2016年12月26日月曜日

12月の合評

担当:白樺


短歌を作る時に誰でも陥りやすい傾向として観念の空回りということがあります。
嬉しい、楽しい、悲しい等、私たちの感情や主観をそのまま述べて読み手に理解をしてもらうことは簡単ですが感動にまで訴えることは難しいと思います。
ここが散文と詩の違いであり、難しいところです。
観念の空回りをさけるには、まず具体的動作で心や気持ちを余情として読み手に伝えるということがあります。
北里さんの歌の例では、「期待」「不安」が作者の観念で、読み手にとっては作者が期待と不安を抱えているのだなと理解はできますが、感動が余情となって伝わりにくくしています。
推敲後の歌ではこの観念語はありませんが、結句の「残り一年」に含められた作者の未来への思いが読み手に余情となって伝わります。

原歌:   新しい手帳に家計簿日記帳 期待と不安 数字が踊る

(千代)新しい手帳ですから、家計簿にも日記帳にもまだ“踊る”ほどの数字が書かれていないのでは?)(北里)数字はカレンダーの数字だったり、これから書きこまれるものであったり、「踊る」は脳裡に踊るというイメージでした。白樺さんは伝わると言ってくださいましたが、少し無理があるのかもしれません。
(中井)体言止めばかりで歌としての流れがないですね。ある日の日記そのものという感じ。
(白樺)「数字が踊る」の表現でこれから書き入れようとする数字に作者が感じているであろう期待感と不安が伝わります。言葉の間にスペースが「踊る」にリズム感を加えています。
(深沢) 昔はずっと家計簿をつけていました。毎年新しいものを手にした時の心情がよく理解できます。

最終歌:    新しい手帳に家計簿日記帳 定年に向け残り一年(ひととせ)



2016年12月2日金曜日



担当:北里                                                                                                                

11月の題詠は「磨く」でした。物だけでなく技や腕、知性や美、世の中にはたくさん「磨く」ものがありますので、みなさんが何を題材にして歌を作るのか、楽しみにしていました。今回は「ガラスを磨く」といった生活に根差した切り取りが多くみられました。その中で、宇津木さんの、安楽死させた犬を思いながら「爪を磨く」、という切り取りはちょっとショッキングでもあり、目を引きました。私にも飼っていた犬が死んでしばらく立ち直れなかった経験があります。ペットも家族同然で生活している私たちにとって、その死は大きな悲しみを生みます。最初、「爪を磨く」行為に隠された思いを少し測り兼ねましたが、下記のコメントを読み、最終歌を読んでうなずけるものがありました。ペットだけでなく、家族や愛する人を亡くしたとき、どのように現実を受け止め、残されたものとしてどう覚悟を決めていくか、誰にとっても他人事ではないと思います。

(千代)可愛がって一日たりとも一匹で置くことなく、助手席に乗せて連れて出ていた犬です。突然後ろの2足が動かなくなり、ドクターに連れて行ったら、全身癌と言われ、14歳の犬にはもうこれ以上何もできない、と言われました。安楽死させねばならない犬を詠いたかった。

原歌;死なしめし犬の最期のわななきを想い出しつつ爪を磨けり

<合評> 

(しの)犬の爪を切るのは怖くてできなかったことも自分の爪を磨くことで思い出されているのかもしれませんね。

(北里)立ち会ったのですね。勇気がありますね。結句の「爪を磨く」はどういった想いがあっての行為なのか、その心境を想像しかねました。(千代:爪を磨くことは、結構リラックスしている時が多いような気がしますが、ただ爪を磨いているとあれやこれや思いめぐらすことが出てきます。その隙間に、あまりに悲しすぎて、心に封印している“その時”が侵入してきます。そんな時の歌です。)

(中井)ここにも安楽死の犬ですか。割と冷淡な諦念の心情が浮かんできます。

(千代:そうですね、この歌の感じですと、諦念というよりちょっと冷酷な感じを受けかねないですね。本当は思い出すたびに今でも涙があふれているのですが・・・)

(白樺)ペットの死は事故か病気か老衰がもたらしたものかは分かりませんが、とても悲しいお歌です。生と死という境目が過ぎ去れば、時は日常に戻り何事もなかったように流れていく定めを結句の動作で表現されているように思います。



最終歌:爪磨くそぞろに這入り来 死なしめし犬の最期のわななきの声