2011年6月13日月曜日

萩さん、Yokoさんのコメントについて

 萩さんの「自分の表現」という私の投稿に対するコメント読みました。その中で「何かを生み出すということは苦しさと二人三脚なのだと今更ながら感じています。」 と書いておりますが、まさしくその通りだと思います。推敲を重ね続けていると、一首がぐちゃぐちゃになったりして、もう身体全体に熱が出てきたりしますが、歌がすっきりした表現に出来上がったときには、何物にも代えがたい深い喜びが湧いてくるのも事実です。瞬間的なものであっても、それは真に生きる喜びにつながる感情ではないかと思います。ですから何か打ち込めるもの、私たちにとっては「短歌」という表現形式をおろそかにしたくないと思います。折角出会ったものですから、異国に住んでいる、というハンデを乗り越えて、少人数であっても、教えあい、学びあって、みんなで単なる趣味でないところへ、日々努力してたどり着きたい、と願っています。



白樺さんは「きぬさん」の推敲過程を通し、実際によくなっていく短歌に触れて、「諦めない」ことの大切さをコメントしていましたが、本当に諦めず日々努力することの大切さを、私は今、身をもって学んでいます。「私は才能がないから・・・」などということは、自分の努力を諦めた人の台詞であると思うのです。書道にしても短歌にしても、自分より優れた人たちがごまんといることに気づかされたのは、はじめてしばらくたってからです。実際に自分が書道会に入り、毎月の選書に自分の書を提出して、昇級、今は昇段にチャレンジし、如何に自分の字の基礎がなっていないかを気付かされました。そこで毎日毎日、漢字は「王義之の蘭亭の序」、仮名は、「高野切れ」を、臨書し始めました。しかし、来る日も来る日もたまらないほど下手な字しか書けず、絶望に近い思いをしつつ、それでも書き続けていました。半年ほど続けたある時、昇段試験に提出した漢字と仮名、一字の創作の三点を、めったに褒めてくれない先生が、「正に入魂の作。漢字も仮名も同様です。本当に嬉しく拝見しました。」というお手紙を下さったのです。最初は狐につままれたような感じでした。私には少しも上手くなったとう気持ちがありませんでしたから。ただ、書いて書いて、もうこれ以上は何枚書いても同じですから、提出します、ということで提出したものでした。しばらくたって、初めて「才能などなくても、ぎりぎりのところまで努力すれば、必ずあるところまでは到達するのだ」という確信を得た体験でした。これはけっして自慢で言っているわけではなく、皆さんにも、自分を信じてぎりぎりまで努力すれば、必ず伸びる、ということをお伝えしたかったのです。これは短歌にも言えることで、今、私は万葉集を書き写しています。4500首の歌を学びつつ写して、いったいどれくらいの月日がかかるか分かりません。でもやり遂げる、というのが、私の決断です。長歌も短歌も、詞書もありますし、分からない古語はいっぱいですから、一日数首から、短歌だけなら5首から10首がせいぜいです。どうしても時間のとれないこともあります。でも、前を向いて、自分の出来る限りの努力をしてみたい、と思っています。すべて自分のためにしていることですが、少なくとも円居短歌会での仲間がいる、ということは心強いことです。もし、皆さんもチャンスがありましたら、好きな作歌の歌集を一冊丸写ししてみることをお勧めします。一冊写し終える頃には、きっと歌がずっと進歩しているはずです。

2011年6月8日水曜日

自分の表現


先日来、井後きぬさん(佐織さん)とのメールのやり取りで、きっと皆様にも役立つことがあるかもしれない、と思い、このブログに概要を書き込みます。

 五月のきぬさんの歌「 凧糸に風の力が張りつめて凧は舞い上ぐ大空高く」に対して、きぬさんは、萩さんの講評(萩)゛凧糸に風の力が張りつめてと勢いがあるのに、後半が常套句で一般的な歌になってしまって残念に思いました。きぬさんならではの思いが入るといいのではないでしょうか。
を参考に*凧糸は風の力が張りつめて凧の赤空に吸い込まれ行く と推敲しましたが、私が最終歌に対してまたコメントをしました。(千代:上記のように推敲すると、凧糸が主になるのですが、凧より凧糸を主に詠んだのですか? 少し理屈が先立つ歌になってしまった感じがします。風の力と言わなくても、風だけで十分だと思いますが。凧が赤い夕日の空に吸い込まれていく、その姿だけで詩的で素敵な一首を成しています。もし凧糸の張り詰めるのを詠いたいなら、また一首作らないと、主が二つ読み込まれてしまっています。)

