豊潤なめくるめく季節の到来。私は、3月31日付で退職となり、いよいよ自由の身となりました。
すべてを振り出しに戻して改めて賽子を振りなおし、真っ白な絵本に好きな絵を描いていくような日々をスタートしました。
今月の歌は、「白樺ようこ
」
さんの歌を取り上げてみます。
題「新聞」◇広告の重さに耐えてほそぼそと薄き中身の新聞繰る朝
(萩)広告の方がメインのようになっているのですね。面白い視点でいいと思います。結句ですが声に出して読むと“新聞めくる”とした方がよりスムーズではないかと思いました。”朝“はなくても前半を読めば想像できますし。 (千代)いい視点だと思えます。“耐えて”は、“耐へて”ですね。ここでは“日本の朝”としてほうが、インパクトがあるのでは?そこで「広告の重さに耐へて身の薄き新聞めくる日本の朝は」 一例まで。
(北里)広告ばかり多くて、読むところないな、というようなことを言いたいのでしょうか。新聞に挟んである広告もありますが、ここでは新聞に掲載されている広告なのでしょう。「広告の重さ」に「耐えて」いるのは誰なのか、といった疑問がわきました。耐えているのは新聞自体ですか。「ほそぼそと」はどこにつながるのでしょうか。
(白樺:広告の重さに耐えているのは新聞自体です。 広告ばかりが多くなって内容的に密度のある新聞が稀少になっていく感じをうけています。従来の紙の新聞に限らず、テレビでもインターネットサイトでもメディアはこの傾向があるようです。)
(中井)新聞は反体制では成り立たず、都合の悪い記事は書かないのが宿命という中で、どんどん中身が薄くなっていくことへの不満。結句を言わずもがなの朝を省いて「薄き中身の新聞を繰る」としたいところですね。
(もも)結句は「朝刊操る」と言いたいけれど、題詠の新聞が入らないといけないですね。
推敲歌
◆広告の重さに耐へてほそぼそと薄き中身の新聞を繰る
この歌では「広告の重さ」は新聞には掛からず、「新聞を繰っている」作者自身に掛かっていると思います。「薄き中身の新聞」が広告の重さに耐えているのであれば、「広告の重さに耐える新聞を」としたいところです。また、「ほそぼそと」というのがどこへ掛かるかも不明で、作者が「ほそぼそと新聞を繰る」という意味だとしても、
副詞として
は不適当だと思います。
ほそ ぼそ【細細】( 副 )
①
非常に細いさま。ほっそりしていて頼りないさま。 「 -とした腕」
②
かろうじて続いているさま。 「 -(と)続く小道」
③
非常に貧しくやっとのことで暮らすさま。 「 -(と)暮らす」
この内、①に近いですが少し無理がありますね。
◆広告の重さに耐へる新聞の薄き中身をゆっくりと繰る
としてみました。
同じテーマで自分なりに詠んでみました。
■広告の比重増しゆく新聞の啓く朝(あした)は細々として