2013年1月29日火曜日

2013年1月短歌と合評


担当      白樺

一月の短歌と合評は北里さんの以下の歌をとりあげました。

例年になく大雪の積もった暮れに除雪に追われながらおせち料理の準備をしているという記録性の強いものですが、日常性や記録性にひかれてやや散文的になったようです。感動の焦点をどこにするかということが重要であることを考えると私たち短歌を創作する者にとって陥りやすいところではないでしょうか。私が座右の書にしている太田青丘の「短歌開眼」の1節にある「歌人は何よりも脈搏部を把握するする鋭い眼を養ふとともに、冗漫を惜し気なく切り捨てる表現のきびしさを身につけたいものです。短歌が日常的記録性に安住するか、芸術として大成するかの分岐点は、案外卑近な所に横たはりつつ、しかも千里の差を来たすものではありますまいか。」ということを改めて考えてみました。
北里
(原歌)   例年の四倍の雪降り積もる除雪の合間におせちの準備す  
                                        
萩)この冬の北海道は雪が多いようですね。除雪の大変さはよく分かります。前半が少し説明的だと思います。実際にそうだったとしても今見ていることだけが事実ではなく以前に見たことや感じたこともまた事実なので時間を越えて歌の中に盛り込んでもいいと思います。“一晩に一メートルも降り積る。。。。”と考えました。                                                 
(千代)“例年の四倍の雪降り”は、散文的でもあり、説明的でもあると思います。ここで言いたいことと、それほど関係ないと思いますので、“大雪の大晦日には積もりゆく雪を掃きつつおせち調う”では、いかがでしょうか?           
                                                   
(いずみ)四倍の雪の除雪は想像がつかないくらい大変なことでしょうね。寒さ厳しい真冬の情景の中に新しい年を迎える準備をしている姿が浮かんでいます。)                                    
(中井)随分な大雪が降ったのですね。二つの事が歌われていますが、関連性があまり感じられません。どちらかに焦点を当てたいですが「大雪の降りて除雪に追われしの合間におせち料理を仕込む」と関連付けてみました。 

                            
(白樺:「例年の四倍」が新聞報告のようですので推敲の余地ありと思います。「おせちの準備す」を、例えば「黒豆を煮る」「おなますを刻む」などのおせち料理の代表的なものを煮たり、刻んだりする動作にすると情景がより鮮やかにうかんでくるようです。)                          
(もも)ものすごい積雪だったのですね。東京でも先週15センチの雪が降ったと聞き、驚きましたが、北海道の雪は比じゃないのでしょうね。忙しい年末の感じがよくでてきて、いいなと思いました。  
                                                                                 
(きぬ)私は雪国で暮らすのはまだ4年目ですが、毎年寒さも降雪量もかなり違うものですね。こちらは去年は暖冬だったのが、今年は例年のウィスコンシンの冬に戻ってしまって、今日は真昼でもマイナス20℃、温暖な地域で育った私にはとても耐え難い寒さです。でも反面、今年は降雪量がグンと少なくて、その面では随分楽です。除雪作業は本当に大変ですね。ただでさえ慌しい歳末が、雪のためにますます忙しくなっている様子がよく伝わっています。

(最終歌)大みそか除雪に追われる合間縫い膾を刻み黒豆を煮る
 
 
(北里)いろいろと参考になる講評をありがとうございました。みなさまの講評、なるほどと思い、あれこれドッキングさせて最終歌としました。後半は白樺さんの案を両方頂きました。
 

2013年1月9日水曜日

2012年12月短歌と合評

担当:北里

12月の詠題は「積もる」でした。原発の問題は深刻で歌にするのはつらく難しいと感じていますが、社会詠としてこういった歌も積極的に詠っていかなくてはいけないという思いがあり、中井さんの一首を選びました。現在もなお多くの方々が震災や原発の問題で苦しんでおられる現状の中、つい先日も原発周辺の除染作業で生じた土壌や落ち葉を川に流すなど、一部業者の手抜きが問題になり、憤りを感じました。
 中井さんの最終歌は、読み仮名を省いたことでとてもすっきりしました。「瘡蓋」は傷が治るに従ってできるものではありますが、この歌の場合、瘡蓋のもつイメージを「時の間の瘡蓋」として表現したことで、上手く言い得ていると思います。

 中井久游
 
(原歌)野積みさる除染の土のあてどなく時間(とき)の間(はざま)に瘡蓋(かさぶた)となる

(萩)こちらも読み仮名は必要ないと思います。“瘡蓋”は治るに従ってその上に生じる皮で、目に見えての改善が期待されるような言葉だと思いますが、除染の土は現状では二進も三進もいかない状態なので“どうにもならない、未来が見えない”というニュアンスの言葉の方がいいかと思いました。誰もが持っている早く解決してほしいという願望を前面に出すために“瘡蓋”としたのかもしれませんが。

(千代)“野積みさる”の“さる”は、“される”の古語として使ったのですか?この受身などの場合は、古語も口語も同じなのでは?“時間”と書いて“とき”と読ませるより“時”でいいのでは。特に“時”の“間”は、時間なのですから。“間”も苗字なら“間(はざま)組”などありますが、“間”は、“あはい”か“ま”と読みますから、“時の間に”で十分だと思います。もし“はざま”を使いたいのなら“狭間”でいいのでは?中井)「さる」は、常用漢字表にない音訓として「為る」として「動ラ下二」で「される」と同じ「する」の受身形として辞書にありました。時間(とき)の間(はざま)は、おっしゃる通り“時の間に”で十分ですね。

(北里)本当にこの問題はどう処理されるのでしょうか。米軍基地のことも同様に、みんな自分の所だけは安全であって欲しい、人間心理として分かりますが、今の日本、痛み分けがなさすぎるように思います。「時の間の瘡蓋」となって欲しくないです。良い切り口だと思います。

(もも) これは、放射能で汚染された土のことを詠んでいるのですね?

(白樺:現在の大問題をうまく社会詠にしたお歌でよいと思います。除染されたといっても放射能は気が遠くなるほどの時間が経たないとなくならないと聞きます。汚染土はただ一箇所から別の一箇所へと移動されただけなのです。その点を「時の間に瘡蓋となる」という表現でうまく捉えられていると思います。)

(いずみ:心痛みます。まだまだこれから…長い時間をかけて少しずつ…再生…瘡蓋はいつになったら元のようになるのでしょうね。人間の皮膚のように…。)

(きぬ)瘡蓋とは上手い表現ですね。「時間の間」の部分がピンと来ませんでした。どういう意味を詠われているのでしょうか。

(最終歌)野積みさる除染の土のあてどなく時の間に瘡蓋となる

 追伸:先日、「生き抜く 南三陸町人々の一年」というドキュメンタリー映画」を見ました。東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町を、大阪毎日放送が、地震発生の28時間後から1年にわたって撮影し続けたもので、深く胸に迫るものがありました。機会があればぜひ一度見てください。