原歌;「通りゃんせ」ゼブラゾーンに流るれば何処へ行かむ晩秋の帰郷
8月の詠草は「音楽をテーマにした歌」でした。おもしろい歌がいろいろ出されましたので、どの歌を取り上げるか迷いましたが、宇津木さんの歌にしました。選んだ一番の理由は、「通りゃんせ」という曲名を具体的に上げていて、歌を一読しただけでそのメロディ音を伴った映像がパッと脳裏に浮かんだからです。具体的に曲目をあげている歌では、白樺さんの「赤とんぼ」もありましたが、短歌を読んでから「赤とんぼ」の歌を思い出してみる、と少し時間が必要でした。それはそれでなんら問題はありません。この歌に惹かれたのは、交差点の信号機で流れる「通りゃんせ」のあの不思議な機械音による何とも言えない哀愁のあるメロディが、私の心のどこかに強く残っていたからかもしれません。合評にも書きましたが、日本で暮らした年月よりも国を離れた年月の方が長くなり、大切な身内や友もだんだんといなくなり、帰国しても何となく淋しい、心の行き場を失くしているような状況を思いました。「お通りなさい」と言ってもらっても、はしたしてどこへ行ったものか。確かな足取りで横断歩道を渡る者もいる中で、強く望む目的地もなく、さ迷える心で交差点に立ったことが自分にもあったような。そんな記憶があり共感します。
話が逸れて恐縮ですが、「通りゃんせ」の歌詞については、いろいろな怖い説があり、その点も私は興味深いのです。暑い日も減ってきましたが、涼しくなりたい人、怖い話が好きな人はネットで検索してみてください。夜に読むと怖さも一層増します。 (萩)横断歩道に流れる「通りゃんせ」のメロディは日本でよく耳にします。大勢の人がいながら自分を見失ってしまいそうな、取り残されるような目に見えない感覚を歌いこんでいると思います。
(中井)「通りゃんせ」が、と「が」を入れる方がいいと思います。また、全体に色んな要素を入れすぎて散漫になっていると思います。(千代: 一語一語別々のものではなく全体がつながっているので、すべて必要な言葉なのです。) (北里)交差点での童謡は単純化された機械音に代わり、最近はあまり聞かなくなったように思いますが、大都会の交差点を思い浮かべさせます。長く祖国を離れ懐かしく感じたり帰るべきと思える場所もなくなり、心の行き場をなくして1人佇む姿が、人がせわしなく行き過ぎる交差点の無機質感と対比され、さみしさが一層つのる様子が秋の夕暮れとマッチしています。自問自答で「行かむか」と「か」は入れなくてもよいのでしょうか。(千代:“か”は、必要ありません。“かむ”はどこへ行こうか、という意味が含まれていますから、わざわざ“か”は入れなくてもいいと、思います。) (白樺)「ゼブラゾーン」とは直訳すればシマウマの模様のように白線がある地帯という意味で、いわゆる歩行者が渡る白線のひいてある渡り道とは違うようですね。あまり見かけたことがありません。Googleでは直進車を規制する地帯という意味もあるようですが。「通りゃんせ」の音楽と旅券と査証が必要な旅をつなげた発想がユニークです。(千代:ゼブラ・ゾーンは、和製英語で、日本ではあちこちで見られますね。ゼブラゾーンでもいろいろあり、信号のところにあるものを、私は詠みました。田舎に行くと、よくあると思います。)
最終歌;「通りゃんせ」ゼブラゾーンに流るれば何処へ行かむ晩秋の帰郷