2018年2月10日土曜日

1月の短歌と合評

担当:深沢しの

 今月は宇津木さんの短歌を選びました。五感の嗅覚から思い出を回想することが出来るのですね。五感の使い歌が上手く、嗅覚を味覚に転換したような部分が新鮮でした。この句には、一読して心を摑まれました。藤原定家も感覚を越境する手法を得意とし歌を詠みましたが、これらの技法は近代にも通じるのだと感じました。


  ミカンの香は暗き思ひ出ケンタッキーに夫待ち独り身重で食む

(北里)匂いが記憶を呼び起こすということはありますね。悪阻の時に無性に食べたくなったのがミカンだったのかもしれません。語調が定型から外れているのは意図的でしょうか。地名が字余りになるのは致し方ないですが。現在形は臨場感を生むといいますが、結句は思い出の話なので「食む」と現在形ではなく、過去形にした方が自然ではないでしょうか。現在形だと詠み手が今身重ともとれしょうです。(千代:暗き思い出ということで思い出なのですから、形は現在形であっても、誤っての理解はないと思いますが、例え誤ったとしても、歌はすべて真実にそって詠うべき、ということはないのです。歌そのものの評価であり、歌と即作者をむずびつけることは危険だと思います。読者の中で膨らんでいっていいもので、まったく違って解釈され、ああそんな解釈も成り立つのだ、と思うこともしばしばだと、そしてそれはそれでいいのだと、ある作者は語っていました。 確かに定型は短歌の中心にありますが、古語で詠っている時には、5,7調とか7,5調とか、言葉がそのようになっていたのですが、現代になり、口語で歌を詠うことが多くなると、外国語も加わり、5,7では窮屈で、歌の意図が通じないこともあり、語調の乱れはあちこちにあります。特に永田和弘の歌など、全く短歌の定型を無視しているような歌ばかりですが、でもどこかで語調があるのです。今の短歌界は、初心者には定型を先ず習え、ということですが、なんと言いましょうか、特に若者の歌など定型無視がほとんどです。

 (白樺)ミカンの香り」が作者の過去の思い出を呼び覚ましている着想がよいと思います。
 (深沢)香りが契機になることもあるのですね。語調は多分意図的では?


最終歌: ミカンの香暗きケンタッキーの思ひ出よ 身重で独り夫待ち食みし