2015年5月15日金曜日

4月の短歌と合評

担当:白樺

今月は北里さんの歌をとりあげます。

原歌: ガラケーは肩身の狭い心地する右も左もスマホ操る

現代の風潮を切り取った一首。
テクノロジーが目まぐるしい速さで変る時代に生きるアナログ人間は、言葉そのものの変化にもついてゆけない時がある。
以前の私の歌に「デジカメ」という言葉を使った歌がある。その歌を読んだ一人曰く、「デジカメ」とはどんな種類の亀なのか?
私も多分に新語や造語に遅れ気味のところがある。「ガラケー」とはケータイすなわち携帯電話であることは想像できてもはたして「ガラケー」とはどんなケータイを意味するのか?
その時代の新語や造語を短歌に取り入れることは新鮮味があって面白い試みだが、アナログ人間も、デジタル人間も、老いも若きも考慮に入れて分かりやすい言葉に置き換えてみるのも必要かと思う。
                         
(萩)今はほとんどスマホなのでガラケーは肩身が狭いというのはよくわかりますが双方にある良さは違うので個人の好みですよね。。“心地する”が少し説明的な感じを受けるので“ガラケーは肩身の狭し世の中は右も左もスマホ操る”と考えました。  
(白樺)“ガラケー”の意味が分かりませんでした。カタカナの省略語でで現代現象をうまく掴んだところがユニークです。どこを見てもスマートフォンをいじくっているのでというので、下の句と上の句を入れ替えてもよいと思います。)
(千代)よく現代風の情景が浮かび上がってきますね。私などまったくスマホ必要でないし(家でいつもパソコンに向えます)、携帯は、どこかへ出かけるときに通信用に必要なだけですので、まったく古いガラッケーをこっそりハンドバックに潜ませているだけです。取り出して使うときには、ちょっと恥ずかしいような思いがしますね。北里さんの歌、その辺の思いがよく出ていると思います。                                   
(中井)「肩身の狭い心地する」は意味がダブっています。「ガラケーに肩身の狭い日々なりて右も左もスマホを操る」ではどうでしょうか。余談ですが、今の日本ではガラケーに乗り換える人が増えていて、逆転現象が起こっている様ですよ。                                                        
 (北里)講評をありがとうございました。萩さんの講評を受けて2区切れとし最終歌のようにしました。


最終歌:ガラケーは肩身の狭し 世の中は右も左もスマホ繰る