何十年も前の私の高校時代には、国語とは別に古文と漢文の授業がありました。何年も後に私が米国に来ることになった時にどういうわけか高校時代に使った古典文法と漢文の教科書も一緒に持ってきました。本屋さんに行けばいくらでももっと新しい本が手に入るのにわざわざ高校時代に使った教科書をもってきたのです。今ではもってきてよかったと思います。一つには青春の懐かしい思い出にもなるし、なによりも内容が易しく書かれているからです。説明に使われている例文も徒然草、枕草紙、古今集、更級日記、平家物語、方丈記、土佐日記,万葉集等の有名な古典から引用されていて古典への興味をそそられます。今短歌を作る時に重宝をしています。
国語と別に古文/漢文の授業が個別にあったのですか。羨ましい限りです。私の学生時代には、古文と漢文は、国語の授業の一部で、それぞれ少ししか習わなかった覚えがあります。頭の柔らかい十代の頃に、学校の授業で古文をもっと丁寧に学べていたら、今短歌でもっと美しい表現ができるだろうになあ、と思います。でも、今からでも遅くない!と信じて、手元に一冊だけある古文の参考書を最近読み始めました。
返信削除白樺さんのお歌、いつも言葉がとてもきれいですものね。いつかそんな美しい日本語を使いこなせるようにと夢見て、今日も参考書で勉強します。
コメント読みました。古典に挑戦しているのですね。先日尾崎左永子先生が、近著「王朝文学の楽しみ」を送って下さいました。古典に於いては、現代日本で先生ほど知識の豊富な人はそれほど居ないのではないか、と思います。それほどの人でも、はっきりと「短歌は、その時代、時代の現代詩である」と言っています。私は以前から歴史的仮名遣いのあるものは、現代の言葉には無理のあるものがあるのではないか、例えば「言ったり」などの促音を「言つたり」と大きな「つ」を書くことなど、と思っておりました。星座の主筆である先生は、「これから星座では歴史的仮名遣いの中でも「言ったり」と、小さな「っ」で書くようにする」と発表しました。私も大いに納得いたしました。現代短歌では、文語と口語がミックスされて、時にはカタカナ語も交えながら、使われています。文語であれ、口語であれ、カタカナ語であれ、その言葉が一首の中にしっかりと溶け込み、韻律を醸し出しているなら、それは受け入れるべきだと思いますが、文語だから美しい言葉遣いだ、として無理やり一首の中に入れても、とても違和感を覚えますし、心の篭らない一首になってしまいがちです。しかし、古典は古典で大いに学ばねばならない、文学の一分野だと思います。古典を読むにも、他人の歌を鑑賞するにも、どうしても古語や古語文法は必要になります。このブログを通して大いに質問をして下さい。答えるために、会員の皆様も学ばなければなりませんので、活動が活発化することでしょう。白樺さんがブログを提案し、こうして開設してくれました。この場を大いに利用し、学習の場にみなさんでしていくとともに、会員同士の近況報告にも利用できると思います。白樺さんに感謝し、大いに利用しましょう。
返信削除尾崎左永子氏の古今和歌集、新古今和歌集(集英社文庫 わたしの古典シリーズ)をもっています。最後の5章は「百人一首と王朝和歌」で日頃馴染みのある百人一首と王朝和歌の歴史的背景など興味深く読みました。文語の教科書にあるような古典の抜粋ならともかく、一つの作品全部をを最初から文語で読むのはなかなかとっつきにくく、現代訳でまづ読んでみるのもよいと思います。でも古典の訳者によって意味合いや風体などが異なると思うので、できることなら原文で読んでみたいものですね(注釈に頼りながら)。短歌で歴史的仮名遣いと現代仮名遣いのどちらを使うかにつては色々な人の意見がありますが、昔から歴史的仮名遣いを守ってきた結社でも最近は現代仮名遣いでもよしとするところがあると聞きます。考えてみれば普段書く文章は現代仮名遣いで、短歌だけ歴史的仮名遣いというのも変な話ですが、歴史的仮名遣いのほうが韻律にぴったりと調和してくれることも確かだと思います。でも心がこもっていれば現代仮名遣い、歴史的仮名遣いにかかわらず人の心をうごかすことができるのですね。
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