2020年9月1日火曜日

八月の短歌と合評

 

担当: 宇津木千代

元歌: 抽斗の中で笑みゐる亡き友を如何せんかは 整理の手止む

最終歌:抽斗の中で笑みゐる亡き友を如何せんかは 整理の手止む

今月の歌として、今回は自分の歌を選びました。と言いますのは、合評の中で、私の歌への興味ある講評がありましたので、そのことについて書きたくなりました。右掲の歌に対して「抽斗の中の友とは写真のことでしょうか写真と入れるとはっきりしますねということですが、歌はある面、読者とともに膨らますことができる、読者が深める、考える余地を残しておくことが、歌に奥行きをもたせます。余りに白日の下にすべてのことをさらけ出して詠った歌には、面白みや深みはありません。また、「枝が落ちる」という当たり前の表現を、「枝が離れていく」と異化表現することによって、歌をより昇華させることが出来る。ただそのままを詠えば、散文と変わりがないのです。

(深沢)抽斗の中にあるご友人の写真でしょうか。手放せないしどうしたらよいのかと自分なら途方にくれてしまいます。思い出の品の保存方法をご存知の方どうかご教示ください。よく理解できる一首です。

(北里)抽斗の中の友とは写真のことでしょうか。写真と入れるとはっきりしますねす。「如何せんか」は「如何にせんか」と「に」が必要では。結句の内容、共感できます。私も実家の整理をしなければならず、頭が痛いです。(千代: 歌は読者とともに作っていく、あまりすべてを白日の物に晒してしまったら、何の面白みもないありきたりの歌になってしまいます。葛原妙子の有名な歌「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて」「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」二作とも名歌と言われている歌ですが、“酢は立てり”を“酢の瓶は立り”としたら、だれでもすぐ理解出来ましょうが、何の深みもない歌になってしまいます。また、二作目の“ゆふぐれの水”を、ゆふぐれの水たまり“とかしたら、台無しにしてしまいます。読者が参加できる、ああだこうだと言える歌が、奥行きを持たせます。私の歌は拙歌ですが、出来る限り歌は異化の表現をすると、深みが出てきて、歌に重さが加わります。ただ日常を詠えば、すぐ理解できますが、歌は理解できるからいい歌とはなりえないと思います。)

(白樺)断捨離という言葉がはやっていますが、特に思い出のつまっているものを捨てるのはかなりの決心が要るようですね。

相当長い間(5‾10年)眠ったままで、時々出し入れをして、見たり、使ったりしない物は処分するということを何かで聞きました。「如何にせんや(いかにせんや)」と「如何せんかは」(いかがせんかは)のニュアンスの違いはありますか? (千代:“や”は、単なる疑問ですが、“かは”となると、反語的意味が加わります。“どうしようか、どうしようもできない”というような)