最終歌に使われている「しはぶきぬ」は、咳払いをするということですが、たいていの場合咳をする時は前屈みになるので原作で使われていた「前屈む」も匂わせていていいと思います。

皿洗ふ夫の姿は前屈む この人独り残しては逝けぬ                                                    
(萩)前かがみになってお皿を洗っている姿を見るとやりきれないような気持ちになるという作者の思いが伝わってくるような一首です。声に出して読むと「前屈む」が少し窮屈な感じがしましたので“前屈みに”と初句に持ってくるのも一案かと思います。強調するための“残しては逝けぬ”ですね。“この人独りを残して逝けぬ”と考えましたがニュアンスが違ってきますか。(千代:歌は、助詞一つ、助動詞の使い方一つで意味が違ってきます。特に31文字しかありませんので、助詞、助動詞を散文のようにだけ使わず、もっと活用し、強調や、驚き、悲しさなどの響きにも、工夫して使うことを学んでいくと面白いと思います。ここでの“は”は、仰るとおり、強調で使いました。萩さんの言うようにしますと、散文での正常文というところに落ち着いてしまうのではないでしょうか)                                                                                                                                        (北里)ご主人を気遣う思いがあふれていますね。皿を洗うときは誰でも少し前屈みになりますので、ご主人の老いをもっと強調するような表現にしてはどうかと思います。永田和宏さんの歌に、「ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど」というのがあり、逆の立場ですが、伴侶への思いは同じと思いました。 (千代:ここでは“皿洗う”ことが、今では男性の仕事として当たり前になっている時代ですが、私の夫の時代にはありませんでしたが、この頃手伝ってくれます。遠くから眺めていると、前屈みもそうですが、私が居なくなった時、独り“皿を洗う”その姿そのものが、哀れをもようします)                                                                                                                                                                                                                                           (白樺:気持ちがでていてとてもよいと思います。「一人」ではなく「独り」にすることにより死によって後に残された者の孤独さも表現できています。)                                                (中井)少し憐みの混じった妻の心情でしょうか。「夫の姿は」と姿そのものを表しているのですから「前屈み」と名詞するべきでは?「前屈む」と動作を表すなら「姿」を使わずに「皿洗ふ夫は自ずと前屈む」というようにしてはどうかなと思いました。(千代:夫の姿を第三者的に眺めている表現です)

最終歌; 皿洗ふ夫は時折りしはぶきぬ この人独り残しては逝けぬ