この私のコメントに対しきぬさんから以下のメールをもらいました。

 きぬさんからのメール

実は、下の句を変えたのは、堀様からのご指摘で下の句がありふれた表現になっているということに私もなるほどなあ、と感じたのと、先生がブログの「敷島の道」の中に自分の心情を映し出すような自分自身の表現でないといけない、という内容のことを書かれていたのですが、これにガツン!と頭を打たれたような、改めて表現することをもっと大切にしていかなければ、と思わされました。それで今後は、できるだけ常套句は使わないで、もっと自分独自の表現をして行きたいと思ったのです。ギクシャクして不自然な表現になってしまっても、自分の心を映し出す表現をする練習が必要ですね。でも、この最終歌では言いたい事が上手く表現できていなかったようです。下の句「凧の赤空に吸い込まれ行く」の意味は、「凧の赤い色(実際はオレンジの凧だったのですが)が(点になって)空に吸い込まれて行く」という意味だったのですが、確かに意味が伝わり難い表現だったと思います。「凧糸」の部分は、自分で凧を揚げていたので、糸を通して手に伝わる風の力を感じたのがとても強く印象に残っていて、「糸に感じた風の力」と「舞い上がる凧」を一体として歌いたかったのですが、そうであれば、もっと言葉が整理されてよく詠み込まれていないと、主が二つあるように感じてしまう、という点は本当にそうだと思います。一点に絞るか、両方詠み込むことをもう少し努力してみるか、もう少し考えたいと思います。できれば後数日お時間を頂いて、もう一度推敲してみたいと思いますので、もう少しお待ち頂けますでしょうか。(千代:私はきぬさんの歌を読み間違えていたようですね。下の句凧の赤、空にだったのですね。私は、凧の赤空(あかぞら、夕焼けのそらと思っていました)に

山口からのメール
「自分の表現」をすることは、本当に大切なことだと思います が、自分だけが分かる表現であってはならない、ということも、いつ> も念頭に置いて おかなくてはならないと思います。理解しあえる根拠がどこかにある こと、つまり共 通理解が可能なものでなくてはならない、ということです。

きぬさんからのメール

 本当に、そうですね。「自分の言葉で」ということに力を入れる余り、独りよがりな表現になりがちな気がします。

昨日提出させて頂いた二首にも、自分でもそれを感じていて、もっと推敲が必要だなと思いながら、時間切れで提出させて頂きました。また皆様からの講評を頂いてから、推敲させて頂きたいと思います。それにしても、ありきたりな表現を使うと、容易に他人にも理解してもらえるし、作歌も楽にできるけれど、自分を自分の言葉で表現しようとすると、色々とバランスが難しいと感じます。しばらくはギクシャクした表現で、意味も伝わり難くなってしまうかも知れませんが、精一杯やってみたいと思います。いつかその内に、自分の表現が素直にスムーズにできる日がくれば良いなあ、と願っています。

 山口のコメント

 独自な表現でありながら、共通理解ができるものが根底にある表現、ということで、次の歌をあげてみたいと思います。5月号の雑誌「短歌」の中で<借り物のことば>を省こうというタイトルで、大松達知氏が、読者の歌黒豆の粒つやつやと(これは常套句であり、ありきたりの表現ですね)を、闇を秘めたるごとくと、添削例を出されています。独自の表現でありながら、一つひとつの言葉は、決して難しくなく、誰でも理解できる言葉の範疇ですね。こういうことを独自の表現でありながら、共通理解が可能な表現、というのだと思います。

少しでも参考になれば、と投稿しました。